鼎談2 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

Newsletter
ニュースレター

鼎談2

「HIV/AIDSをめぐるアドボカシーと人権」

特定非営利活動法人アフリカ日本協議会 国際保健部門ディレクター 稲場 雅紀 氏
大阪市立大学大学院 創造都市研究科 准教授 新ケ江 章友 氏
司会進行:特定非営利活動法人ネットワーク医療と人権 理事 花井 十伍 氏

 

(前頁からの続き)

権力と対峙しながら陣地を獲得するためには

花井:
 第一段階として、稲場さんは2002年以降国内のHIVからは離れていたということですが、当時の感動的なプレゼンテーション、私も本当にすごいなと思いました。私たちは政治的な勢いでやっているのに、彼らは海外の事例を徹底的に研究して、しっかりとした戦略を持って臨んでいるというところに非常に感心しました。ただ、これは上手くいったのでしょうか。この辺りのことを稲場さんにお話しいただきたいと思います。

稲場:
 今のテーマ、私がお話しすべきことなのかどうかについては、いささか自信がありませんが、私はその時に「責任は取る」という話はしており、また、私なりの責任は取っていると考えています。ただ、私自身2002年以降は国内のエイズ問題への取り組みからは離れています。aktaができる瞬間には立ち会っていません。では、どんなかかわりをしているのか、ということですが、例えばこの間、UNAIDSの幹部のリチャード・ブルジンスキという人物が来日しました。彼は元々、「国際エイズ・サービス組織評議会(ICASO)」を1980年代に創立し、その後、市民社会としてずっと活躍してきた人で、今はUNAIDSにいるのですが、日本のコミュニティとの連携をもう一度立て直したいということで来日しました。その時に、aktaでちょっとしたイベントをしたりしました。ある種、そういう国際的な活動家と日本の活動家を繋ぐというような間接的な関係しか、今の私は持っていません。

 例えば今のaktaに関して、あるいは現状のコミュニティ・センターの場に関して、花井さんがおっしゃったような、つまり「当事者が研究者に使われてしまっているのではないか」というような側面は、「ない」という風には言えないかもとは思います。しかし、そのことは、aktaの存在の意義を否定するものではまったくありません。

 この「当事者が研究者に使われている」という話については、先ほど新ヶ江さんが紹介された1995~1996年に行われたいわゆるハッテン場調査、つまり新宿保健所管内の「24会館」や「大番」といった施設においてティッシュペーパー集めをするという調査ですが、我々「動くゲイとレズビアンの会」は、これについて厳しく批判をいたしました。そこで、「それだったら逆にコミュニティと一緒にやろう」ということで、厚生労働科学研究のエイズ対策研究事業の中にあった疫学研究班に参加して調査を行うという流れが1997~1998年にできます。その後、1998~1999年頃には「動くゲイとレズビアンの会」が、先ほどお話しした麦谷課長の下で新しい研究班を確保するに至ります。そういう流れの中でのいわゆる研究者とコミュニティの非常に難しい関係については、私は2002年以降については、十分には知らないところがあります。

 先ほど新ヶ江さんが言われたように、権力には、我々に対してブルドーザーで迫ってくるような強大な力という側面があります。この強大な権力が何らかの処分を行って実力を行使する、あるいはそれ以前に、様々な意味合いでの政策を決めていく、いわば「政治ゲーム」のプロセスの中で、国家権力との関係の意味合いの中に、我々の考え方をしっかりと浸透させていくというプロセスが我々には必要になってくるわけです。そこのバランスの取り方に関して、例えば絶妙に上手な方がいらっしゃいます。私などはそんなに上手ではないのでいつも失敗ばかりしているのですが、aktaにせよ、日本のMSMのエイズにかかわる運動にせよ、まさにそういう意味合いで、なんとか無理を通してやってきたということだろうと私は思っています。そういう意味で、いわゆる「成功」・「失敗」、もしくは絶対的な「善」と「悪」という二項対立を設定しての判断はなかなかできないのです。そういう中で我々は最大限、自分たちのいわゆる領土なり陣地なりを一応取り持ってきたのかなと思っています。

 権力について、先ほど少し現代思想の話があったので補足をすれば、いわゆるフーコーの権力論と、イタリアの思想家アントニオ・グラムシの陣地戦論、ヘゲモニー論を考えた時に、ここの部分はいわゆるグラムシ的な分析が必要になってくるところです。つまり、政治ゲームの中で、我々の陣地というものをどうやって広げていくのか、そしてヘゲモニー(特定の磁場においてものごとを判断し決定できる力)をどうやって取っていくのかという部分の分析が、むしろ分析視角、概念としてはより重要で、そういう意味合いにおいては、我々は全体としては一歩一歩、ある種の陣地を広げ、そしてヘゲモニーを今の権力構造の中である程度確保してきたといえるだろうと思います。ただ、そこに、我々の気が付かない「落とし穴」はないのかというと、グラムシの分析方法では十分には分かりません。そこの切り口はフーコーのようなフランス現代思想の方が合うと思います。「権力に取り込まれているのではないか」という問いかけには、ある難しさがあります。いつの間にか変なところに上げられていて、はしごは下ろされているのではないかというところは、もちろん考えなければいけない上、その「はしご下ろし」は、より大きな政治の急激な転換によって突然来たりすることもあるわけです。この辺りは、なかなか難しいところだと思います。

