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特別寄稿

「薬害HIV感染被害問題をめぐる物語世界」

松山大学 人文学部 社会学科 教員 山田 富秋

イントロダクション

 このたび「輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究委員会」の委員であった山田富秋氏より、MERSニュースレターに寄稿いただきました。
 山田氏は、2010年11月7日名古屋大学で行なわれた第83回日本社会学会シンポジウム「社会学と時間」のパネラーとして発表を行ない、本稿は、そのシンポジウムで発表された内容が元になっています。

著者紹介

山田 富秋(やまだ とみあき)
松山大学 人文学部 社会学科 教員


1955年北海道生まれ。東北大学大学院文学研究科博士課程修了(社会学専攻)。早稲田大学博士(文学)。専門は社会学の一学派であるエスノメソドロジーと社会問題研究である。そのなかでも、シュッツに始まる現象学的社会学とエスノメソドロジーの理論的架橋を試みる。薬害HIV感染被害について医師と被害者の聞き取り調査に加わり、質的社会学とライフストーリーの立場から、この被害をめぐる「生きられた経験」に迫ろうと努力している。著書『日常性批判』『老いと障害の質的社会学』『ライフストーリーの社会学』など。

日本社会学会シンポジウム開催概要 日本社会学会ホームページより

○ シンポジウム2 社会学と時間
日時:2010年11月7日(日) 13:20~16:50
教室:経済学部棟 第1講義室
司会者:蘭 由岐子(神戸市看護大学)・池岡 義孝(早稲田大学)

  1. 物語の時間と社会の時間
     千葉大学 片桐 雅隆
  2. ライフストーリーの「物語世界」と想起 -薬害HIV感染被害問題をめぐる語りを題材として-
     松山大学 山田 富秋
  3. 社会学的評伝における時間の諸相 -清水幾太郎研究を事例として-
     早稲田大学 大久保 孝治
  4. グローバルな秩序形成における集合的生命の時間
    -時間-空間と生命環境のサステナビリティとノンリニアリティ-
     慶應義塾大学 小川(西秋) 葉子

討論者:桜井 厚(立教大学)・荻野 昌弘(関西学院大学)

ライフストーリーの物語世界の自律性

 私は養老孟司を委員長とした「輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究委員会」(2001~2010年)に調査チームの一員として参加した。その調査結果は『医師と患者のライフストーリー』(2009)という3分冊に結実した。この最終報告書は、薬害HIV感染被害問題に関わった医師13名と患者・家族18名のライフストーリーから成っている。彼らの語りの内容は多岐にわたっているが、どの語りも固有の「物語世界」を保持している。桜井厚(2002)は、過去の出来事が想起される実際の場面として、インタビュアー(調査者)と対象者(語り手)のローカルな相互行為を「ストーリー領域」と呼び、そこで語られた過去の出来事を物語世界と呼ぶ。私はこれまでストーリー領域におけるインタビュアーと対象者の相互行為に着目してきたが(山田, ひつじ書房)、ここで中心的に考察するのは、私たちインタビュアーに圧倒的なリアリティと「物語的真実」(クラパンザーノ)を持って迫ってくる物語世界である。私たちはそこで一定の自律性を持った物語世界の出来事に立ち会い、クラインマン(1989=1996)の言う「道徳的証人」となることを要請される。

 桜井厚は物語世界の自律性について、それを歴史学の証拠に当たるものとして解釈している。たとえインタビューがインタビュアーと対象者とのアクティヴな相互行為であることを認めたとしても、インタビューは語り手自身の身体的苦痛や病いの経験、あるいは日記などによって限定づけられている。つまり「いかに語り手が自己をよくみせようと演出したり聞き手の聞きたいことに合わせたりして、<いま-ここ>に適切なライフストーリーを構築しようとしても<物語世界>で展開される物語のプロットには、歴史学で<証拠>といわれるものに相当する、物質的記憶(個人的記録)、社会文化的記憶(伝承)、心理的記憶(トラウマ)という一定の限定がつきまとっているのである。(中略)<物語世界>は、語り手主導によるプロット化の限界に従う程度に応じてインタビューの場から一定の自律性をもった物語、過去のリアルさをもって成立しているものとして理解できるのである」という。(桜井, 2005 , p.46)

 私たちの9年間に及ぶ調査プロセスを振り返るなら、最初私たちは、収集したインタビューの語りに単純な調査仮説をあてはめ、それらを因果論的に組み立てるという作業から始まり、最後にはそうした調査者側に比重のある操作を捨てて、語り手の物語世界に適切な文脈を補い、それによって物語世界をそれ自身の見地から理解しようとする試みで終わった。最終報告書に収められたライフストーリーの特徴を一言で要約すれば、患者・家族だけでなく医師の語りもまた「病いの語り(Illness narrative)」として特徴づけられる。なぜなら、この問題に関わった人々はみな、多かれ少なかれ何らかの苦しみ(suffering)を経験しているからだ。その意味では、薬害HIV感染被害問題に関わった人々のライフストーリーは、身体的・心理的苦痛によって限界づけられた物語世界を提示している。私たちが精力を傾けたのは、1980年代~1990年代おける医師と患者の置かれた個別具体的な状況について当該状況に固有の文脈的知識を獲得することだった。すなわち、彼らが当時どのような血友病治療の文脈におかれたのか、また、HIV感染やエイズの症状自体が不明確であった状況において、どんな具体的な対応が個別の人間関係の中で模索されたのか、それを医師や患者の不安や希望の文脈も含めて明らかにすることである。その意味では、私たちの研究はこの問題について「コンテクスト依存型の関係的知」(ベナーとルーベル, 1989=1999)を産出してきたと言える。

