フォーラム取材報告
特定非営利活動法人 ネットワーク医療と人権 事務局 清瀬 孝介
開催日時:2015年11月7日(土)13:30~16:30
開催場所:大阪人権博物館(リバティおおさか)リバティホール
【第1部 実態報告】
報告者:
高町晃司氏(スモン)/吉田氏(薬害ヤコブ病・代読)/豊福愛子氏(薬害肝炎)/
内藤由里子氏(サリドマイド)/出元明美氏(陣痛促進剤)/小山昇孝氏(薬害エイズ)/
上野秀雄氏(MMRワクチン)/廣村温子氏(薬害筋短縮症)
パネリスト:
増山ゆかり(公益財団法人いしずえ)/中西正弘(スモンの会全国連絡協議会)/
佐藤清子(薬害肝炎全国原告団)/友枝理恵子(薬害肝炎全国原告団)
司会:
花井十伍(全国薬害被害者団体連絡協議会 代表世話人)
はじめに
2015年11月7日、リバティおおさか(大阪人権博物館)にて行われた「第17回薬害根絶フォーラム」に参加しましたのでご報告します。薬害根絶フォーラムは、1999年8月24日、当時の厚生省敷地内に薬害根絶「誓いの碑」が建立されたことを契機に結成された全国薬害被害者団体連絡協議会(薬被連)が主催して毎年行っており、医療関係者はもとより、広く学生や一般市民まで多くの人に薬害に関して考えてもらうためのフォーラムです。リバティおおさかは、ちょうど薬被連主催の企画展「薬害を語り継ぐ」の開催期間中ということもあって、200人を超える参加者とともに盛大に行われました。
第1部では例年通り、薬被連を構成する各薬害被害者団体より被害実態の報告が行われました(イレッサ薬害被害者の会は代表者が急遽欠席されたため発表なし)。第2部では、企画展「薬害を語り継ぐ」にちなんで、パネルディスカッション形式で本企画展に対する思いが語られました。
第1部 実態報告
第1部の様子
スモン:高町晃司氏
スモン(SMON)は「亜急性・脊髄・視神経・抹消神経障害(Subacute Myelo-Optico-Neuropathy)」の略称で、整腸剤「キノホルム」を服用したことによる薬害です。
高町氏は4歳でスモンを発症、視力を失いました。子どもの頃は自分の病気のことやその原因などは気にすることもなく、学生時代までは充実した日々を過ごしました。しかし、就職活動をする段になると状況は一変します。視力障害があるというだけで、ほとんどの企業から断られ、就職試験さえも受けさせてもらえませんでした。資料すら送ってもらえないという企業もたくさんありました。この時に初めて自分の認識の甘さを痛感し、何か秀でた能力を身につけるためにイギリスへ留学しました。イギリスでは社会全体で障害者を支える環境が整っていることに感銘を受け、大学院で国際関係論の修士号を取得しました。こうしてようやく自分も社会に貢献できるという希望を胸に帰国した高町氏を待っていたのは、就職試験さえ受けさせてもらえなかった大学卒業時と何ら変わらない現実でした。その後は、一部の理解ある人に支えられて仕事を持ち、なんとか社会と接点を持って現在に至っています。
高町氏は、京都スモンの会の理事に就任したことにより、自分よりも困難な状況にある人の存在を知り、自分のことだけではなくて他の患者のために何かできることはないかを考えるようになりました。そして、そのことによってますます社会の無理解や偏見が重く、強く感じられるようになったと言います。今後は、生活基盤を持たずに孤独を強いられている仲間たちが充実した生活を送れる制度を求めていきたいと訴えていました。
薬害ヤコブ病:吉田氏
薬害ヤコブ病は、脳外科手術などの際に「クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)」の原因物質であるプリオンが混入したヒト乾燥硬膜「ライオデュラ」を移植されたことが原因でCJDを発症した薬害です。代表者の薬害ヤコブ病東京訴訟原告である吉田氏が欠席されたので、同じく薬害ヤコブ病東京訴訟原告・中野裕子氏が吉田氏のメッセージを代読する形で実態報告が行われました。