 あともう一つ、資金の話で言うと、先ほど新ヶ江さんもおっしゃっていたことだと思うのですが、「エイズ対策に巨額の予算」などという言い方があります。でも、巨額といっても、実際には大した額ではないのです。最大でも、せいぜい3億円ぐらいです。一方、国の予算がいくらあるのかというと、100兆円です。3億円もそれなりの額ではあるのかもしれませんが、100兆円ある中の3億円ですから、巨額などといわれる筋合いはないかと思います。さらには、「研究班」という形式を取らないとできないという変な制約があり、全ては研究の形を取らなければいけないという非常に重い足枷がはめられているわけです。そういう意味では、極めて小さな領域の中でのヘゲモニー論に過ぎないという部分もあって、逆に「より大きな冒険をしようと思えば、できるんだ」と言えばできるのかもしれません。そういう意味では、もしかすると、トータルには失敗しているのかもしれません。この辺りは若干分からないところがあると思います。

花井:
 私の感覚で言うと、稲場さんはバリバリの活動家なわけで、実践が必要です。私も一応そういう立場ですが、私はいつも鍵括弧付きの「政治」と真の政治とに分けています。真の政治を追及すると、先ほどのグラムシなりフーコーなり、もしくはフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの官僚機械と戦争機械の関係などといった話になるのですが、「飯は食わなければならない」という中でどうバランスを取るかというところが常にあるわけです。ただ、この文脈で言えば、結局実践の中でパイの取り合いをすることによって、いつの間にか抑圧側に回ってしまうというリスクが常にあるというところがいちばん警戒すべきところだとは思います。

語られない言葉、語られない人々

花井:
 話が広がり過ぎるといけないのですが、LGBTでいうと、ゲイリブ(gay lib:ゲイ解放運動)という運動がありました。当時はそのゲイリブをもっと立ち上げていこうという試みがされたと思います。日本ではアメリカのアクトアップなどの活動によってゲイリブが盛り上がったと受け止められていて、「じゃあ日本でも」というムードは確かにあったと思いますが、新ヶ江さんはそういった日本とアメリカの違いをどう見ているのですか?

新ヶ江:
 難しい質問ですね(笑)。私が新宿二丁目などに遊びに行き始めたのは1998年です。大学に入学したのが1996年なので、ちょうどそのハッテン場調査があった後にいろいろなコミュニティの人たちがケンカしていた頃です(笑)。私の書いた本の中にも取り上げているのですが、四谷の区民センターで行われたゲイ・コミュニティとHIVに関するシンポジウムで研究者の先生がすごく怒って出ていったりとかして、たぶんあれが「コミュニティの中では今こういう議論がされているんだ」と思った最初です。

 花井さんの質問に対するお答えとして相応しいのか分からないのですが、私が本の中で書いた個別施策層については、その当時活動していた人にインタビューをしたというよりも、むしろ当時資料として残っているものを使って書いています。だから結構表面的にペラッと書かれていて、「個別施策層を作ったということは、結局『ゲイはリスクグループだ』ということを自分たちで認めたんだ」という書き方をしているのです。でも、先ほどの稲場さんのお話にもあったように、実はそこには「今ここで声を上げなかったら黙殺される」という人権の問題があったわけです。私はその辺りのことを聞き取れていなくて、今日初めて知ったこともありました。実は本の中にも書いたのですが、当時活動されていた人たちの声はこの中にきちんと反映されていないと思うのです。それぞれの人たちがそれぞれ置かれている人生の中で、「なぜこの問題に関わろうと思ったのか」といういろいろな文脈があるはずなのですが、この本の中でそのことは触れられていないのです。だから今必要なのは、「その時になぜそういうことを思って、この活動に参加しようと思ったのか」という、そういったいろいろな声をもっと丁寧に拾い上げることで、そうすると「その時自分はこう思っていたのだけど、気づいたらなんか全然違う方向に行っていた」というような人もたくさんいるのではないかと思うのです。今いちばん問題になっているのは、やはり憲法改正と人権の問題だと私は思っているので、もし自分たちがやろうとしていたことと違う方向に向かっているとするのであれば、もう一度きちんと当時関わっていた人たちの声を拾い上げた上で考えていくべき時なのかなという気がしています。アメリカのアクトアップの話とは違うかもしれないのですが、おそらく日本の場合はエイズという文脈の中ですごく動いてきた部分は確かに大きかったのではないかと思います。ですので、こういう作業が今もしかしたら必要なのかなという気がします。ぶっちゃけて言うと、やはりゲイ・コミュニティの中では人間関係が難しいです。いろいろな人の考え方があって、でもそれを「この人が正しくて、この人が間違っている」とすると、それは今まで繰り返してきたことと同じ方向に進むと思うので、もっと多様な意見をきちんと記録に残すなりして、LGBTにとどまらず、ゲイ男性の中にもいろいろな声があるというところから出発しなければいけないのではないかと思います。

花井:
 今の新ヶ江さんのお話を受けて、稲場さんは何かご発言がありますか?

