【格闘編】「抗HIV治療」とは呼べない時代の苦悩と葛藤 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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【格闘編】「抗HIV治療」とは呼べない時代の苦悩と葛藤

上田 良弘(洛西ニュータウン病院 副院長)

血友病・HIV感染症といかに向き合ったか

 洛西ニュータウン病院の上田です。薬害エイズを振り返るにあたって、思い出したことが2つあります。血友病で生まれてくるのは、ほとんどが男の子です。私は1982年に血友病の診療を開始したのですが、その当時は血友病として生まれたら結婚してはいけない。もし結婚してしまったら、子どもを作ってはいけない。そういった時代でした。今ではほとんど聞かなくなりましたが、羊水検査をして、「女の子だったら堕ろしましょう。男の子だったら生みましょう」といったことも行われていました。伴性劣性遺伝の疾患ですから、血友病の男性が健常の女性と子どもをもうけた場合、男の子を生んだら100%健常で、女の子を生むと100%保因者になるはずです。ですので、女の子は「血友病の子を生まないように、この苦労をさせないように」と言われていたことを思い出しました。この頃はまだはっきりと「生んではいけない」という母親や父親がいたのを覚えています。
 それからもう一点、1982年のあの新聞記事です。後に大阪HIV訴訟の第2代目の原告団長になる石田吉明さんが、当時診察室に「免疫性を壊す奇病、米国で広がる」という記事が載った新聞を持ってきました。持ってきましたけど、何とコメントしていいのか、全然その頃は分からなかった。それを思い出しました。

 1986年にエイズパニックが起こります。それ以前は、「血友病だけでも大変なのに、そこにまたこんな感染症が起こってかわいそうだね」といった感じで、そんなに酷いことはみんな言っていなかったのですが、ここで突然人々の反応が変わりました。もう「業病」というか、アメリカでエイズというだけで家に火をつけられた人がいましたが、ああいう雰囲気に日本もなってしまいました。
 この当時、血友病を診るということはHIV/AIDSを診ることになるのですが、1986年にうちの病院で第一例の血友病のエイズ患者さんが死んでいます。それから次々と毎年のように血友病の患者さんが死んでいくのですが、当時京都でHIV/AIDSを診ているのは僕だけだったのです。誰にも相談できず、実際に各県に一人ずつぐらいしか診療する医者がいなかったのですが、そういう人たちを一斉に山田兼雄先生が研究班(厚生省HIV感染者の発症予防・治療に関する研究班)として集めてくれたのです。厚生省の、それこそ何百人規模という班会議でしたから、それだけたくさんの人が集まってきて、それぞれの地方での治療の状況や知識を交換し合いました。「燃え尽きずに済んだのはこの研究班のおかげだ」と、全国のこの時代の医者はみんな言います。

 上のスライドは、うちの病院が開院して血友病の診療を始めた時の患者さんの増加数なのですが、左側がHIV陽性の血友病患者さんで、右側がHIV陰性の血友病患者さんです。増え方が違います。HIV陽性の血友病患者さんだけが一方的にどんどん増えていってしまっています。この原因として、一つには診療拒否があります。京都で有数の大学病院でも断られた人もいます。もう一つは、家の近くの医療機関にかかれない、かかりたくない。「私の秘密がバレてしまったらどうしよう」ということで引っ越してくる人たちです。

 1987年にAZTが承認されました。これは素晴らしい薬だったのですが、ここからしばらく開発は止まってしまいました。1992年にはddIが誕生します。ここで初めて併用療法も視野に入ってきます。1996年にHIV訴訟が和解になって、d4Tまでは厚生省の仕組みに縛られていましたから単剤治験をするしかありませんでした。AZTを使っていた人にAZTをやめてd4T を使う。ddIを使っていた人もd4T単独にする。そんなものは効くわけがありません。和解の時の条件として、「アメリカと同じようにHIVの治療薬の環境を整えてください」、「アメリカで発売されたら、ほとんど時間を置かずに日本でも出せるようにしてください」ということで、今までやっていた治験をやめてしまって、アメリカの資料を見て認可しようという動きが始まりました。

 1986年、ここにこだわったのは、この年に私が初めてHIV/AIDSの患者さんを看取ったからです。その時に使えた薬として、PCP(ニューモシスチス肺炎)に対してはバクタ(S-T合剤)、ペンタミジンがありました。これがもしこの時代になかったら、もっとたくさんの人が死んでいたと思います。


 真菌に対してはフルシトシン、ミコナゾール、アンフォテリシンBという薬がありました。フルシトシンという薬は確かに効きます。でも、すぐに効かなくなる。耐性化するのです。ですから、もうあっという間しか使えない薬です。ミコナゾールもよく効くのですが、点滴でしか使えない。だから患者さんは家に帰れない。やめたらすぐ悪くなります。この頃はまだHAARTのような抗HIV治療がない時代ですから、同じ感染症、あるいは別の感染症を繰り返すのです。一つ治しても、次から次へと現れます。また同時に2つ、3つの感染症を起こしてくることもあります。日和見感染症といわれるものです。ですから、ミコナゾールは効くのですが、患者さんを帰せない。退院できません。アンフォテリシンBというのも注射剤です。今は安全な薬ができましたが、当時は「これで死なすかカビで死なすか」という選択を要求されるような非常に毒性の強い薬です。パッケージには「毒薬」の「毒」と書いてある薬なのです。
 アメーバ赤痢に対してはメトロニダゾ-ルがありましたが、日本の血友病患者さんたちはアメーバ赤痢にはほとんど罹りませんでした。MACなどに対しては、抗結核薬とクラリスロマイシン、アミカシン、ニューキノロンぐらいはあったのですが、これもまた結構耐性化が起こります。1年間ずっと熱が出ては下がって出ては下がって・・・ということを延々と繰り返す人がいました。帯状疱疹にはアシクロビル、結核には現在の抗結核薬、これぐらいが1986年に使えた薬です。これで私たちはエイズに立ち向かったのです。