 近年、想起することが個人的・心理的な現象ではなく、むしろ社会的・協同的な作業であることを指摘する研究者が多い。(松島, 2005)その文脈において、アルヴァックスの集合的記憶論が頻繁に参照されるようになった。(片桐, 2003 ,浜, 2010)桜井厚(2005 , 2010)の整理を借りれば、それは現在の時点から再構成される構築主義的な歴史の側面への注目とも考えられる。その意味では、過去は誰がどのような文脈でどのように再構成するのかという問題と緊密に結びついており、記憶の再構成の仕方や妥当性をめぐって政治的な争いが発生することは避けられない。例えばこの問題についての「記憶の政治学」はしばしば真か偽か、あるいは善か悪かといった二元論を用いた単純化を通して闘われてきた1)。だが私がここで提示したいのは、こうした単純化された記憶の政治学に抗する物語世界の自律性と、歴史の多様性である。トンプソン(2000=2002)が指摘するように、歴史的現実は「複雑で多面的」(邦訳, 24頁)である。また集合的記憶が個人の記憶を決定しているわけではなく、むしろそれは個人が特定の文脈で語るという行為を通してしか伝えられないものである以上「記憶の集合性の境界は不確か」(同書, 239頁)である。さらにまた、ライフストーリーは現在の記録であると同時に過去からのメッセージも保持している。つまりそれは「より古いメッセージと古い言葉の表現を残したまま、新たなメッセージを追加する」(同書, 293-294頁)と言えよう。アクティヴ・インタビューが主張するように、語り手も私たち研究者と同様に、アクティヴに歴史を作り出す主体であることを踏まえれば、私たちができることは、個別の語り手の物語世界の自律性を認めながら、それらが組み合わされて作り出す多元的な過去を、つまりオーラルで多声的なヒストリーを、そのまま丁寧にたどることである。この作業を通して、多元的な物語世界が組み合わされて作り出される「新たなメッセージ」を聞くことも可能になるだろう。

(注1)浦野(2007)はハッキングの議論を援用しながら、過去の事実の不確定性を認めた上で、記憶の政治学を調停するための確定的な条件が不在であることを混乱と呼ぶ。しかし注目すべきは、この混乱それ自体を積極的な現象として取り上げ、いわば「混乱に寄り添う」(264頁)道を選択していることである。ハッキングは、フーコーの「歴史的存在論」にならって、この混乱を成立させている論理と由来を記憶の実定性にまでさかのぼって解明しようとする。確かに私がここで明らかにしようとすることは、浦野やハッキングの目指すところとは少し違うが、彼らの指摘した「混乱に寄り添う方法」は大きなヒントになる。なぜなら、混乱という現象それ自体を疑似的な現象として解消したり否定したりするのではなく、むしろ個別の語り手の物語世界の自律性を認めながら、たとえそれらが矛盾したり、混乱していたとしても、それらが組み合わされて作り出す多元的な過去を、つまりオーラルで多声的なヒストリーを、そのまま受容する道が開かれるからである。

「薬害エイズ事件」の脱常識化

 まず私たちの常識に浸透したドミナント・ストーリー(支配的言説)としての「薬害エイズ事件」について簡単に振り返ろう。1980年代初頭に米国から輸入された非加熱血液製剤にHIVが混入し、血液製剤の頻繁な輸注を治療法としていた血友病者を中心にHIV感染が起こり、加熱製剤に切り替えられるまでの間に、日本の血友病患者の約4割(1400人超)がHIVに感染した。この問題は1989年にいわゆる「薬害エイズ裁判」として提訴され、1996年に和解した。この問題を構成する主要な言説は、旧厚生省(役人)、製薬メーカーそして医師の癒着を批判する非難言説である。詳細にわたる説明は控えるが、エイズの危険性を過小評価し、責任逃れを繰り返す役人、薬価差益を目当てに危険な非加熱製剤を売る利益優先の企業、そして「患者を死に至らしめ人生を台なしにしながら、薬害エイズ訴訟の被告席に着くことはなかった」(毎日新聞社会部, 1996)医師たちといった非難で構成されている。種田博之(2009)が「脱常識化」という言葉で的確に述べているように、私たちの調査研究の成果の一部は、この常識化した非難言説を脱常識化したことだと言えるだろう。というのも、この単純化された非難言説は、私たちのインタビューに答えた医師たちが置かれた、それぞれ個別の医療環境、疾病観(疾病認識)、それに治療の歴史的な変化といった具体的文脈をそぎ落としてしまい、個々の医師の具体的語りの理解を著しく困難にしたからだ(注2)。例えば、HIVの混入した危険な血液製剤の代わりに、加熱処理した血液製剤をできるだけ早く使っていれば、患者の感染をかなりの程度押さえられたのではないかという議論がある。例えば毎日新聞社会部(1996)は以下のように述べる。

 熱に極めて弱いHIV対策のため、国内で濃縮製剤(血友病A用)の加熱が臨床試験(治験)を経て、承認されたのは、ようやく85年7月(血友病B用の承認は同12月)になってから、一刻も早くと、血友病患者と家族は安全な加熱製剤の承認を待ち望んでいたが、米国より2年4ヶ月遅れ、大量感染を招いた。(17頁)


 ここでは加熱製剤がHIV対策であることが前提とされている。ところが私たちはインタビュー調査の開始時に次のような医師の語りに遭遇した。地方の血友病のセンター的病院に勤務していたAd医師は、加熱製剤の治験をどのように開始したかという私たちの質問に答えて「だから、それは治験は、だから、非常にその、まあ、肝炎対策のまあ、肝炎用に用意していた加熱製剤を使おうということでね、まあなっていました。まあ、いいんじゃないかっていうことで。ただ、それが明らかにいいかどうかっていうのはまだ分からない」と答える。薬害エイズ事件報道後の私たちの「後付け」的知識に従う限り、「肝炎用に用意していた加熱製剤」という説明が理解できない。というのも加熱処理はHIVウイルスを不活性化するための技術であり、肝炎対策の目的があったなど初めて聞くことだったからだ。したがって加熱製剤が「明らかにいいかどうか」という疑問が治療現場の医師から生まれていたことなど、まったく想像の及ばないことであった。さらに蘭(2005)が指摘するように、もともと肝炎対策用の製剤によって自分の患者が肝炎に感染したという事実は、Ad医師にとって加熱製剤に対する信頼を揺るがすような出来事であった。また山田(2009)でも指摘したように、この点から見れば、裁判の終結以降に出版された資料を中心に薬害エイズ事件について学んでしまうと、私たちの医師へのインタビューそのものが、薬害エイズ事件のドミナント・ストーリーを背景にして、事実上、医師の責任を追求する場面になることもあったことは否めない。