稲場:
 なかなか難しい話ですが、逆に言うと、私は「当時はこうだった」とか、あるいは先ほど言ったような現代思想なども含めて、こんな風に、良くも悪くも、何でもペラペラ話せるわけです。そういう意味では、私は、ガヤートリー・スピヴァック(注1)の「サバルタンは語ることができるか」にいうような「サバルタン」な存在、権力から疎外され、言葉すら奪われた存在というわけではありません。むしろ、「サバルタン」と名乗ってはならない存在なわけです。本当の問題は、そこにあるわけではありません。つまり、ある種私のような活動家や行政など、結局ヘゲモニーをめぐる争闘戦に意識的にかかわりうる「判断ができる人間」が、いわゆる個別施策層が必要だとか、いろいろな形で判断していくわけですが、その中には、逆にそこでは語られない言葉や語られない人々がいることも事実です。

 この部分に関する、いわゆる活動家の責任論は非常に難しい問題です。当時は花井さんも私もある種その部分を背負って活動していたのだろうと思っているのですが、そういうある種の責任や覚悟のようなものを、「本当は取れないのに取らなければいけない」、そのような立場に立たされるという、そのモーメント、絶対的瞬間というところをもう一度振り返ることも必要だろうと思います。その意味で、今日のこのシンポジウムは良かったかなと思っています。

花井:
 話が逸れて申し訳ないのですが、稲場さんや私は活動家です。新ヶ江さんは、私たちの今までの印象ではアカデミック(学術的)でスマートな印象だったのですが、今日はいちばん熱い活動家っぽくなっています(笑)。新ヶ江さんは今までのコミットメント(関わり)よりも少し政治的になっているという印象がありますが、それは危機感ですか?

新ヶ江:
 自分でもそんな感じはしています。エイズの研究をして本を書いた時には気づいていなかったことが自分の中で結構大きくて、「なんでこんな本を書いたんだろう」という思いも実はあったのです。でも、時間が経って今の状況になった時に、「自分のやろうとしていたことは、やはり政治の問題とすごく関係していたんだ」と思うようになりました。ここでいう政治というのは、実際の大文字の政治ではなくて、ゲイ・アクティビズム(積極行動主義)を含めた政治ですが、そういうところにやはり関心があったんだなと後で気づいたというところです。

 先ほど稲場さんが「語られない人々や言葉」という話をされたと思います。私も「エイズの研究をしている」などと言って本を書いたりしていますが、実際にHIV陽性の人などで辛い状況にある人や、カミングアウトできなかったりだとか、貧困状況に陥っている人だとか、おそらくたくさんのそういう声があって、それは全く拾い上げられていません。今のこういう政治状況になったのも、ある意味でそういう今まで目が向けられなかった人たちの不満が今の政治の形に現れてきているからだと思うのです。それは日本に限らずアメリカもそうです。学者や研究者といった人たちは、研究しているような素振りは見せているのですが、本当の意味でそういうところは分かっていないことが多いです。実際にそういう人たちの声をたくさん聞いているのは、今までNPOなどで支援をしてきたりなど、ずっと長く活動してきた人たちだと思います。だから、やはりそういうところを繋いでいって、どうすれば少しでも生きやすくなるのかという状況を作っていくことが大事だと思います。もし今まで研究者がそういうところにきちんと目を向けていないとするのであれば、こうなってしまったのは研究者の責任でもあると思うし、今まで活動をしてきた人たちも、これまでは人権などという大きな問題でやってきたと思うのですが、その中で今まで見えていなかった部分とどう繋がっていくかということは今非常に考えなければいけない問題です。ですから、これからも今までのような、つまり「権利を勝ち取ってきたんだ」というようなやり方でやっていても、おそらく何も変わっていかないというぐらい膿が溜まっていて、それが今にも溢れ出そうとしているところだと思います。なかなか難しい話だとは思いますが。


(注1)インド東部ベンガル出身のアメリカ合衆国の文芸評論家、理論家、比較文学者(参考:Wikipedia)。

「社会介入」から「医療介入」へ

花井:
 もう聞いてしまったのでその話をしたいと思います(笑)。結局、在日朝鮮人やアイヌの人たち、薬害被害者や部落解放同盟などにはそれぞれの違いがあるのです。部落解放同盟はいろいろな支部があるので、支部によっても違いがあります。その中で、今新ヶ江さんから語られた危機感的なものはみんな持っています。しかし、それは全て一部なのです。ある種そういうラジカルというか普遍的なものに気がつき、危機感を持つ人は多いのですが、それを各団体の組織が全て共有することができるのかというのが問題ではないかと思います。

 私は薬被連(全国薬害被害者団体連絡協議会)という団体の代表世話人をやっていて、薬害の被害者団体が12団体所属しています。年齢で言うと、下はHPVワクチン(注2)の女子高校生、上はもう80歳代です。でも、「薬害根絶」という旗だけ立てれば、それだけで成り立つわけです。これは割と簡単というか分かりやすいので、これを人権でできないのかと常に思うのですが、具体的にやろうとすると難しいです。つまり、現在という時間において問題を共有する新しい革袋が必要なのか、既存のものをモデファイ(修正)するのかという運動論的なことを考えた時に、なんとなく「分かる人には分かるよね」というような話がもう少し看板としてなければいけないのですが、それが「人権」という言葉だけで表現することは難しい気がします。

 少し大きな話になるのですが、例えばもう少しこれをいろいろなテーマで細分化した時に、例えば「厚生科学審議会と○○」などといったあまりにもローカルな話とは別に、フーコー的に言えば生権力という概念や、今言われている医療化や医薬品化という面と、メガファーマの活動などの経済という文脈で言うと、例えば予防投薬のPrEPや訴訟になっているHPVワクチンは典型的です。FDA(アメリカ食品医薬品局)の発表によると、100万人にHPVワクチンを打つと1.8人は死ぬわけです。宝くじで1等が当たる確率は2000万人に1人だから、これをどう考えるのかという時に、「いや、子宮頸がんの死亡率は高いから」とHPVワクチンがレコメンド(推奨)されるのに使われるエビデンス(根拠)やサイエンス(科学)が形を変えながら伝えられる政治的なメッセージに対する何らかの警戒感など、もう一段、それぞれのマニアックなところの現場で起こっている問題の中で見える普遍的な「概念」を「人権」との間に置かないといけないのではないかということです。それには何が構想されるべきかということを、まず新ヶ江さんと稲場さんにはお聞きしたいと思います。