吉田氏の母は1983年に頭部の手術を受け「ライオデュラ」を移植、1987年にCJDを発症しました。全く病名も原因も分からないまま、あっという間に症状が進み、無言無動の状態になりました。そして23カ月もの闘病生活の末に亡くなりました。このことが薬害であると知ったのは12年後、当時の主治医からの連絡でした。かけがえのない最愛の家族の命を、企業や行政によって理不尽に奪われた無念さは筆舌に尽くしがたいものがあります。
今後の課題としては、今も長い潜伏期間を経て新たに発症する被害者が報告されている点が挙げられました。このような悲惨な出来事が繰り返されることのないよう、薬害を語り、伝えることで、薬害の根絶や被害者の救済につながることを願っているとのことでした。
薬害肝炎:豊福愛子氏
薬害肝炎は、C型肝炎ウィルスが混入した血液製剤が出産や手術の際に止血目的で大量に使用され、多くの母親や手術を受けた人がC型肝炎に感染した事件です。
豊福氏は1986年の次女出産時にフィブリノゲン製剤を投与され、C型肝炎に感染しました。子どもが生まれるといういちばん幸せな時期に体調を崩し、母乳をあげることもできず、主治医には「運が悪かった。でも命が助かったのだからよかったと思いなさい」と言われました。さらに三女には母子感染していることが判明し、いっそ心中してしまおうかと考えた時もありました。そんな時に次女に言われた一言で、強く生きる決心を固めたと言います。「私が生まれてきたからお母さんが病気になったんだ。お母さんを困らせてごめんなさい」
今後の課題として、繰り返される薬害の連鎖を断ち切るには第三者監視組織の設置は絶対に必要であり、国民の命より企業利益が優先されることなどあってはならないと豊福氏は強く訴えました。
サリドマイド:内藤由里子氏
サリドマイドは鎮静・睡眠剤として1950~60年代に販売され、その催奇形性により手足や耳などに障害を持った被害児が多数生まれました。内藤氏は聴覚に障害を持っているため、手話通訳による発表になりました。
内藤氏が自分の障害がサリドマイドによるものであると知ったのは10歳の頃でした。将来を悲観した母親から「お母さんと死にましょう」と言われた時に、「お母さん、私は死なないよ。生きます」と答えたというお話が印象的でした。また、サリドマイドによる障害は人によって様々なので、口話や筆談など、いろいろな工夫をして患者仲間とはコミュニケーションをとっているというお話も興味深いものでした。ただ、離れたところで手を振ってくれている人に気づけなかったり、また神経痛など様々な症状に襲われたりといった苦労や加齢に伴う不安も語られました。
無理だと思っていた出産も経験した内藤氏は、あまり苦しみばかりを深く考えるよりも、パッと明るく、少しぐらいわがままを言って過ごしたいと言います。今後医学が発達し、いろいろな症状で苦しんでいる人たちの苦しみが少しでも和らいでほしいと願っているとのことでした。
陣痛促進剤:出元明美氏
陣痛促進剤(子宮収縮薬)は、出産時に子宮を収縮させ陣痛を誘発したり、強める時に使用される薬です。この薬でいったい何が起こっているのか、出元氏は自身が受けた被害を交えながら、スライドでデータを示し、陣痛促進剤による被害についての説明をしました。
陣痛促進剤は感受性の個人差が200倍以上あるとされており、感受性が高い場合には非常に強い陣痛が母子を襲うことになり、その命を脅かします。陣痛促進剤は、その使用方法に問題があります。出元氏が示したデータによると、病院では土曜、日曜に生まれる子どもの数が平日に比べて少なく、時間で見ても、昼に生まれる子どもが多く、夜中に生まれる子どもは極端に少なくなっています。それに比べて、自然分娩を扱っている助産所ではこのように極端に差があるデータは出ていません。これは、陣痛促進剤を使用することにより分娩を人為的に、医療施設側の都合で操作しているのではないかと疑うに十分なデータです。
