特別講演 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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特別講演

「危険な『排除社会』-ご自身の経験から考える出生前診断」

神経筋疾患ネットワーク 石地 かおる 氏 

石地かおる:1967 年生。一歳半で、脊髄性進行性筋萎縮症と診断される。24 時間介助が必要な重度障害者。1998 年、神戸市で他人介助を入れて自立生活をスタート。現在、自立生活センター・リングリング障害者スタッフ、神経筋疾患ネットワーク(出生前診断に反対する当事者団体)運営委員、リメンバー7.26 神戸アクション呼び掛け人。

自己紹介

 ただいま紹介していただきました石地と申します。私は今日、神戸から参りました。神戸で、「自立生活センター・リングリング」という、障害当事者が運営する障害者の権利擁護を中心に活動している団体で、ちょっと前まで事務局長をしていました。今はスタッフとして活動をしています。今日は「危険な排除社会-自身の経験から考える出生前診断」というテーマで、お話をさせていただこうと思います。出生前診断の話をするに至って、私がこれまでどんなふうに生きてきたか、どういう障害なのかということを、最初にお話ししようと思います。

 私は1967 年生まれで、いま50 歳です。去年50 歳になりました。私の障害は、ウェルドニッヒ・ホフマン病という障害で、遺伝性の神経難病と言われています。起きること寝ること、トイレに行くこと、食事をすること、外食をすること、生活すべてで、24 時間介助が必要です。すべて介助してもらって、今ここに命を長らえているわけです。今日も隣に介助者がいて、何かあればただちに出動できる状態になっています。
 私は30 歳のときに親元を離れて、神戸で一人暮らしを始めました。それからの間、自立生活センターというところで、障害者の権利擁護を中心に、どんなに重度の障害を持っている人でも、親元や施設での隔離された生活ではなくて、地域へ出てきて健常者と変わりない生活をしよう、介助を使って健常者と変わりない生活をしていこうという活動を長年続けてきました。

 それからしばらくして、出生前診断というものを知りました。簡単に言うと、おなかの中にいる子供に障害があるとわかったときに中絶してしまうという、ショッキングなものです。これを知ったのがちょうど30 代くらいのときで、そのなかに私の障害であるウェルドニッヒ・ホフマン病が含まれていました。それはもう受精卵の状態の時からわかるということで、「これは大変だ、私が要らないと言われている」と感じて、私と同じ障害の人ばかりを全国的に集めて、これに反対する人たちの組織として、神経筋疾患ネットワークという団体を作りました。作って12 年くらい経っていますが、主に出生前診断の反対についての活動をしています。出生前診断そのものに反対というよりは、「出生前診断で障害があるとわかったときに堕胎する」という考えについて反対をしていると受け取っていただけたらと思います。
 そして、関西女性障害者ネットワークという団体をその後に立ち上げまして、こちらでは女性障害者の人権、複合差別について取り組んでいます。一番最近立ち上げたグループは、「リメンバー7.26 神戸アクション」という、団体というよりも有志のグループです。相模原のやまゆり園事件を受けて、障害当事者がターゲットになったことに対して、強くノーと言わなければならないと思った有志たちが集まって、街頭活動を毎月行っています。

長い暗黒時代

 私が障害者の生存に関わることに取り組むようになった理由に、私の長い暗黒時代があります。私の障害は 1 歳半で障害名がわかりました。母親のおなかにいるときから発症していたと思いますが、病名がずっとつかずに、1 年半のあいだいろんな病院を転々と回っていました。首のすわりが悪いとか、おっぱいを吸う力がすごく弱いとか、足がぜんぜん動かないとか、そういう理由でどこへ行っても病名が分かりませんでした。けれども、たまたまウェルドニッヒ・ホフマンの研究をしていた先生が開業していたある小さい小児科医院があったので、そこで障害名がわかりました。それが 1 歳半のときと母親から聞かされています。その障害が分かってからというもの、家族はもう人生がこれで終わったと、ずっと思っているわけです。