 種田(2009a)はメディアによって流布された単純化された非難言説と調査から明らかになった医師の言説の違いについて的確にまとめている。つまり非難言説はエイズのリスクを重視した言説であるのに対して、医師は血友病固有のリスクを重視した言説であるという相違である。つまり薬害エイズ事件のドミナント・ストーリーは非加熱血液製剤を使用することによってもたらされるエイズのリスクだけに焦点を当て、血友病固有のリスクは考慮の外に置くという操作を行っているのである。したがって、私がここでしなければならないことは、薬害エイズ事件の構図から意図的に排除された医師自身の言説、つまり「医師の認識枠組み」(種田, 2009a)を明らかにすることである。結論を先取りして言えば、もちろん地域や治療についての情報に医師間で違いがあることも重要だが(例えば、東京在住ではないGd医師は1984年の国際会議で加熱製剤がHIV対策であることを初めて理解したと述べる。種田, 2009b , 415頁)、医師たちはエイズのリスクを常に念頭に置きながらも、目の前の血友病者固有のリスクを軽減するために、医師として「より良い」と判断した治療を実践しようとしてきたと言える。もちろん、エイズの危険性がしだいに明らかになっていくにつれ、この危機意識も時系列的なグラデーションを伴って変化していく。要約すれば、医師たちはエイズの感染率よりも発生頻度が高かった頭蓋内出血と血友病性関節症の治療のために、より効果的な濃縮製剤を「迷いながら」使うという行為を選択せざるをえなかったのである。例えば裁判でも最大の争点となったが、HIVの混入した危険な濃縮製剤の使用を中止し、それ以前の製剤であるクリオ製剤にもどすべきだったのかという論点について、種田は次のように指摘する。

 (前略)HIV/AIDSについて「不確実」な状況のもとで、クリオ製剤で治療をおこなうことは血友病患者に負担をかけることであった。血友病をより安全に治療するという視点からすれば、クリオ製剤での治療は適正な治療ではないとみなすこともできるのである。すなわち、血友病の危険性とHIV/AIDSの危険性とは二律背反の関係にあったことがわかる。安全とは「ある」/「ない」というよりも、いくつもの段階をもって現れるものである。言い換えれば、「どれだけ安全であればいいのか」ということである。医師は安全に対する配慮を欠いていたというわけではない。少なくとも、医師はHIV/AIDSに漠然とした危機感を抱きつつ、血友病をより安全に(良く)治療しようとしていたことは、言えるように思われる。(第1分冊, 419頁)


 医師たちにとって、なぜクリオ製剤での治療は適正な治療ではないと考えられたのだろうか。種田は「非加熱製剤はクリオ製剤のデメリットを小さくした(もしくはなくした)、より効能の高い製剤として評価されたのである。反対に、クリオ製剤は使い勝手が悪い過去の製剤という評価を下されることになった」(第1分冊, 61頁)と指摘する。さらに続けて「血友病治療における主要な考え方は、血友病を(積極的に)治療すること、とくに血友病特有の症状-例えば関節障害など-をできるだけ防ぐことであった。非加熱製剤は血友病特有の症状を防ぐことにうってつけの製剤、まさに望んでいた『極めて好適な製剤』であった」と結論している。種田の整理に従ったクリオ製剤と非加熱製剤の比較は以下の通りである。

クリオ製剤のデメリット:

  • 1mlあたりの第VIII因子量が少ないこと(低単位であること)。
  • 点滴によって輸注しなければならないこと。
  • フィブリノゲンやその他凝固に関係する因子を含有していたので、血流学的・止血学的な問題などがあったこと。

非加熱製剤のメリット:

  • 1mlあたりの第VIII因子量が多いこと(高単位であること)。
  • 1mlあたりの第VIII因子量が多いことで、輸注する総量が少なくなり、静脈注射で輸注できること。
  • 他の凝固に関係する因子の含有を少なくしたこと(第VIII因子に純化したことで)で、血流学的・止血学的な支障をきたす危険性が低いこと。

 クリオ製剤に代わって非加熱濃縮製剤が出現したことは、血友病治療にとって大きな福音であり、裁判時に問題になったクリオに戻るという選択肢は、濃縮製剤によってもたらされた医療の利便性を積極的に手放す「逆行」(種田)にうつり、実際の現場では大きな躊躇を引き起こすことであった。また、きわめて危険視された頭蓋内出血の発生頻度と1980年初頭のエイズ発症率を比べると、前者の方がはるかに高かった。1980年代半ばまでにおいては、HIV/AIDSが感染も発症メカニズムもわからない未知の病であったことを踏まえるなら、西田恭治(1996)の「比較衡量」論文をこの時点での血友病治療者の認識の一端を示すものと解釈できる。つまり「臨床現場では、日本国内での公式に認定された発症報告がなく、米国からの情報も前述のごとく0.1%以下という発症率の低さであったため、非加熱製剤を使い続けることによるエイズの危険性と非加熱製剤を使わないことによる出血の危険性およびQOLの低下を比較衡量した結果、大半の医師たちが“当面、十分な止血のためには、非加熱製剤でも使い続けることのほうがメリットが大きい”と判断した。患者に対しても、『安全だ』『心配ない』と説明し、非加熱製剤の使用を継続した」(54頁)という。しかし種田の考察に照らして再考するなら、この論文で使われている「比較衡量」という冷静な判断を連想させる表現は、あまり適切なものではないだろう。むしろ医師たちはHIV/AIDSについてリスクを適切に判断できない状況におかれたために、強い迷いを持ちながらも非加熱製剤を継続して使用せざるをえなかったのではないだろうか。