 また、私はインドネシアで行われたICAAP(アジア・太平洋地域エイズ国際会議)に久しぶりに行ったのですが、その時にNGOや当事者がいかにも「こういう会議の場で研究者と一緒に発表することが出世」と思っているように見え、一方で女性問題などはすごく冷遇されていました。本当の人権は冷遇されていて、公衆衛生と結びついた当事者だけがスターになっているのを見て、これは世界的にそうなのではないかという危機感を持ちました。このような状況は、稲場さんや新ヶ江さんの目から見てどうなのでしょうか?

稲場:
 大変難しい、抽象的な部分も具体的な部分も含めたお話なのですが、今のお話は、まさにエイズが、特に2008年のリーマン・ショック以降の時代に、主要なグローバル・アジェンダ(課題)としてどう生き残っていくのかという政治的駆け引きの中で、いかに社会介入から医療介入へと移ってきているのかということと関連していると思います。その中でいえば、結局のところ、例えばSDGs(持続可能な開発目標)の中にエイズがそれなりの位置を占めないと、グローバルな意味での予算が確保できません。また、そういう意味では、エイズは日本では先ほど言ったように3億円ぐらいの話かもしれませんが、グローバルに見ると、途上国のエイズ・結核・マラリア対策に資金を供給する国際機関であるグローバルファンド(世界エイズ・結核・マラリア対策基金)の3年間の予算は1兆3千万円です。このうち、米国が拠出する資金が、全体の3分の1にあたる43億ドルです。

 「米国大統領エイズ救済緊急計画(PEPFAR)」というものがありますが、いわゆるトランプ時代になってこれがどうなるのか。ある種アメリカという国はそういう意味でリアルな問題がどんどん出てきてしまって大変だと思いますが、政権を握る共和党は、今盛んに報道されている皆さんご存知のいわゆる大統領令で、「グローバル・ギャグ・ルール」(口封じの世界ルール)を導入しました。このルールは、宗教的理由から中絶を問題化するという発想から来ているもので、例えばいわゆる安全な中絶について、それを実施することはおろか、命を救うためにオプションとして啓発やアドバイスをするというようなNGOにすら、連邦予算を支出しない、というポリシーです。これをトランプの大統領令においては、他のいわゆる国際機関全てに拡張するかどうか検討する、と言っています。つまり、グローバルファンドに拠出されるお金に関して、グローバル・ギャグ・ルールが適用される可能性があるのです。もしかすると、アメリカ合衆国が「43億ドルかゼロか」という話を突き付けてくるかもしれません。PEPFARもまさにそういうことになり得るかもしれません。こういったことを考えると非常に難しい話になってきます。

 こういったポリティクスの中で、エイズの全体論、巨額の資金調達を考えている人たちは、結局「エイズの医療化でもいいから、とにかくいわゆる伝家の宝刀『エンド・エイズ』を抜いてでも、それでやっていくんだ」という、ある種の「決意」をしてしまったわけです。そこでUNAIDSは「90-90-90」という目標を掲げました。これは何かというと、HIV陽性者の90%の人たちが検査をして感染を知り、その90%を治療して、さらにその90%においてウィルス量を検出可能値以下に下げるという目標です。ウィルス量を検出可能値以下に下げると他の人に感染させることがなくなるので、結果としてHIVの新規感染例がガッと下がります。そして2030年までにHIVの新規感染者数は、今210万人いるところを、20万人ぐらいに減少させていく、というのがUNAIDSの描いているエンド・エイズの絵です。しかも彼らは、「そのためには2020年までの4年間でエイズに関する資金を今の1.5倍にしなければならない」という主張を行って、なんとかエイズをSDGsに残すことに一応成功したわけです。これは非常に大きな政治的な賭けだったわけです。エイズというアジェンダが国際保健の中で圧倒的に後景化するのか、それともメジャーなものの一つとして残るのかというある種全体論としてのポリティクスの中で、結局エイズの医療化を彼らは選んでしまったわけです。

 その点については、社会介入をずっとやってきたNGOの中でも意見が分かれています。例えば、アメリカのエイズ治療にかかわる活動家たちは「これでいいんだ」と言っています。一方、例えばアフリカの現場で実際に治療の現状がどうなっているのか分かっている人たちは、「これではまずいかもしれない」と思いながらも大きな声に勝てないでいるという状況なのです。こういうある種非常に難しい状況の中、いわゆる社会介入というものをどう政治的に残すのかという取り組みの中でグローバルなエイズの問題は動いています。さらにトランプ大統領が出てきてしまったものだから、余計に訳が分からなくなっています。端的に言って、そういうある種悲惨な状況です。つまり、2001~2002年頃の治療アクセスをめぐる闘いの中で、なんとか2003年に、2005年までに300万人に治療を供給するという「3 by 5」を確保して、そして世界の、ひいては途上国のエイズ治療をある程度主流化することに成功したわけですが、その果てに異常に大きなリスクを抱えているというのが今の状況です。

