「感染症対策とのかかわり -厚生省時代を振り返って-」
伊藤 雅治 MASAHARU ITO (社団法人 全国社会保険協会連合会 理事長)
行政官として
今日は、感染症のことがテーマでございますので、私が感染症対策と、どのようにかかわってきたかということを最初に少しお話をさせていただきたいと思います。先ほど、岩﨑さんからお話がありましたように、インターン廃止闘争のため、我々が大学を卒業したのは、3月ではなく5月なんですね。当時は、医師の国家試験には口頭試問があって、私はその口頭試問の先生におたふく風邪のことを聞かれました。「どういう合併症がありますか」と、最初の1問は答えたんですが、2問目、3問目とできなくなりました。それで、「私は臨床はやりません。将来は行政官になりますから」と言ったら、「あぁ、それでは結構です」と言われて国家試験に合格させていただきました。こういう経緯でございます。それで、初めは県庁と保健所に勤め、1971年に厚生省に入りました。33年間の公務員生活中、19年間、感染症対策と関わってきました(スライド1)。
スライド1
公務員としての、いちばん最初の仕事として、「WHOの結核トレーニングコースに行きなさい」ということで、プラハにあるポスト・グラデュエイト・メディカル・スクールで結核対策の講義を受け、実習はインドのバンガロールでやらせていただきました。この時のことで、私が今でもいちばん記憶に残っているのは、この研修コースには世界から15~16人のドクターが集まっていたんですけれども、彼らは日本の結核対策のことを、「日本は結核菌と闘っているのではなく、レントゲンのシャドーと闘っているんじゃないのか」と言われたことです。当時の日本は、結核菌検査を非常に疎かにしていました。つまり、ずっと日本の戦後の結核対策というのは、集団で間接撮影をして、その写真ばかりを見ていた、ということです。結核対策における菌検査の重要性というのを、本当にこの時に認識しました。そんな公務員生活のスタートでございました(スライド2)。
スライド2
結核対策への関わり
その後、昭和46年4月に厚生省に入り、いちばん最初に配属されたのが、結核予防課でした。
そこでの最初の仕事が、翌年の沖縄本土復帰に備えて、結核対策をどうしていくかということで、結核研究所の先生方と一緒に、宮古、八重山を含めて、沖縄をずっと歩きました。
その時に感じたことは、アメリカの統治下にあった沖縄の結核対策は、きちんと菌検査を重視していて、そして在宅治療の面でも、本土より、一言でいえば、グローバル・スタンダードに近かったということです。
それがその当時の印象でございます(スライド3)。
スライド3
スライド4
スライド4はプラハでの結核対策の研修の時の写真でございます。当時は、まだ30前で若いです。
スライド5
スライド6
もう一つ、結核対策の時の仕事としてですが、リファンピシンという薬があります。このリファンピシン以後、現在に至るまで、全く結核の新薬というのは出ていません。厚生省に入って最初の仕事が、リファンピシンを結核の公費負担医療に導入するということを巡って、大蔵省と折衡するための資料作りでした。当時、リファンピシンは、チバガイギー社が開発して、第一製薬が発売していました。これ以降、実は結核の新薬は出ていないんですね(スライド5)。
その後、国際協力事業団(現・独立行政法人国際協力機構、JICA)に行きました。当時、ベーシック・ヒューマン・ニーズということが非常に強調されており、結核対策も含めて、いくつかの感染症対策の技術協力、それから無償資金協力に関与させていただきました(スライド6)。
スライド7
そして、その後、大臣官房審議官として、WHO関係の仕事をやらせていただきました。スライド7はWHO総会に行った時の部会での写真でございます。この真ん中に座っている人が、例の変な男に刺殺された山口剛彦事務次官(当時)でございます。
スライド8
その後、保健医療局長になり、1999年に伝染病予防法、性病予防法、エイズ予防法の廃止をしました。そして、感染症新法が施行されます。保健医療局長時代は1年間と非常に短かったわけですが、このようなことをさせていただきました(スライド8)。結核対策の面では、当時は特に高齢者の結核、そしてその耐性菌の結核が非常に増えているということで、緊急事態宣言が出され、「結核対策は、感染症新法とは別体系である」という形になったわけでございます。
スライド9
スライド10