出元氏ら陣痛促進剤による被害を考える会は、長年にわたり添付文書改定の交渉を厚生労働省や医薬品医療機器総合機構と続けています。防ぐことができるはずの被害をこれ以上繰り返させてはいけない、一人ひとりのお産が全て安全で、かつ母子にとって本当の意味で幸福なものとなるように願っているとのことでした。
薬害エイズ:小山昇孝氏
薬害エイズは、1980年代初めに米国売血由来の非加熱血液製剤を使用していた日本の血友病患者の約3分の1がHIVに感染した事件です。小山氏はスライドを示しながら、自身が受けた被害も交え、薬害エイズの経緯を説明しました。
エイズに関しては、治療薬の開発も進み、今ではHIV感染症が原因で亡くなる患者は少なくなっています。しかし、HIVと重複して感染したC型肝炎ウィルスによって肝臓が悪化して亡くなる患者が増加しているとのことでした。小山氏の友人もC型肝炎が原因で亡くなっているとのお話がありました。また、現在では薬害エイズで家族を失った遺族の深刻な状況も問題になっています。差別や偏見への恐れ、家族がとても辛い状況の中で亡くなった姿が目に焼き付いていることなどが原因で、約60%もの遺族がPTSDになっているとの報告もありました。
最後に、厚生労働省の前庭に設置されている薬害根絶「誓いの碑」を紹介しながら、行政や医療関係者に、改めてこの碑に書かれている内容を思い出してほしいと訴えていました。
MMR ワクチン:上野秀雄氏
MMR ワクチンは、はしか(M)、おたふくかぜ(M)、風しん(R)の3つの病気を同時に予防できるという触れ込みで、1989年から4年間使われたワクチンです。多くの子どもたちに副反応が続発し、使用が中止されました。上野氏は自身の娘・花さんが被害を受けました。上野氏はスライドを用い、花さんの受けた被害とリンクさせながら、MMRワクチン薬害事件の経緯を説明しました。
花さんのケースでは、そもそも副反応の問題が報道されていたMMRワクチンを接種させるつもりはなかったものの、医師の強い勧めにより意に反して接種させてしまったことが紹介されました。副反応に対する医療関係者の認識不足や期限切れワクチンの使用、ワクチン培養方法の無断変更、副反応被害に対する行政の拙い対応など様々な問題を挙げ、これらは現在の子宮頸がんワクチンの問題にもつながるのではないかという問題提起がされました。
薬害筋短縮症:廣村温子氏
1960~70年代にかけて、風邪や発熱の症状を訴える子どもたちに対して不必要な注射が濫用されました。そのため、注射を受けた大腿部や上腕、臀部などの筋肉が成長過程で線維化し癒着して障害を起こしました。これを薬害筋短縮症と呼称しています。20分ほどの映像の後、廣村氏が自身の被害を訴えました。
廣村氏は生後間もない頃から数年間に受けた250回もの筋肉注射により、両足の大腿四頭筋短縮症を発症しました。両親は今でも「我が子に障害を背負わせた、人生を狂わせた」と自分を責め続けているそうです。薬害は被害を受けた本人だけではなく、その家族にも大きな影響を与えます。
筋短縮症の患者の多くは、座る時も足を投げ出した形にならざるを得ず、しかも外見からでは障害があるのか分からないので、何も知らない人からは「なんてだらしのない人なんだろう」と思われるのが辛いとのお話がありました。他にも多岐にわたる身体症状のお話が続き、「夜寝る時は誰にとっても至福の時間だと思うが、私にとっては地獄の時間の始まりだ」との廣村氏の言葉は、薬害筋短縮症の被害の熾烈さを如実に物語っていました。
第2部 伝えたいこと
第2部の様子
第2部では、リバティおおさかで開催中の企画展「薬害を語り継ぐ」にちなんで、4名のパネリストより、本企画展にはどのような思いが込められているのかが語られました。
