パネルディスカッション | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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パネルディスカッション

神経筋疾患ネットワーク 石地 かおる 氏
立命館大学大学院 教授 松原 洋子 氏
特定非営利活動法人ネットワーク医療と人権 理事 大西 赤人 氏
司会進行/和歌山県立医科大学医学部 准教授 本郷 正武 氏

はじめに

本郷:
 ご紹介にあずかりました、ネットワーク医療と人権の理事であり、和歌山県立医科大学の本郷と申します。よろしくお願いいたします。先ほど、石地さん、松原さんのお二人からご講演をいただきました。この時間はそれを踏まえて、特に優生思想や優生学、さらに出生前診断や、相模原のやまゆり園の事件など、非常に多岐に渡る論点について、時間の許す限り話を進めていきたいと思います。まず、大西赤人さんから、お二人の講演を踏まえたコメントをいただきます。その後、石地さんと松原さんを交えて討論を進めていこうと思います。

大西:
 皆さん、こんにちは。大西です。お二人のお話を聞いた後で、パネルディスカッションの口開けのコメントをしろ、かつ面白くしろ、という指示がありました(笑)。非常に困難なミッションを請け負っています。こういう問題を取り上げる時には、自分がどういうスタンスかを前提にしないと、話しにくいところもあると思います。ですので、自分のことも多少はお話しします。
 私は血友病という体質、疾病を持っています。血友病は、最近はある程度知られてきていますが、何十年か前はお医者さんでもよく知らない病気でした。先ほど石地さんがお話しされていた状況に近いです。私は生まれて1 年ぐらいで血友病と分かりました。それまでいろいろな病院を回って、「血友病という病気があるけど、もしそれだったら長生きできないですね」と医者に言われたことは、親から聞きました。
 簡単に言うと、血友病は、血が止まりにくい病気です。血友病だから即「障害者」になるわけではありません。血友病であっても、出血しなければ別にどうということはありません。出血を繰り返すことによって、関節などに後天的に障害が出てくることになります。私の場合は、幼い頃にまだ何の薬もなかったので、出血を繰り返して関節が傷み、動けず寝ているという状態を繰り返していました。7 歳の時にはもう身体障害者手帳をもらって、いわゆる「障害者」になりました。ただ、私と同年代でも、一般の血友病の患者が、みな「障害者」になっていたわけでは必ずしもありません。私の感覚としては、血友病という病気はもちろん幼い頃から意識していましたが、「障害者である」という自覚はあまり持っていなかったかもしれません。もちろん体は不自由でした。歩けないし、運動などもできないという状態で大きくなっていきました。

 その中で、障害がある、病気であることによって、差別的なことが具体的にあったかというと、例えば日常的に学校でいじめられたなどという記憶はあまりありません。後に家族などからは「それはぼんやりしていたからではないか。実はいじめられていたのではないか」とずいぶん言われましたが、自覚的には学校で嫌な思いをしたことはなく育ちました。ただ、体育などの授業を受けられなかったり、教室移動に行けなかったりで、1 週間の授業時間のうちの4 割ぐらいは一人で自習していました。事実上は遊んでいるのですが、そういう感じで中学時代などは過ごしていました。その後、私は埼玉県に住んでいたので、1971 年の3 月に、埼玉県立浦和高校を受験しました。試験の点数は合格圏内に十分届いていましたが、先ほどお話ししたように体育等の実技科目を受けていないので、通知表の評点が低いのです。ペーパーテストがどれだけ良くても実技をしないから「1」が付いているという内申書だったので、機械的に、試験の点数と内申書の両方を案分すると、不合格ということになりました。
 しかし、そういう状況は前もって説明していて、「こんなふうに授業を受けて中学は卒業したが、浦和高校としては障害を持つ児童に対して一定の判断をするのか」と確認したところ、「実質的な判断をします。身体状況で不可能な人について機械的に判断することはしません」との言明があって受験したのです。最初は「試験の点数も悪かったのだろうな」と思っていたのですが、内申書を機械的に判定していたことが分かりました。しかも合否判定会議の時に、「実際は事前の話を遥かに上回る厳しい状況だった」というでっち上げの情報が一般の教員に対して流れていました。「人と接触したら危ないから、怪我をしたら血が出て大変だから、中学校時代は大きな鳥かごのようなものに入って授業を受けていた」というような内容です。そういうデマが一般の教員に伝えられて、「それじゃあ大変だね。そんな子が来たらさすがに無理だね」というような感じもあって不合格になったということが分かってきました。この問題は、かなり大きな社会的運動になりました。
 先ほど石地さんが、養護学校の運動が起きたというお話をされていましたが、時間的にちょうどその直前のことだと思います。この頃は全国的に障害児の問題、障害児の教育権について大きなうねりが起きていました。その影響も多少あったのかなと思いながら、石地さんのお話を聞きました。