 私は「人生が終わった」という話を、母親が人に話すのをずっと隣で聞いてきました。私を生んだことがいかに間違いだったか、母がどれだけつらい思いをしているかということを延々と母は涙ながらに話すのです。ウェルドニッヒ・ホフマンという障害は、だんだん進行していく障害です。神経を通して筋肉へ信号伝達することが難しいとい
う障害で、筋肉が衰えると手足が動かなくなるだけではなく、飲み込む力が弱まってしまうとか、呼吸をする力が弱まってしまうとかで、命がとても短いと言われています。私も例外ではなく、余命宣告を受けました。1 歳半で病気が分かったときに、「3歳まで生きられたらもう十分です」と医者から言われたと母から聞いています。でもまあ嘘ですね。私はいま 50 歳なので、3 歳では死んでいません。神経筋疾患ネットワークの私と同じ障害の仲間たちも、56 歳、58 歳、一番下で 45 歳くらいですが、みんなだいたい余命宣告を受けています。1 歳までとか、5 歳までとか、10 歳までとか、17 歳までとか、何を根拠に 17 という数字を計るのかわかりませんけれど、それほど言われていても、だいたいみなさん生きています。もちろん亡くなっている人もいますけれども。
 そういう状況の中で、母が涙ながらに話すのは、「障害の病名がついて、検査で入院しているときに、何度もあなたの首を絞めて殺そうと思った。そして自分も一緒に死のうと思った」ということです。別に珍しい話ではなく、障害児の親はそういうことを言うのです。私は物心がつくかつかないかのころから、それを聞いて成長しました。5、6 歳のときには、「自分がこの世に生まれてきたことは間違いだった、私は家族から愛されていない」ということを内面化して生活してきました。

 そのなかで学校へ行く年齢を迎えますが、諸手を挙げて私を迎えてくれるような学校は当時ありませんでした。支援学校、昔でいう養護学校にすら来ることを拒否されてしまいました。命に関わる病気だからだそうです。障害がある子供は行けますが、命に関わる病気だから学校に来るのは難しい、学校で預かることはできないと言われて断られてしまいました。
 兵庫県の三田に筋ジストロフィー専門の、国立療養所(現:国立病院機構兵庫中央病院)という病院があります。そこに入院して、併設されている支援学校に通うということが唯一学校に行ける条件として挙げられました。そこへ行きましたが、6、7歳で親から引き離されて入院生活が続くということは、私にとっては耐えられることではありませんでした。私はそこにたった 1 週間しかおらず、学校には 1 日しか行っていません。お風呂は 1 回しか入っていません。それはすごく覚えています。そのうちに祖父と祖母が私を脱走させようとする計画を進めて、私は病院の窓からこっそり祖父と祖母に連れられて脱走して出てきました。出てきてしまうともう行く学校が無いので、ずっと家で母と過ごすという日々を過ごしていました。

 その翌年に、私や母がやったわけではないですが、大きな運動が起きて、地域の学校の中に、今でいう支援学級、当時でいう特殊学級を作ろうということになり、そこに入学することができました。その代わり、母がついてくるということ、母がすべて介助をするということが義務付けられました。私はとにかくお話ができるので、普通校の中で友達はたくさんいました。仲良くなることも得意でしたが、だいたいこういうのって大人が邪魔をするんですね。たとえば、「かおるちゃんと一緒に帰ったら危ないから一緒に帰ったらあかん」と親から言われて友達と分断させられるとか、逆に、かおるちゃんと一緒にいたら褒めてもらえるから私と一緒にいるとか、学校に行くと、そういうようなことがたくさん出てきました。
 中学校になって、これまた行く学校がなくなりました。地域の学校も受け入れないとなったので、再度養護学校のほうにチャレンジしますが、そこでもすごく拒まれました。行くところがないので、なんとか入れてくださいと、養護学校ですらお願いをしないと入れない状態でした。

 私は養護学校に入って、初めて「本当の障害者」を見ることになりました。それまでいた学校は支援学級でしたけど、歩けている人たちとか病弱な人たちしかいなかったので、障害者がどういう人たちかあまりよくわかっていませんでした。それが養護学校に行ったら、この言葉は良くないのですが、まさに障害者っていう人たちがごろごろいました。それにすごくびっくりしました。同時に、私は「こういうところに連れてこられてしまった」と思いました。今思えばその考えは間違いだとわかりますが、その時には「この人たちと私を同類に見てほしくない」と思っちゃったんですね。そういうふうに思いながらも、中学生だからいろんなことを考えられるようになっています。そのなかで、「自分は障害者でありながら障害者差別をしている」ということの葛藤が自分の中で始まっていきます。それがすごく苦しいのです。養護学校での 6年間、ずっとそのことに苦しみつづけてきました。「私は障害をどう受け入れればいいか」ということと、「私が差別しているこの障害者の人たちとどうやって仲良くなれるか」ということをずっと考え続けてきました。わずか 10 代でそのことを考えるのは、私にはとても荷が重すぎたと、今となっては思っています。

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