 ここで補足的に医師たちが当時、どのようにHIV/AIDSのリスクを認識していたのか言及することが適当だろう。学説史的には1983年5月にフランスのパスツール研究所において、L.モンタニエによってHIVが分離され、正体不明の病はウイルスによる感染症であることがわかった。しかし種田が指摘しているように「この時点では、HIVはAIDSの数ある原因の一つでしかなかった。HIVについての調査・研究はまさに始まったばかりであり、科学的に確固として言えることはごく限られたことであった」(種田, 2009a , 73頁)のである。また当時の日本において「確かに、AIDSとの関連で血友病患者の免疫異常が注視されもしたけれども、AIDSはあくまでもそのいくつもある原因の一つでしかなかったのである。そして、AIDSと血友病患者の免疫異常とを強く結びつける確固たる知識(証拠)はまだなかった」(種田, 2009a , 77頁)。また1984年には米国で抗体検査が開発されたが、検査の結果、抗体陽性とわかっても、それが何を意味するのか不明であった。常識では、抗体ができることは、抗原に対する免疫力がついたと理解されるが、HIVの場合は抗体は抗原を排除することができず、持続感染していることを意味するからである。種田によれば1985年以降もなお、レトロウイルス系の専門家以外では必ずしもHIV抗体の「意味」は正確には理解されていなかった。この状況は1987年から治療に携わったJd医師の語りによく表れている。

Jd:
 
最初は抗体検査だけでしかわからなかったので、当時は、抗体があるということはウイルスの病気に関してはだいたい治ってるっていうのがほとんど常識で、C型肝炎のように抗体があってもずっと生き続けるウイルスがいるとか、HIVがそのウイルスの一つで、抗体があってもウイルスは生き続けているとか、そういうことは証明されていなかったので、抗体が陽性っていう人は、治っているのか治っていないのかすらわからないし、どんどんエイズを発症するっていう人がいるのはわかってましたけど、みーんな発症するのか、ごく一部の人が発症するのかもわからなくて。(今から思えば)当時は感染してまだ間もない時期だったから、ごく一部の人しか発症していなかったわけですよね。だから、そのごく一部の運の悪い人が発病する病気、残りの人はまあ治っちゃったっていう病気なのか、今の認識のように全員がだんだんゆっくり悪くなって発病する方向に進むのかという認識もなかった時代でしたんで。HIVに関してはそうですね。で、どうしていくかに関してはちょっとわからないから、その間に検査を続けていくということだけでしたね。で、AZTが出始めて、最初はいつから始めたらいいかとかいうのがわからなかったので、まず悪い人から順番にはじめて、で、だんだん理解が進んでいくと、もうちょっと状況がいい人から出す方がいいっていうのがわかってきて、で、ひとつよりは二つ別々の薬をやる方がいいっていうのがわかって、で、三剤併用がいいっていうのがわかって今の時代になってきてると。(第2分冊, 644-5頁)


 ここで当時の医師の「認識枠組み」について簡単なまとめをすれば、医師たちはエイズのリスクを常に念頭に置きながらも、血友病固有のリスクを軽減するために、医師として「より良い」と判断した治療をしようとしてきた。この意味では、悪意を持って非加熱製剤の大量使用を勧める医師は、「薬害エイズ事件」のドミナント・ストーリーが持つ勧善懲悪的な図式が必要とした悪役にすぎなかったと言えるだろう。そして実際の医師たちは、それぞれが具体的に置かれた状況によって違いはあるものの、HIV/AIDSのリスクが不確実であることに迷いながらも、あくまでも医師の「認識枠組み」にしたがって「より良い治療」を志向していたと思われる。ところが重要な点は、このことがすぐに患者の「認識枠組み」にとって良い治療として評価されるということとイコールではないことである。ここに医師と患者の「認識枠組み」の乖離を見て取ることができる。

(注2)ここで血友病治療の歴史的変遷について説明が必要だろう。血友病は血液凝固因子が通常と比べて非常に少なく、症状としては血が止まりにくくなる病である。外傷や打撲によって激痛を伴う大出血を起こし、出血部位(頭蓋内)によっては致命的な場合もあると言われる。患者にとって日常的な苦しみは、毛細血管が切れて起こる内出血である。治療法は、不足する凝固因子を補充するという対症療法的な補充療法があるだけである。ここで簡単に日本における血友病治療の歴史を表示すると、以下のようになる。

【1960年代まで】
 全血輸血が主な治療法であった。
【1967年】
 血漿から凝固因子である第VIII因子を抽出して作った血液製剤が製造認可を経て発売され、「クリオ製剤」と呼ばれる。「クリオ製剤」は1人から2人の血液から製造された。
【1978年】
 高単位濃縮製剤の輸入・製造販売を厚生省が承認する。この製剤の85%以上が外国からの輸入による。2000人から2万5000人分の血漿をプールして作られる。この時期は非加熱の製剤であった。高濃縮製剤はプールした供血者の母数が多いために、ウイルス感染の危険性と隣り合わせである。この時期に特に問題とされたのは肝炎ウイルスである。
【1983年3月】
 肝炎ウイルスを殺菌するための加熱処理技術を使ったトラベノール社の加熱第VIII因子濃縮製剤が、米国食品医薬品局(FDA)の承認を受ける。
【1985年7月】
 日本で加熱製剤の販売が認可された。この時点で日本の5000人の血友病患者のうち約2000人がHIVに感染した。


 さらにここでの文脈に関連した議論について詳しくは樫村志郎[2003、62-68頁]を参照されたい。

 血友病の疾病認識の大きな変化は、最初はクリオ製剤の導入によって、そして次に1970年代後半の高単位血液凝固因子製剤(非加熱)の導入によってもたらされた。それまでは、頭蓋内出血や関節症等によって「二十歳くらいまでしか生きられない」難病と認識されていたものが、これによって初めて、結婚、就職、高齢化といった常人のライフスパンを生きることが可能になる慢性疾患として認識されるようになった。濃縮製剤の開発によって、製剤の量自体が縮小され、簡便になったために、患者は凝固因子の補充のために病院にいく代わりに、濃縮製剤を自宅で自分で注射できるようになった。これが自己注射=家庭療法(Home Infusion)である。日本では自己注射が1983年に健康保険適用になると、家庭療法が全国に普及するようになる。このことは血友病者や家族、それに医師と製薬会社にとって、血友病治療の画期的な進歩と受け取られたようである。ところが、HIVの混入した濃縮製剤がアメリカから輸入された時期が、たまたまこの家庭療法の普及時期と重なったことで、この悲劇を生む舞台が形成されていく。