花井:
 「トリートメント・フォー・オール」という考え方は、血友病の世界会議(注3)でもそうでした。つまり、どこでもそう思うのです。血友病で言えば、世界の75%の患者は治療にアクセスできていません。HIVにおいては、初めていわゆる人権というイシュー(論点・課題)が勝利し、ドーハ(注4)において製薬企業を打ち負かし特許を開放し、そして安価な薬が供給可能になりました。これは本当に誇っていいことだと私も考えていたのですが、今はいわゆるPrEPのような話が出てきていて、治療開始がどんどん早くなって、「それは良いことじゃないか」と言われています。「明日、日本人全員に検査をして薬を投与すれば、来年は新規感染者がゼロだ」というような、ある種プラグマティック(実利的)な考えになると解決できると、冗談であれ考えるのです。ところが少し立ち止まると、確かに薬を飲めば感染させなくなるし、治療も早ければ早い方が良いというエビデンスがあると言われているけれども、治療の開始が早ければ早いほど良いのか、遅くした方が良いのか、などということは、治療ガイドラインが毎年毎年ずっと変わって右往左往して、本当のところはよく分からないにもかかわらず、「今は早い方が良いんだ」とまた戻ってきています。そうすると、根治がなければ、一度服薬を始めた患者は、今度はある論文によって「95%の服薬率を維持しろ」と言われ、そして医療専門家たちは、いわゆる投薬指導と称して「アドヒアランス(注5)を高めなければいけない」、「飲み忘れたら大変なことになる」ということを強調しています。それが良いか悪いかは置いておきますが、「本当にそれは正しいのか」という立ち止まりは当然出てくると思います。しかし、そういうことを考える契機が今は少しなくなってしまっています。そういう意味で具体的に出てきているのが、例えばPrEPの話や、今まさに最新の予防指針の議論が始まろうとしている中で、今や当事者は委員にもならず、参考人扱いになっているのです。これはとんでもないことです。こういう中で、次の予防指針が決まってしまうということになります。先ほどは稲場さんからグローバルな視点からのお話を伺いましたが、日本ではどう考えればいいのでしょうか?

新ヶ江:
 最近のPrEPの状況がよく分かっていないのですが、先ほど医療化やTasPの話が出てきていました。私が調査していた時は、行動変容が重視されていて、行動変容をするためにはコミュニティベースでの予防が重要だということが言われていたのですが、結局ここ10年ぐらいはTasPが治療のメインになってきています。

 薬がまだなかった時代などは、HIVに感染してしまった場合は、やはりお互いの繋がりの中で情報を共有したりなどをしなければいけないような状況もあったと思うのですが、治療がこれだけ進歩してくると、そういう繋がりが切断されて、別に陽性者だとわざわざカミングアウトしなくても、「自分一人だけが知っていればいい」という個人化や孤立化に治療が繋がっていくと思うのです。それは、例えばタイでもそうです。タイでも、いちばん最初はマッサージなどのタイの伝統医療のことなど、いろいろな生物医学によらない繋がりの中で患者同士が助け合っていて、ケア(癒し)のコミュニティができていたのですが、結局生物医学が入ってくると、どんどんそういう繋がりが切断されて個別化して孤立化していったという話になってくるのです。日本の文脈では、最初から個別化していたのか、あるいはプライバシーの問題などが言われていたからどうだったのかということは分からないのですが、結局やはり治療が進めば、良い治療ができればできるほど、繋がりよりも個人のプライバシーの問題として、その人自身が抱えざるを得ないような状況がどんどん今は進んでいっているという気がするのです。だから医療化、つまり治療が良くなってくることはすごくポジティブな面があるのですが、もう一つの側面として、そういうプライバシーや個別化という言葉で繋がりが切断されていってしまうという面もやはりあると思っています。

 HIVに感染した方々には、いろいろな背景があってHIVに感染したと思うのですが、生きづらさというところで考えた時に、10~20年前と何か変わっているのかというところが、私としてはどうなのかなと思うのです。自分が感染してしまったことの生きづらさ、あるいは感染してしまうまでの経緯としての生きづらさというようなところは結局何も解決しないまま、治療だけがどんどん進んでいったので、その人の抱えている問題のしんどさのようなものをどう考えていくべきなのかということが私の中で一つあります。もちろん今までのエイズ施策の中では予防がすごく重要だったのですが、予防とケアは完全に離れているところで行われてきたところがあると思うので、その辺りの離れているところをどう繋げて考えていくかということは、やはりすごく難しいです。もしかしたら綺麗ごとを言っているのかもしれないのですが、医療化の問題やTasPが良いことだという形で進んでいる今の状況の中で、感染している人たちにとって、もちろん治療は良くなったとしても、生きづらさの問題などに関して何が変わったのか。スティグマ(烙印)の問題などももちろん関係していると思うのですが、その辺りのことなどは、あまり今まできちんと考えてこなかったのではないかという気がします。

花井:
 やはりHIVの現状に関しては、意見が結構分かれてきていて、HIVに感染しても「薬を飲んでいたら大丈夫だ」という感じの患者さんもいれば、全く違って「どうしよう……おれ死んじゃうのか……」という昔の知識のままの人もいます。それからもう一つ、「血友病であることが分かればエイズと思われる」、「ゲイであることが分かればエイズと思われる」ということが1980~1990年代にはありましたが、今は逆で、「HIVは知られてもいい。しかし、自分がゲイであることだけは絶対に知られるわけにはいかないんだ」という人の方がやはり多くなっています。