その後、結核対策については、いろいろなことが行われてきておりますが、その中で一つだけ申し上げますと、DOTS(ドッツ)という、保健師さんなどの目の前で、患者さんに確実に服薬をさせる方法があります。このDOTSというのは、元々途上国での結核対策でとられた手法ですが、それがこの日本のような先進国に、10年、20年のタイムラグの後に、本格的に導入されたということがございます(スライド9)。また今、結核対策で、日本にはいろいろと国際社会で果たしていく役割があると思いますが、「ストップ結核パートナーシップ」という、「結核予防会と行政が一体となって、途上国を支援していきましょう」ということが、今行われています(スライド10)。
エイズ対策とエイズ予防法
スライド11
スライド12
次に、エイズ対策との関わりを、4つの時期に整理して申し上げたいと思います。一つは感染症対策室長としての時期、それから大臣官房審議官として関わった時期、さらには保健医療局長としての時期、そして現在、ということでございます。感染症対策室長としては、一口で言うと、エイズ予防法案を国会に提出した時です。審議官としての4年間は、いわゆる薬害エイズの被害者の人たちと、いかに恒久医療対策をつくるか、と協議をしたことです。そして、保健医療局長の時に、その10年前に感染症対策室長として一生懸命取り組んだエイズ予防法を廃止するという、そういう巡り合わせもあったわけでございます(スライド11)。
エイズ予防法案の提出の経緯でございますが、昭和61年から62年にかけて、松本に滞在していたフィリピン人女性の事件ですとか、高知県でのHIV感染者の母親からの出産事例などがありまして、本当にもう日本中が大騒ぎになり、そしてエイズ対策関係閣僚会議が開かれました。閣僚会議が開かれるということは、大変なことなんですね。そして、「後天性免疫不全症候群の予防に関する法律案」を国会に提出しましょう、ということになったわけです(スライド12)。
スライド13
このエイズ予防法案を巡っての、厚生省、与党の考え方は、特にエイズ予防対策、その中でも、疫学サーベイランスの実施には法律の裏付けが必要だ、というものでございました。しかしながら、輸入血液製剤被害者のグループですとか、血友病患者のグループ、日本輸血学会等、いろいろな団体が「薬害の感染者の救済が先決だ」として、その他の学会も支持しない、という中で推移してきました(スライド13)。
私は当時、石田吉明さんと厚生省でお会いしたり、京都のご自宅まで行ったこともございますが、いろいろやり取りをしました。石田さんが中心になって、「エイズ予防法案を撤回せよ」という主張、スライド14は朝日新聞の論壇ですが、こういうものも出されました。
スライド14
それに対して、私も「エイズの予防には法の裏付けが必要だ」ということで、「決して、血友病患者を管理するというような心配、懸念は必要ないんです」ということを、いろいろスライド15のような新聞紙上を通じてもやり取りをしましたけれども、その当時は、なかなかやっぱり理解していただけませんでした。
スライド15
しかしながら、今からこのエイズ予防法を振り返ってみますと、我が国におけるHIV感染は、血友病の人たちの薬害から始まったという事情、これはアメリカなどとは非常に違っていたということですね。そして当時、厚生省の政策立案者は、私自身も含めて、治療法のない感染症に対する知識が不十分だった、ということを言わざるを得ないと思います。その後、カウンセリングについての国際的な動向というのは理解するようになりましたけれども、当時のHIV感染というのは、「感染すること=死」という、そういう形になっていて、医学的な対応というのは、ほとんど選択肢がない、という状況だったということです。そして、政策立案者と患者団体の関係として、要求する側と要求される側が、エイズ対策の法制化については、なかなか一致点が見出せなかった、ということだと思います(スライド16)。
スライド16
薬害エイズとの関わり
スライド17
スライド18