患者のライフストーリー

 それでは血友病の患者の「認識枠組み」はどのようなものだったのだろうか。もちろん、個々の患者の置かれた治療環境によって、この問題の経験の仕方も内容も違うことが予想されるが、ここではIp氏とGp氏という二人の患者の語りを取り上げて検討したい。まず西日本のある地方都市に生まれ育ったIp氏は1963年生まれであり、小学校時代を送る1970年代においてクリオ製剤を使った補充療法を受ける。その後、非加熱濃縮製剤の治療に転換し、それがもとでHIVに感染する。その間、就職と結婚を経験し、薬害エイズ訴訟の大阪原告団に参加する。

Ip氏

 Ip氏は濃縮製剤への転換時期については記憶がないが、クリオ製剤になった時に非常に良く効く薬だと思ったと語ったために、それならわざわざ濃縮製剤に変える必要はなかったのではないかと私たちは質問する。この質問の背後には米国由来の非加熱製剤の安全性が疑われ始めた時に、この使用をただちに中止し、それ以前のクリオによる治療法に戻すべきであったという非難言説の一部がある。ところが、Ip氏の答えは以下のように、私たちの予想外の答えであった。(第3分冊, 681-682頁、**は調査者を示す)

Ip:
 
正直ね、あの関節の痛みを除去する薬で命をとられたとしても、あの痛みに耐えるのとどっちがええっていったら、それはねえ、あの当時、じゃあ我慢したか言われたら、たぶん無理かないう。
**:
 
ただ先ほどの、AHFで十分だったんですよね。
Ip:
 ですからそれがね、その後の高濃縮製剤って、それだけ性能があったにもかかわらず、そこまで劇的に効いたという感覚がなかったんで。
**:
 
そうですよね、だとしたらクリオ、クリオというかAHFのまんまでもよかった?
Ip:
 
正直、医者次第だったと思うんですよ。今使いよるのはこういう数千人のプール血漿からやっとるから危ない、で、明らかに10分の1ぐらいの性能しかないけれども、それを考えたら、あなたの体のこと考えたらこっち、いうか、その時きっと僕は、医師、医師の価値観にまかしとると思うんです。非常にその、世間では非常に危ないって言われてるけど千人に一人ぐらいよ、だけどどうするなんて言われたら、じゃあ大丈夫だったらその性能のええ方使おうかって言うし、医者がやばい、やばい可能性が捨てきれんから昔のクリオに戻しましょうやって言ったら、たぶん医者まかせでいっとったんで、自分で判断しろって言われるのが一番困ったんじゃないかと思うんです、そん時。


 私たちの非難言説がここで覆されたのは、Ipさんにとって、血友病による関節出血の痛みを「我慢したり」「耐える」ことと、「痛みを除去する薬で命をとられる」ことがほぼ等価に捉えられているということである。支配的物語である非難言説は、「痛みを除去する薬」の危険性を一方的に強調するだけで、それが使われる目的である出血時の激痛を最初からその図式の中に組み込んでいない。そのため、クリオにせよ濃縮製剤にせよ、患者にとって血液製剤を使うことの「生きられた意味」がすっぽりと抜け落ちている。Ipさんは2回目のインタビューにおいても再度「血友病の痛み」が私たち調査者に伝わっていないと訴えた。

Ip:
 
これがわかってもらえないと、伝わらないのじゃないかと。どんなに薬害エイズとは何だったのかという研究いうか、調査をしても、その時になぜ医師は注射をやめなかったのか、母、親とか患者はどうだったのかっていうような、今なんか質問された製薬会社に対しての恨みとか、厚労省にしてもそうなんですけど。やはりあの痛みを経験して、唯一の治す薬という思いがあって、ですからたとえそのHIVに感染したとはいえ、特に自分の話をすると、ここまであの薬があったから生きてこられたんじゃないか。
**:
 
痛みをもっても。
Ip:
 
ええ。頭蓋内出血もやっとるんで、あの薬がなかったらたぶんそこで命が終わっとるやろうし。とてもやっぱり自転車に乗るとか、そもそもそう、通学、学校通学、今実際こうやって自分が杖もつかずにあるけとるのも製剤のおかげ。車椅子にならない。まがりなりにも一般企業にも就職もできたし、あるいは自動車の運転もできるまで生きれたし、みたいな。
(第3分冊, 726頁)


 ここで明らかになるのは、Ip氏の病いの原体験が出血時の激痛(「地獄の痛み」)にあり、それを一時的にせよ「唯一の治す薬」が血液製剤だったということである。確かにその薬のおかげでHIVに感染はしたが、二十歳までしか生きられないという当時の血友病観を背景にして「ここまであの薬があったから生きてこられたんじゃないか」と語る。学校に通えたり、就職できたり、自分の好きな自動車の運転もできる。これはすべて血液製剤があったこそだという。普通の人が腹痛で薬を飲むのとは全く違い、血液製剤は地獄の痛みの緩和のためにも、頭蓋内出血の緊急を要する治療のためにも、生きていくために必要不可欠な薬であったという。さらにまた、HIV/AIDSの経験よりも、原疾患としての血友病の経験の方がIp氏にとって卓越した意味を持っていることがわかる。彼にとって重要なのは血液製剤がないと生きていけないということであり、そのためにクリオか濃縮製剤のどちらが使われるべきかという問題は二次的な意味しかもっていないと言えるだろう。しかし製剤の選択については「医者まかせで」(注3)やってきたので、濃縮製剤のリスクを「自分で判断」することは困難であるという。Ip氏のこの語りは、桜井厚(2005)の指摘のように、血友病の身体的苦痛の経験がIp氏の物語世界を限界づける例になるだろう。次にこの語りをGp氏の語りと比較しよう。