 新ヶ江さんのお話にもあったように、今は様々な会社がダイバーシティに取り組んでいますが、今予防指針の改定に中心的に関わっている名古屋医療センターの横幕先生などは多様性の受け入れ可能な企業、つまりLGBTにフレンドリーな企業から企業検診をやれば、そこでHIV検査をしても、そのことによって自分のセクシャリティが明らかになり会社にいられなくなるということが起こりにくいのではないかということを言っています。それはそれで一つの良い考えだと私は思うのですが、問題なのは、「そういういろいろな企業の戦略などを上手く利用すれば検査も広げていけるし、それによって投薬ができるから良いじゃないか」という流れ自体が本当に良いのかどうかということであり、その問いはやはりしなければならないのではないかと思います。そもそもLGBTなどと括られてコンテンツ化して扱われている時点で「(性的マイノリティのことを)本当に分かっているのか」という感じがするし、そういうところに企業が商業的にも上手く利用できると乗っかっても、男でも女でもどっちでもない、つまり「女と言われるのは嫌だけど、かと言って男と言われたいわけでもない」というような人などは爪弾きにされているわけです。そういうところも含めて、個別性、多様性を本当の意味で受け入れる土壌が全く作られないまま、医療化やPrEP、ダイバーシティ、LGBTなどといった概念が作られ、企業が戦略的にそこに乗っかって、「とりあえずこれでいこう」と判断していいのかということは常に思っています。当事者一人ひとりというのは本当にいろいろなのに、そこを通り過ぎているという感じがあります。話が少し散らばってしまったので、ここで会場から少し話を聞いてみましょう。

大北全俊:東北大学大学院 医学系研究科 医療倫理学分野 助教
 今日お話を聞かせていただいて、いろいろ考えさせていただいたし、知らなかったことも多くてすごく勉強になりました。私も医療化や「社会的介入が必要だ」などといった議論や、新ヶ江さんがおっしゃっていたような「支援者や当事者の声を聞いて、もっと研究者は寄り添う必要がある」などといった話は、自分もそう考えるところはあります。ただ、先ほど花井さんが言ったように、「当事者は一人ひとり違うんだ」というところを見ると、そう単純な状況でもないのではないかというか、例えば私がプライベートで知り合っている陽性者の人のなかには、支援者に抵抗があって距離をとっているひともいる。もしかすると、いままでの支援の枠組みがもう合わなくなっているところも出てきているのではないかと思います。むしろ、まさに医療化そのものであるけれども、個々人がTasPのような形で薬を飲んで、ウィルス量が下がって感染力がほぼない状態になっていることが分かったおかげですごく気が楽になり、その人なりの生き方の選択が広がるということもある。今までそのことを知らなかった陽性者のひとにTasPのことを伝えると、とても喜ばれるということもあります。そういうあたりの情報提供が支援よりも足りていないのかもしれない。「人権」という言葉はそういう医療化・個人化を支える言葉でもあって、「個人の生存をとにかく尊重しろ」ということは、ある意味で言うと、あらゆる前提を取っ払ってでも、科学的なバックグラウンドがあるのであれば、「どんどんその人が生きやすいようにしていけ」というところがあると思うのです。でも、それは同時に、あらゆる文化的なコンテクストを分断する力も「人権」という言葉は持っているとも言える。何か一つの言葉を使うと全てが片付く、問題点を指摘できるということではないということを、やはり一人ひとりの生存を見ていくと、私の実感としてはあります。

 では何を言ってどこに向かっていけばいいのかということは私も見えていないので偉そうなことは何も言えないのですが、HIV陽性者一人ひとりの生きづらさをもう少し丁寧に見ると、そういった一つの言葉で括って、それを旗印にして掲げていっても難しいという気がします。最近私は仙台に移り住みましたが、よりそういうことを実感するようになりました。予防の医療化の批判もそのままでは、やはり「東京と大阪の議論」と少し思ってしまうところがあって、仙台も100万都市ですが、東京や大阪などを想定した議論がそのままではあてはまらない。もっと人口の少ない地方に行くと、より事情が異なるでしょう。そういういろいろな差異を見ていくと、医療化と言われるものが、東京や大阪とは異なる地方に住む人たちにとっては福音だったりすることも十分ありうるわけなので、「何がいちばん生きづらいのか」というところをもう少し個別に見ながら、それをどう丁寧な言葉に記述しながら陽性者の人が脆弱にならないようにしていくのかという作業が非常に必要かなと。私も何もできていないのですが、改めて自覚として思っているところです。

花井:
 ありがとうございます。


(注2)子宮頸がんなどの発生に関係するヒトパピローマウィルス(HPV)の持続感染を予防するワクチン。副反応が問題になり、現在係争中。HPVワクチン薬害訴訟全国原告団が薬被連に加盟している。

(注3)世界血友病連盟(WFH)が2年ごとに開催する国際会議。

(注4)2001年の第4回WTO閣僚会議で発表された「ドーハ宣言」。

(注5)患者が積極的に治療方針の決定に参加し、その決定に従って治療を受けること(公益社団法人日本薬学会ホームページ薬学用語解説より)。

多様性をカスタムメイドで守る

花井:
 そろそろ時間も迫っているので最後の話題になりますが、セクシャルマイノリティに対する理解促進法などといったものは、前に進んでいることを意味しているのか、またはそうではないのかというところすら見えません。つまり、いろいろ同じような運動をやっている中で言えば、例えばトランスジェンダーに「性同一性障害」という疾病名ができたことについての評価などがあります。先ほどの医療化の話ではありませんが、疾病ではないのに疾病名が付くことによって、結果的には病院にかかれるようになり、安全に手術が受けられるようになったという利益があるではないかという議論の中でも、いわゆる敵と味方がよく分からなくなる現象がやはり生じています。新ヶ江さんは先ほど憲法という大きな話をされたのですが、その中で少なくとも「同性婚を認めるという方向性は良いことだ」という認識は統一されていると考えていいのでしょうか? 同性婚を認めている国もありますが、日本の婚姻制度は世界の婚姻制度と同じではありません。この辺りはどう考えればいいのでしょうか?