その後、この薬害エイズについては訴訟になりまして、国と製薬企業が訴えられるわけですが、平成8年に東京地裁の和解勧告を受けて、東京、大阪の原告団が求めた治療研究機関を含めての恒久医療対策をどうするか、ということで、原告団との話し合いが始まったわけでございます。この協議の対象事項としては、感染者に対する医療対策全般、つまり治療研究機関だけではなくて、未承認薬の早期導入、差額ベッド代等の問題も含まれています。これは、平成8年の3月11日に第1回が始まりまして、厚生省側の座長といいますか、取りまとめ役を、当時の事務次官から、私が担当しろ、ということになりました。当時、私は科学技術担当審議官でした。そして、協議の課題の中でも、このエイズ治療研究開発センターが最大の課題でして、輸血感染症治療研究センター、これを新設しましょう、ということだったわけでございます。そして、恒久医療対策全体の中で、特にこの治療研究開発センターがいちばん重要だということで、それだけを取り出して、設立準備委員会を設置しましょう、ということになりました(スライド17、18)。
スライド19
スライド20
設立準備委員会は、平成8年7月から平成9年3月まで、10回開催をいたしまして、ここに書いてあるようなメンバーでいろいろ相談をさせていただきました(スライド19)。ここには、東京・大阪の原告団と弁護団にも入っていただいて、やり取りをいたしました。そして、平成8年12月9日、第7回目の時でございますが、基本的には、設立準備委員会として了解する、という形で大枠が決まったわけでございます(スライド20)。そして、最終的には、第10回目の設立準備委員会で確認書という形でまとまりました(スライド21)。
スライド21
スライド22
当時、このエイズ治療研究開発センターについては、「国立病院の1部門の中で、行政のコントロールが強くなるようなことは、まずいのではないか」ということで、それをどういうふうに担保するか、ということについてのやり取りがいろいろございました。そして、このエイズ治療研究開発センターについては、厚生省令できちんと明記をするというようなこととか、センター長については副院長格と同等であるとか、それから、コーディネーターナースをはじめ、いろいろなことを、最終的には確認をさせていただきました。そして、総勢63名の体制で、コーディネーターナースなども設置しましょう、ということも決めました。これは考えてみると、ようやくこの段階で、政策立案者と原告・弁護団の協働が始まったのかなと思います。診療の経験、能力のある適任者の配置、選定に当たっては、原告、弁護団の意見も十分配慮して進める。これはどういうことかというと、当時の厚生省の中での一般的な常識としては、こういう国の付属機関のトップや医師、看護師の人事に、外から口を出すのは考えられない、そういう時代でございまして、そういうことについても、私が今振り返って申し上げるのも気が引けるのですが、十分そういうご意見を伺い、ご相談をしながら、医師、看護師の人事などを進めさせていただいた、と申し上げておきます(スライド22)。
スライド23
スライド24
その後、エイズ予防法廃止を経て、平成11年にエイズ予防指針の策定、それから平成17年に検討会という形で続いて参りました。そして、エイズ予防指針の基本的な考え方ということで、このようなことが、その後進められています(スライド23、24)。
多様化するHIV感染症の課題
スライド25
現在、この関係の仕事としては、エイズ治療研究開発センター、ACCと呼んでいますが、そのACCの運営協議会に、委員として1年に1回か2回出席しております。私の立場は、学識経験者という立場で、原告・弁護団と厚労省、それから国立国際医療研究センターの間でのやり取りを聞いて、最後に発言を求められますが、私がこの場で、やはりいちばん気を使っているのは、いかにこの設立当初のACCの基本的な理念が忘れられないようにして役割を果たしていくか、ということです。そんなことから、今、このACCの役割も、出発当時とは非常に変わってというか、多様化してきております。つまり、HIV感染者の医療問題が非常に多様化している、ということです。当初、考えられなかった肝炎ウィルスとの重複感染への対応ですとか、肝移植の問題、食道静脈瘤の対処、リポジストロフィー、長期療養の課題、それから血友病医療そのものをどうやって充実していくか、そういうことが今、課題になっているわけでございます(スライド25)。
スライド26
スライド27
厚生労働省や国立国際医療研究センターには、人事異動がございます。しかし、薬害エイズの被害者の方というのは、それはもうずっと変わらないわけです。だから、そういうACC設立の原点や、当初の理念を忘れることなく、この新しい課題に、いかに適切に対応していくかというのが、いちばん基本の役割だというふうに考えております(スライド26)。そして、これからのエイズの中長期戦略をいかに作っていくのかということが今、課題になっているのではないかな、と思っております(スライド27)。