 その後、1980 年代に、もう一つ大きな出来事が起こります。去年亡くなった、渡部昇一といういわゆる保守系の評論家として非常に有名だった人物が、大西の実名をあげて攻撃をしてきました。これについてごく掻い摘んで言うと、私は長男で、下にやはり血友病の弟がいました。血友病は遺伝の体質で、お母さんを通して男の子に生まれます。女の子の場合には保因者、つまり自分は発症しないけれども、またその男の子に生まれる可能性があり、今は「劣性」という言い方はやめる方向になっていますが、昔風に言うと、生物の教科書などに出てくる典型的な伴性劣性遺伝です。うちの場合も2 人、兄弟が血友病だったわけです。
 私の父親である大西巨人は作家だったので、世間にある程度名前が知られていたことも含めて、渡部昇一は「大西巨人の子どもにはかなり医療費がかかっているらしい」と言い出したのです。渡部の主張の原文を踏まえると、第一子に「劣悪遺伝子」を持つ「大変に不幸」な「遺伝性の」血友病の子どもが生まれたら、親は「第二子はあきらめる」ことが「社会に対する神聖な義務」であり、「人間の尊厳に相応しいもの」だ。「助けてもらわなければならない人が多ければ、あるいは自助努力を重んじない風潮のところでは、社会の程度は甚だしく低くなるのである」とあります。

 先ほどの松原さんの講演の中で出ていたスライドのように、劣悪な人間がだんだん増えていくと優等な者は減っていくという、まさにその趣旨です。「生まれた子は大事にしなければならないが、1 人目に障害があったのだったら、なぜわざわざ2 人目を産むのですか。そこは産まないのが人としてのあるべき姿でしょう」と言っています。しかも、社会が「お前は産んではいけない」と言うのは決してよろしくないけれども、自分が自分を律する形で「1 人目でこんな子が生まれたから、2 人目はやめておこう」と自らの意思で考えることが人としてあるべきことだと、実名を出して週刊誌に載せたわけです。これにはさすがに批判もありました。我々も含めて直接反論をしましたし、新聞でもかなり批判が出たのですが、渡部氏は、「いやいや、私は生まれた子は大事にしなければいけないと思っています。けれども、自発的に考えることは人として美しい姿だということを書いただけです。生まれた障害者は大事にしなければいけません」という言い方で、ついには死ぬまで自分の言ったことについて、もちろん撤回もしないし反省もしませんでした。そういう形で私は、具体的な障害および疾病と遺伝についての体験をしました。
 ですので、相模原の事件が報じられた時は非常にショックで、他人事でないものとして受け止めました。ちょうどその時期は、他の何人かの患者と共に、アメリカで行われていた血友病の世界大会に参加していました。世界中から血友病の人間が集まり華やかなセレモニーをしている中でネットを見ていたら、あの事件が報じられていたので、冷や水を浴びせられたというか、海を渡って悪意の塊が飛んできたような、本当に誇張ではなくてそういう感じがありました。相模原の事件については、渡部と大西の「神聖な義務」論争に触れている論評もあり、私も何か言わなければいけないと思いながら、なかなか書けませんでした。だいぶ時間が経ってからまとめたりしましたが、非常にショッキングなものがありました。

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