Gp氏

 次にIp氏と年齢がほぼ重なるGp氏の語りを紹介しよう。彼は幼少の頃からの主治医であるXe先生が「聞く耳もってくれて、一緒に考えてくれる」(第3分冊, 485頁)ので、全幅の信頼を寄せていた。ところが、Xe医師が1985年に病死した後、次の主治医であるZe医師は同じ病院の他の医師も含めて、感染について知らせない(非告知)方針をとり続けたため、Gp氏の従兄弟も含めて、知り合いの多くが亡くなっていった。自身も1987年に感染していたらしいが、感染を知らされたのは1994年になってからだったという。彼は医師に聞いてみたいことは何かと質問されて「そうね、どうして告知しないで、告知を一切しないで、何もしないで死んでいく人たちをそうやってみていることができたんだろう、わかんないですけどね。救えるかもしれないんだから、もともとXe先生なんか、ある患者さんが、ちょっとでも生きておられるように治療して、明日にでも、もしあの、なんかいい治療法がみつかれば助かるんだから、というんで、その考え方でやっていたから、そういう話を聞いたことあって。(後略)」(第3分冊, 508頁)と語る。この語りからわかるように、Gp氏にとってXe医師が他の医師を評価する際の準拠点になっている。

 私たち調査者は、感染を患者に知らせたあとで、HIV/AIDSについての治療についても責任を持って当たっていく血友病の医師を多く見てきた。ところが、Gp氏の場合には、主治医たちは感染について患者に何も知らせないだけでなく、HIV/AIDSの治療も自分たちで学んでいこうとはせず、かといって、感染した患者を他科に紹介したり、患者の治療のために他科と連携することも一切なかったようだ。Gp氏は次のように語る。

**:
 
だから、私たちが今までインタビューしてきた医者のように、血友病の治療からHIVのことがあったからHIVの治療までやれる、守備範囲を広げた先生たちのことを聞いてきたんだけど、全然それをしなかった。
Gp:
 しなかった。
(第3分冊, 497頁)
Gp:
 
ほんとに患者のことを考えてくれているんであれば、あれじゃないですかね、やっぱり告知はして、結局その、どこが専門かっていう、専門のところに紹介状かなんか書いてデータかなんか持たせてあげて。
**:
 
だからそのお医者さんが必ずしも、そのXe先生みたいなね、お話うかがったタイプじゃなくて、成り行き上、そうなってしまうというか、自分はHIVの問題なんかやるとは思ってもみなかった。結果的にそうなってしまって、こうやらざるをえなくなって、やってんだ、という感じのね、そういうふうなタイプもいるんですよね。
Gp:
 
Xe先生だったらどうしてたかというと、たぶんあれじゃないですかね。感染症に詳しい先生のところにお願いにいって、HG病院とか。そことHG病院から連携とってもらって、自分も一緒に入って、自分一緒に勉強して。
(第3分冊, 511頁)


 ここでもXe医師がもし生きていたらと仮定して、他の医師たちの不作為とは対照的に、他科に紹介したり「自分も一緒に勉強して」少しでも患者の命を救おうとした医師として描かれる。またIp氏と同じように、Gp氏も濃縮製剤よりもクリオ製剤の方が良く効く実体験を持っていた。

Gp:
 
そうですね。だから、結局その、実際私なんかの感覚でいくと、濃縮製剤があれだったら、全然、クリオで良かったんですよ。
**:
 
クリオで良かった。
Gp:
 
クリオの方が良かったくらいで。
**:
 
早く効いたんですものね。
Gp:
 
早く効いたという感覚があったくらいで。だから、よく言われてるような、クリオ使ってたらなんかいけないなんていうようなことは全くなくて。なんかこういう命もてないなんてことは全くなくて。
(第3分冊, 531頁)


 ここでGp氏の語りをIp氏の語りと比較すると、クリオがよく効いたという感覚は二人に共通しているが、Ip氏にとっては切迫した血友病治療のためには医師の指示する薬剤であれば何でもよかった(「医者まかせ」)のに対して、Gp氏の実感覚はHIVが混入した濃縮製剤に転換するのではなく、クリオをそのまま継続して使うべきだったという主張に結びついていく。これは非難言説の一部を構成するものであるが、クリオがよく効いたという実体験に根ざしている点で、ドミナント・ストーリーとは異なるだろう。Gp氏が注射でクリオを輸注した経験を語った時、調査者が「点滴になるんでクリオにはもどせないと、ある医師から聞いた」と話すと、Gp氏は強い口調で以下のように応える。

Gp:
 
ありえない。だいたい、だって、クリオをどんだけいいと思ったかわかんないですもん。その、出始めて、これで十分だと思ったぐらいで、そしたら、このまた濃縮っていうのが出てきて、ていう流れですからね。で、やっぱりずーっとそうやって経験してきてる患者であれば、それはわかると思うんですけどね。聞いておれば、それが正しいこと言っているのかどうか。
(第3分冊, 533頁)


 このインタビューの時点(2005年)において、私たち調査者はようやく医師の「認識枠組み」を理解し始めたところであった。その結果、このインタビューのストーリー領域は、医師の「認識枠組み」を代弁する調査者とGp氏との論争のような様相を呈することになる。そして調査者が提示する「医師の認識枠組み」を否定する根拠は、実際にクリオが効いたという自分も含めた患者の経験であった。準拠点を自分も含めた患者の経験に取ることは、例えば次の語りにも見られる。蘭(2005)の医師インタビューを通して、肝炎対策で開発された加熱製剤によって肝炎が発生したので、医師が加熱製剤の使用を全面的に肯定するよりはむしろ、ある程度の躊躇があったという例を紹介すると、Gp氏は以下のように語る。

Gp:
 
だから、そこんところは、[アメリカの]対策はたぶん日本よりも早かったと思うし、実際は、非加熱使われていたのは、日本の方が高いわけですから、それでいくと、そういう情報が日本の医師になかったかというと、それはたぶんありえないことだと思うんで、だから加熱切り替わる、切り替えるあれが、どうかっていうんであれば、クリオに戻せばいい話でしょ。
**:
 
うーん。なるほどね。
(中略)
Gp:
 
当時、どうしてたのか。ほんとにそれ話題にして、ね、あのなんか患者救おうとしてどういうことしたのかね、そういうの患者にわかるようなことをね、普通考えて理解できるようなことをやってくれたのか、どうなのかね。じゃあ、そういうことだってあるし。実際、医師がどうこうって、お医者さんがエライからお医者さんのいうことがすべて正しいんじゃなくて、やっぱりやられていたことが実際どうなのかなあとわかるのが一番大切で、どういうことを語っていることが大切じゃなくて、そこに反省があるはずなんですよね。そこの反省の気持ちがあれば、今後の医療につなげていくことができると思いますよね。そこの反省がないのに、まだまだ自分たちの立場だけを守ろうっていうことを強調した感じのあれで、なんでそれでよくなるんですか、てしか思わなくて。やっぱり、前向きなことで、前進していくというんだったらいいんだけど、それだったら、そういうふうなことが強いんであれば、またこういうこと起こると思うんですよね。
(第3分冊, 544-545頁)