新ヶ江:
 これは私個人の考え方なので賛否両論あると思うのですが、やはり家族という制度自体が国家権力にものすごく利用されるものなのです。同性婚をチラつかせながら「改憲は必要ですよね?」というような話になって、そこに同意しているうちに気づいたら取り込まれていたという話は十分にあり得ると思います。LGBT理解促進法にしても何でもそうですが、今はむしろそういう個別のものよりも、この国の一人ひとりの人権が、もしかしたら国家の秩序に従属させられることになるかもしれないという状況に問題があるのです。そこが変わってしまったら、「医療化が進んで云々」といった今ある前提そのものが崩れてしまうことになります。ですので、LGBT云々という問題よりも、この国の国民の人権をどう考えるかという根本的なところが重要になってくると思います。もちろん理解促進法や同性婚、パートナーシップなど、「学校や職場などの現場で差別されないように」という形での法律を作っていくことはすごく前進だと思うし、別にやらない方が良いとは思わないです。ただ、政治家が上手く利用してそういう法案を作ったかもしれないということは、稲田朋美氏のケースを見れば分かりますが、根本的に、今はもうそういう話のレベルではなくなっています。憲法が改正されてしまって、今は緊急事態条項のことが言われていますが、もしそれができてしまったら、今と同じようなレベルでの議論がそもそも成り立たないというような状況になると私は思います。

稲場:
 私は今日本のエイズに係る活動に携わっている立場ではないので、具体的な評価を本当はできない立場です。その上でいくつか申し上げるとすれば、一つは、この稲田朋美という政治家をいわゆる「安倍さんの次の総理に」という話は、ヒラリー・クリントンが大統領になるという前提で作られたシナリオです。ところが、今やドナルド・トランプが大統領になってしまった。トランプが大統領である以上、稲田さんを総理にしても自民党には何の利益もありません。クリントンであれば、稲田さんを総理にすることで「日本にも女性の総理大臣ができた。ジェンダー的にも素晴らしい」というような話になるわけですが、今やトランプが大統領です。ご覧の通り、トランプの周りにいる人間は全員男で、日本よりももっと酷い状況になってしまいました。そういう意味では、そもそも稲田さんをLGBTのパレードに呼んできても、今や何の意味もありません。いまや、最悪の新しい専制の時代を予感させるような状況になりつつあります。しかもトランプはロシアとやたら仲良くしたがっていて、「プーチン大統領はカッコいい!」などと言っている。残念ながら、ここ2、3年のLGBTの戦略は全てオバマ、ヒラリーを前提としたものでした。ですから、具体的に何かをし、変えていこうという人たちは、新たな戦略を作り直さないと、そもそもが立ち行かないという話になってしまうので、これは非常に難しいと私も思っています。甘い時代ではなくなってきているというのが一つあります。

 もう一つ、逆に言うと、90年代までは、欧米諸国やラテンアメリカの進歩的な都市において存在してきた方法論は、「同性間パートナーシップの法的保護」というものでした。つまり、我々のパートナーシップの権利を、カスタムメイドで一つひとつ確保していくというやり方だったわけです。ところが、2000年以降になって、欧米のトレンド(潮流)が全部同性婚になり、なおかつこの同性婚というものが「同性間パートナーシップの法的保護」を代替してしまったのです。この辺りが私自身、非常に意外だったところです。

 私はそもそも2001年頃まで「動くゲイとレズビアンの会」にいました。少し申し上げづらいのですが、「動くゲイとレズビアンの会」は当時、2001~2002年頃になると、ガバナンス(意思決定、合意形成)的に大きな問題が生じてきました。その時の私自身の覚悟は何かと言うと、「20世紀中に、20世紀的人権を実現して、それから(団体を)辞める」ということでした。20世紀的人権というのは「イコーリティ」(平等、同等)です。つまり、「マイナスをゼロにする」というものです。21世紀的人権は、多様性というものをいかにカスタムメイドで守るかという、「ゼロをプラスにする」ということです。これは、私にはできないと思ったのです。

 ゼロをプラスにするには、まず、最初にマイナスをゼロにしなければなりません。そのためには、反差別法をなんとかしなければいけません。その上で、例えば同性間パートナーシップの法的保護というのは、自分たちがどういう権利を実現したいのかということをコミュニティレベルでしっかり議論して、そして具体的ないわゆるカスタムメイドの様々な権利を「ゼロをプラスにする」立場からどんどんやっていけばいいのです。そこに関しては、コミュニティ・ダイアローグ(対話)が必要だから、逆に言うと、私のように「動くゲイとレズビアンの会」という団体で異性愛者社会相手の交渉などをしている人間にはそれはできないのです。だから、そこは逆に、「これからの人たち」に任せようと思いました。この「反差別法」などは、「人権擁護法案」である程度のめどがついたと思ったわけです。それで私は2001年に「動くゲイとレズビアンの会」を辞めました。