まずは中西氏より、スモンの現状について「スモンが発症してから半世紀が経ち、被害者の多くはすでに亡くなっている。残された患者も高齢化し、介護の問題が非常に深刻になっている。解散するスモンの会も増えているが、見捨てられることのないように、最後の一人までがんばっていくつもりだ」と報告がありました。
企画展については、増山氏から「大阪はサリドマイドの闘いが始まった土地だ。そのような地で、このような企画展やフォーラムが行われることは非常に意義がある」とのお話がありました。佐藤氏は「薬害肝炎に関する展示を見ていると、和解前1年間の苦しい闘いが思い出される。他の薬害に関する展示を見ても、これだけたくさんの薬害が繰り返されているのかと改めて愕然とする思いだ」、友枝氏は「薬害を伝えていくためには、やはり薬害資料館が必要だという思いを新たにした。子どもや孫の世代に薬害が起こらないように、これからも自分のできることを続けていきたい」とそれぞれ話されました。
続いて、「薬害被害者として生きてきた中で得たものと失ったもの」というテーマに対して、増山氏は「サリドマイドの被害児の多くは死産、流産という形で亡くなっている。そういった意味で、私たちは本当に生き抜いてこられたのか、被害を乗り越えてこられたのだろうかという疑問は感じている。また、昨年は和解40周年を迎え、テレビでドキュメンタリー番組が放送された。その中でインタビューに答える被害者たちの姿を見ていると、山のような困難との闘いの中で、自分は本当に幸せだったのか、生きてきてよかったのか、生まれてよかったのかということを何度も何度も自問自答してきた人生だったことが伝わってきた。仲間たちのそういったたくましさがうれしい半面、ここまで生きづらさを感じながら生きてきたことが私たちにとって何を意味しているのか、私たちは何を得ることができたのかということを、私たち自身が再確認することができた」と話されました。佐藤氏からは「薬害肝炎は誰が被害者なのか分からない薬害だ。私たちも最初は自分が被害者だとは夢にも思わなかった。だから裁判闘争では『みんなに訴える』ということを心がけた。そのことによって私たちの意識も鍛えられた」とのお話がありました。
次に「裁判闘争時の和解に至るまでの苦労」について話が及び、中西氏は「本来ならば和解せずに、しっかりとした勝訴判決を確定させて国や企業の責任をはっきりさせたかったが、被害者はみんな運動で疲れ果てていた。だから不本意ながらも和解のテーブルに着く他なかった」と当時の苦しい胸の内を語りました。また増山氏からは、サリドマイド被害者の現状として、「我々は今『どう自分の人生を閉じていくのか』ということを考える年代になってきている。サリドマイド被害者として生まれた自分の人生がどういうものだったのか、最後までそこから目を離さずにいたい。我々にとっての『リベンジ』は何かと言うと、私はやはり『幸せになること』に尽きると思う。これから我々には加齢による二次障害など、さらなる困難が待ち受けている。それでも我々にできることは『精一杯生きること』しかない」とのお話がありました。
最後に、友枝氏より「次の時代に薬害がないことを祈って、自分のできることをこれからしていきたい」、佐藤氏より「薬害の根絶を訴える本フォーラムも今年で17回目を迎えた。これからも続けていき、いろいろな人たちに薬害を伝え、忘れられないように、繰り返されないようにしていかなければならない」、中西氏より「もうこんな苦しみは私たちだけでいい。この気持ちをずっと持ち続けて、今後もがんばっていきたい」、増山氏より「被害者が自ら語ることによって、多くの人に何が起きたのかを知ってもらうことが薬害の根絶につながる。『増山さん、もういいよ』と言われるまでがんばりたい」との各氏の決意表明があり、議論は締めくくられました。