 調査者に反論して、加熱製剤への切り替えに疑問があるのなら、クリオ製剤へ戻すべきだったというGp氏の意見は、自分も含めた患者の実際の経験を準拠点とするところから導かれたものだろう。ここで重要な点は「そういうの患者にわかるようなことをね、普通考えて理解できるようなことをやってくれたのか、どうなのかね」と語っていることである。なぜならここには「医師の認識枠組み」はどうであれ、医師が少しでも患者の認識枠組みに近づく努力をしたかどうかという新しい論点が導入されているように見えるからだ。これは医師が自己の「認識枠組み」を踏み越えて、患者たちの「認識枠組み」に少しでもアプローチしようとしたかという問いかけである。もしそこで医師側から何のアプローチも見られなかったとすれば「自分たちの立場だけを守ろう」と映るのは、いわば当然のことだろう。ここでも「聞く耳もってくれて、一緒に考えてくれる」Xe医師の視点もGp氏によって参照されていると解釈できる。しかしながらここで留保すべき点は、私たちはGp氏の在住する地方の医師のインタビューを行うことができなかった。したがって、Gp氏の想定とは別に、この地方の医師の独自の「認識枠組み」(リアリティ)が存在している可能性もある。

 それではIp氏とGp氏の共通点と相違点は何だろうか。さらにまた、医師の「認識枠組み」と患者のそれとを架橋するにはどうしたら良いのだろうか。そこにこの調査から導かれる示唆点が現れるだろう。二人の患者の共通点は、二人とも自己の身体的苦痛に根ざした血友病の病いの経験に立脚して物語世界を提示していることだろう。それは私たち調査者に圧倒的なリアリティを持って迫ってくる。Ip氏にとってそれは出血時の「地獄の痛み」であり、Gp氏にとってはそれはクリオ製剤の方が濃縮製剤よりも良く効いたという経験である。しかし、二人とも信頼できる医師に出会っていながら、一方でIp氏は製剤の選択は医師にまかせており、他方でGp氏は自分の意志に反して、濃縮製剤に転換させられたという点で、医師を批判している。この相違点はどこから生じるのだろうか。この点は最後の結論において論じよう。

(注3)Ip氏の「医者まかせ」の態度は、一般的な医者への依存とは異なる。むしろそれは彼の治療歴から理解できるものになる。Ip氏はクリオ製剤の後期の注射による輸注が始まるまでは、近くの大病院に通っていた。しかし、交通渋滞の中を激痛をこらえながら大学病院へ行き、そこでも長時間待たされたあげく、自分の血友病のことにほとんど医療的な関心を持たない研修医が場当たり的な対応をする。しかも、研修医なので注射に何度も失敗する。Ip氏と家族はこうした状況に対して不平も言えない。それは以下の語りに出てくるように、「公務員みたいな感じ」の医師たちの対応に見えただろう。ところが、注射による輸注ができるようになり、近所の病院に転院し、そこでRg医師と出会う。(第3分冊, 688頁)

Ip:
 
で、大学病院のお医者さんがどちらかと言うたら、あの、あの、役所、役所言うか、役人言うか、いかにも公務員みたいな感じのイメージ、言ったら、一番近いかな。だけど、なんかこう、さっきの話じゃないですけど、何十発も失敗しよったのが、その先生が一発で打って、で、母親とぼく二人で、ほんまに声をそろえて、「あ、一発で入った」とか言って「すげえよ、これ」(笑い)
**:
 
笑い。
Ip:
 
ほんで、そのRg先生がきょとんとしておって「え、この、この血管によう入れんの」言うて「大学病院は」言うたら、「いやもう、十発はふつうですよ」言うたら、「医者やめたほうがええわ、それは」「こんだけ血管出とって、それはずすようやったら、医者やめたほうがいい」とか言う。で、よく覚えてないですけど、「自分もそんなに、血友病が詳しいわけじゃないけど、勉強して一緒にやろう」みたいな話があったしね。で、なんですか。そうですね。あとはまあ、一生懸命すごい診てくれたいう思いが自分もそうだし、もっと強いのは、母親やないかと思うんですよ。


 血友病に対する治療体制の整っていない大学病院からRg医師のもとに転院したことは、Ip氏と家族にとっては、治療環境の劇的な変化であったと思われる。担当医がつかず「誰も何も責任持ってない」状況と比較して、「自分もそんなに、血友病が詳しいわけじゃないけど、勉強して一緒にやろう」というO医師の誠実で責任ある対応は、経験を積んだ注射の技術にも増して、大きな安心感を与えるものであったことは想像に難くない。ところがその後、血液凝固因子を高単位で濃縮した非加熱の血液製剤が開発され、日本では1978年末に販売が開始される。これはIp氏が15歳くらいの時であり、自宅近くの病院に転院してから以降の時期にあたると思われる。尊敬すべきRg医師はほどなく実家の医院を継ぐために退職するが、Ip氏がHIVに感染したのはこの病院であった。しかし、医師への尊敬を基盤とした「医者まかせ」の態度は、そのまま変わらず維持されていったのではないだろうか。