 そういう意味で、このいわゆる「同性間パートナーシップの法的保護」については、結婚という形ではなく、カスタムメイドでどのように作るのかという議論が出てくるものと思っていたのですが、欧米では、2000年前後に認識が大きく変化してきます。つまり、「結婚を同性間でも認めろ」という考え方が主流になった。それはインイコーリティ(不平等)をイコーリティにする、つまり「マイナスをゼロにする」という文脈に入ってきてしまったのです。それで、私は、これは難しいなという感じを逆に受けたのです。

 その辺り、いわゆる「同性婚」の話は、欧米のアジェンダが日本に密輸入されて、その結果こうなったという感じで、我々自身の本来歩くべき道が実は若干閉ざされた部分もあるのかなと私自身は思っています。

花井:
 非常に分かりやすいお話だったと思うのですが、異性愛者組から言わせてもらうと、そもそも日本の婚姻制度自体が全ての異性愛者にとっても使いやすくは出来ておらず、これをカスタムメイドして、要するに「好きに生きさせろ」という次の展開を目論んでいたところ、いわゆるゲイの人たちはそういう意味においてはそもそも生きづらかったから、「同じ生きづらさを共有している仲間だ」と思っていたら、「いやいや、私たちは結婚がしたいのです」と20世紀的なことを言われ、「そんなのでいいの?」という感じになっているところだと思います。欧米における婚姻と日本における婚姻とは違います。だから、「生きやすくさせろ」という議論をヘテロセクシャルも含めてやり直してもいいと思うのですが、こうやって「ゲイでも結婚できました。幸せです」というような話にされてしまうと、私たちはお呼びではないのかなと少し思ってしまって、なんか運動が逆戻りするような、時代を戻してしまったような感じをやはり受けます。ヨーロッパの中でもフランスなどではそういう議論が多いと思うのですが、この辺りはどうなのでしょうか?

稲場:
 フランスは共和国であり、「シビルユニオン(注6)」を採用しています。我が国は天皇という王様がいて、天皇の下に戸籍制度が編成されていて……と言うと、いわゆる古典的な天皇制批判の話になってしまうのですが、結局我が国の婚姻制度は、天皇との関係において存在している部分が非常に大きいわけで、そういう制度に取り込まれるべきなのかどうかという議論は、実はものすごく昔からあります。我々も延々とそういう話をしていて、旧来のいわゆる反同性婚論者に対して、「それでも結婚をしたい人がいたとしたら、どうするんだ」と言っていたわけです。我々は、天皇制云々や日本の婚姻制度の問題点については、十二分に理解していました。しかし、それでも、どうやって現実的な選択として、いわゆる同性間パートナーシップの法的保護を広げるかという議論をしていました。

 ただ、逆に言うと、今天皇制というもの自体も非常に不可思議な形で揺らいでいるところがあって、この辺はまた非常に難しい議論です。いわゆる旧来の天皇制像をベースに、古典的、左翼的な意味での天皇制論を前提に、日本の国家システムや国民統合システムの議論をすること自体もなかなか難しいという部分もあります。つまり、今の天皇が生前退位について話したということもあり、なおかつこれは変な話ですが、天皇の言ったことを蔑ろにして、特別法で生前退位は一代限りにして、あとはなかったことにして今までと同じようにするというような話になっている。それに対して、本当にそれでいいのかという話もあります。そういう意味で、そもそも自民党政権が天皇の言ったことを蔑ろにするような状況になっているわけで、そういうことを考えると、まず、いわゆる天皇の下での婚姻制度というものの是非という、いわゆる旧来のレトリック(注7)が一つあります。なおかつ、婚姻制度自体の束縛の問題もあり、同性間においては何ら法的保護がないという現実も一方であります。そういう中で、いわゆるゼロの地点から付加価値をきちんと作っていけるような制度を実際にコミュニティとしてどうやってモノにするのか、そこを例えば国家ではなく自治体にどうやってもらうのかというような話は、もっと多様に出てきていいと思っています。ただ、私は実際にそれをする立場ではないのであまりペラペラ話すべきではないのですが、そう感じてはいます。

花井:
 ありがとうございます。ここから話をすると、あと5時間ぐらい続くのですが(笑)、いろいろなところに話が跳ねてしまいました。最後にまとめというわけではないのですが、多様性の中で、それぞれの性というものを肯定する装置が共通の基盤として今はないということが今日のディスカッションだったかと思います。その個別の性が、例えば「幸せになる」という道を作るには、レトリックではなくて、やはりもう少し丁寧な議論とその取りまとめが必要で、その実現のためには、場合によってはある種の政治的な妥協やいろいろな副作用を承知で行政や国家権力とやり合うことも必要だけれども、そこには落とし穴がある場合もあるし、そこは必ず自覚的でなければいけないということが、一応今日の結論めいた話かと思います。エイズの話からいろいろと広がったと思いますが、今日はいろいろな問題に関わっている方が来ていると思うので、本シンポジウムをそういった全く異なる文脈で活動されている方と少しずつ話をする機会の第一例にしたいと結んで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。


(注6)日本における婚姻と異なり、「法的に承認されたパートナーシップ」をいう。

(注7)実質を伴わない表現上の言葉。