治療薬の発達と今後の課題

 1986年にPCPであると思われる人を治したのですが、肝硬変で亡くなりました。この後、1987年にはPCP、カンジダ性食道炎、サイトメガロウィルスの回腸潰瘍と順番になっていった方がいました。一つずつ治していったのですが、この方は最後には失血死しました。この時に解剖させてもらった知識で、1990年のサイトメガロウィルスの盲腸潰瘍は治すことができました。その前にサイトメガロウィルスの網膜炎があるのですが、これは全く治療法がない時代だったので、あっという間に失明して、べッドから転げ落ちて脳出血で死んでしまわれました。この時にガンシクロビルという薬があることを文献で知りました。でも日本に入ってきているのかどうかが分からなくて、当時はネットで検索なんてことができる時代ではないですから、一生懸命自力で探してみたら、骨髄移植のグループがそのサイトメガロウィルスの薬を治験していました。それを分けてもらって、1990年のこの症例に使いました。この方もすごい下血で、全開で輸血してもしばしば血圧が測れなくなるような状態でした。しかしこのガンシクロビルは劇的に効きました。「こんなによく効く薬ができたんだ」ととても驚いたのを覚えています。

 1996年にいろいろな抗HIV薬が開発されて、しかも信じられないスピードで日本に導入され、それを併用して使うというHAARTが確立したのが1997年です。ここからエイズで死ぬ血友病患者さんは激減しました。
 HAART後の主な死因は肝硬変や肝がんです。その多くの方は、死亡時のHIVウィルス量は50コピー/ml以下でした。当時、ウィルス量は50までしか測れなかったのですが、50コピー/ml以下ということは、もう流れる血液の中にウィルスはいない状態だと思われていました。今は20コピー/mlまで測れて、なおかつ「20コピー/ml以下」と「検出せず」に分かれます。「検出せず」というのが、流れる血液の中にウィルスがいない状態ということになります。
 HIV感染症は何とかコントロールできるようになったのに、肝硬変や肝がんで血友病患者さんが亡くなっている状況は未だに続いています。やはりこれも一つの薬害です。この方たちは、みんな1aタイプなどの日本にはあまりないC型肝炎ウィルスに感染されています。これはアメリカに多いウィルスなのですが、HIVと一緒にC型肝炎にも彼らは罹りました。HAARTによってエイズはクリアできたのですが、今は肝臓で死んでいっています。

 1987年にAZT、92年にddIが出て、96年にはたくさんの薬ができました。最初はAZTを単独で使っていて、おまけにこれを12錠も飲ませていました。これは副作用がきつかったのです。先ほど言った山田班で、10何人に使って、8割から9割は飲み続けられなくて途中で挫折しました。次にddIが出てきた時は、どうやって使っていいのかが分からない。AZTをひと月飲ませて、次にddIをひと月飲ませる。そんなこともやっていました。当時の人たちは、みんなエイズを発症してからだいたい1年から2年で死んでいったのですが、AZTとddIを両方使うことによって、初めて余命が1年持ちました。AZTとddIを併用することで、「1年伸びたな、この人の寿命」というように感じられました。そして、そこへプロテアーゼ阻害薬であるサキナビル(SQV)やインジナビル(IDV)、リトナビル(RTV)を加えることによってHAARTが完全に完成したのです。ただ、インジナビルやリトナビルはすごく副作用が強く、「あれを飲んで30分ぐらいは、じ~っと横になって寝ているんです。下手に動いたらゲボッと出てしまいます」という感じで、飲む回数も多いですから、結局ほとんど一日中寝ていないといけないわけです。そういう時代でした。
 AZTが出た時も、みんな我先に集ってくるわけではありませんでした。「これを使ったら私がエイズだと分かってしまう」、「健康保険の人が気づくだろうか」ということを心配して、誰も手を出さない。もう死にかけている人しか飲まない。山田班で無料で配って「使ってくれ」というような事業もやっていました。

 これは僕が言う部分でもないのですが、今後の課題としては肝炎がまだ残っています。時間に余裕のある学生さん達などはもうインターフェロン治療も全部どんどんやってしまって上手くいっているのですが、就業者の方々はなかなかそうもいきません。また、インターフェロン治療に失敗した人もいます。もう一つの問題として、血友病の人は結婚していない独身者が多いということがあります。重度の関節障害や、あるいは子どもの時の脳出血などで、知的にも肉体的にも自立できていないような人たちの世話をしていた両親が高齢化して死んでいくと、そういう人たちに対して、それこそどこの誰が福祉の手を差し伸べてくれるのか分かりません。そういう深刻な事例が増えつつあります。