結論 -医師の認識枠組みを超えて

 私がここで提示したことは、ドミナント・ストーリーを背景にして悪者とされ、長い間沈黙を強いられてきた医師たちの語りに、歴史的・社会的文脈を補ってやることで、医師たちの「認識枠組み」という自律性を持った個別の声が存在することを示したことである。これによって、医師たちが自らの置かれた状況の範囲内で「より良い医療」を実践しようとしながら、同時にエイズのリスクを適切に評価できずに従来の血友病治療を継続するというジレンマに陥り、「迷い」ながら治療を進めざるをえない状況を見てきた。これはフランクが指摘するように、医師たちが感じてきた苦悩を表現することで、自らの認識枠組みを超えて他者とコミュニケーションできる回路を開く可能性を持っている(注4)。しかしながら、それはまだ可能性の段階であり、どのようにしたらそれが実現できるのかは、ここで紹介した二人の患者の物語世界にヒントがあるだろう。横田恵子(2009 ,『最終報告書 第4部』)が指摘しているように、私たちの聴き得たライフストーリーの中で医師と患者との間にコミュニケーションが成立しているケースはごくわずかである。むしろ両者の間には「認識枠組み」の乖離が存在する。つまり、医師たちの立場に立てば、不確かなHIV/AIDSについて危険性を感じながらも、迷いながら治療を継続していることを率直に患者に伝えることができなかった。たとえそれを患者に説明した医師がごくわずかであるが存在したとしても、医師の直面したジレンマを理解することは、患者にとって困難だったのではないだろうか。患者がそれを判断するためには高度に専門的な知識が必要になるからである。

 それでは医師と患者の関係性が分断せずに継続していった契機は何だったのだろうか。Ip氏に戻れば、私たちの「いまでもお医者さんとの関係は変わらない?」という質問に、彼は医師に裏切られたと思っていないと応える。

Ip:
 
あの、おそらく、あの医師に裏切られとったら、ころっと変わったと思うんですよ。だけど、それから、ずーっといっしょで。あの、医師に裏切られたと思うてないいうか、その。
**:
 
ふーん。
Ip:
 
うん。ぼくのところでは診れないから、よそに行ってとかいうような感じじゃない。告知もGd先生だし、その後の治療とか。あの先生の場合、ほとんど治療はないんですけどね。
(中略)
Ip:
 
[「ぼくは血友病は診るけど、HIVは診ないよ」とか]なかったんで、つねに、どんなところから非難されたりとか、立場が大学のなかでかなり悪くなったっていううわさいうか、まあ、ほんまそうやったんでしょう。マスコミにでたり、で。それでもやっぱり辞めずにずっと、おったりしたんで、そこでなんか、ありますね。
(第3分冊, 687頁)


 Ip氏の語りの表現を取り出せば、「告知も」「その後の治療も」同じ医師であったので、「医師に裏切られた」と思っていないのである。つまり、長い間血友病を診てきて、その治療の結果、患者を感染させることになったHIV感染症の治療も、「ぼくは血友病は診るけど、HIVは診ないよ」ではなく、むしろ責任を持って行うという一貫した態度が、自己の「失敗」から逃げない姿勢を患者に伝え、それがある種の信頼関係を医師と患者の間に成立させているのではないだろうか。このことは、ある一定の医師たちに意識化された課題でもあった。例えば、次のBd医師は、HIV/AIDSについての治療も含めて、医師には道義的責任があると語る。

Bd:
 
やはり道義的な問題に対して。ですから自分たちがたとえば情報をどういうふうに処理したのか、いろんな意味でそれを認めて、通り一遍の言い方になるかもしれませんけど、誠心誠意対応するというか、その後の、ですね。治療というものも含めて、ケアを、誠意を尽くすということと。もう一つはやはり二度と繰り返さないように努力するという、その2つしかないんじゃないですかねえ。
(第2分冊, 296頁)


 Ip氏とBd医師の語りを背景にしてGp氏の語りを解釈すると、彼の場合には患者の認識枠組みにも進んで入っていこうとするXe医師が準拠点となっていただけに、その後のZe医師も含めた医師たちの対応のひどさがさらに浮き彫りになる。つまりこの地方の血友病の治療にあたっていた医師たちは、HIV感染について長い間患者に何も知らせなかっただけでなく、感染を知らせた後はIp氏の語りの通り「血友病は診るけど、HIVは診ないよ」という見放した対応しかしなかった。さらにまた、感染した患者を、より専門の近い感染症などの他科に紹介したり、患者の治療のために他科と連携するということも一切なかったようだ。おそらくここに、Ip氏とGp氏を分かつ分岐点が横たわっているのだろう。Ip氏は今ではもちろん「医者まかせ」の自分の態度を反省し、今自分がどのような治療を受けているのかについて積極的に把握しようと努めているが、少なくとも感染を知らせた医師が、その後の治療とケアに当たることで、医師がそこに踏みとどまって責任を取ろうとしていると感じている。しかしGp氏は医師たちに見放されたと感じ、その結果、医師を信頼することなどできない、医師の「反省の気持ち」を感じ取ることができないと語ったのだろう。

 ここで医師と患者の物語世界を照応させていくことで、新しいメッセージが生み出される。それは血友病治療という専門家の世界(「医師の認識枠組み」)に充足していた医師たちが、自分の患者を感染させたことがわかった時に、そこを超えて感染症治療の世界に入っていった。その専門知識については患者は理解できないと思われるが、感染させた病気を治療しようという「責任」と「誠意」は患者に伝わったのではないだろうか。それは養老孟司と村上陽一郎の対談(第1分冊「対談 養老孟司委員長+村上陽一郎副委員長 薬害エイズと世間 -医療と市民社会-」)にあるように、専門家の世界に充足し閉じこもっていた医師たちが、それとは別な患者の認識枠組みも含み込む共通言語を土台とした全く新しいプラットホームに移動する決断をしたと解釈することもできよう。血友病治療には、血友病を慢性疾患とみて、患者の生活をトータルにケアする包括医療が早くから導入されていたことに注目するなら、医療の専門家集団が患者の認識枠組みも含み込んだ共通のプラットホームに歩んでいくことも可能ではないだろうか。(山田, 2010参照)最後に、この調査にご協力いただいたすべての方に感謝いたします。

(注4)「レヴィナスの最も重要な教えは、苦しみが語り、その苦しみによって「他者」とされてしまったすべての者に対して、おそらくは証人になるという行為によって、名前のない苦しみを開かれたものとすることができるという点にある。苦しむ者は常に他者であり、衰弱し、孤立している。何であれ苦しみの物語を語るということは、人と人との間に対して、何らかの関係を持つことを要求する。すべての証言は、名前のない苦しみの半ば開かれた状態への応答である」(Frank 1995=2002 , 245頁)。

参考文献

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