報告2 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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報告2

「HAARTの光と影、そして将来」

白阪 琢磨(医師:国立病院機構大阪医療センター HIV/AIDS先端医療開発センター長)

はじめに

 大阪医療センターの白阪です。私に与えられたのは「HAARTの光と影、そして未来」という大きな演題です。世界で初めてエイズの報告がされた1981年に私自身が医師になり、それからまさかエイズに関わることになるとは思ってもいませんでした。私は肺がんの医師になろうと一生懸命やっていたのですが、私のいた教室の教授の高弟のお一人が満屋裕明先生で、そのご縁で留学をし、得難い経験をしました。その留学したエイズの研究室には、2年間のつもりが5年半ほど在籍し、HIV/AIDSに深く関わるようになりました。

HIV治療の変遷

スライド1

 スライド1は1981年以降の今日のシナリオです。1981年から1995年にかけてはHIVの発見からエイズの診断と治療、1996年に新しい治療である「HAART」が始まり、現在では「ART」という優しい治療に変わってきました。最近は「治療が予防である」ということが盛んに言われるようになっています。「ベルリン症例」が話題になっていますが、いわゆる「治癒が可能ではないか」ということに向けて全力を挙げています。これが医師の進み方の一つだと思います。

スライド2

 スライド2はNIH(アメリカ国立衛生研究所)の臨床研究センターの夜景です。私はこの夜景が大好きでした。ここでは世界的なレベルでの臨床研究がどんどんなされ、エイズの患者さんも全国から臨床試験を受けに来られました。

スライド3

 スライド3は満屋先生(左から2人目)と私(右から2人目)で、左端はタイからの留学研究者、右端はマーク・キャブリックという研究者です。当時の大きな研究室の奥の部屋で実験台がいくつもあり、窓越しに海軍病院が見えます。

世界初の抗HIV薬「AZT」

スライド4

 満屋先生が発見された有名な抗HIV薬AZTジドブジンは、ジェローム・ホービッツという化学者が合成した薬品で、当初は抗がん剤として開発されていました(スライド4)。臨床研究の段階で「貧血」という副作用等のために処方薬にはなりませんでした。この薬が後に世界初のエイズ薬になったわけです。

スライド5

 スライド5は、満屋先生が「AZTはHIV増殖を抑える」ということをはっきりと証明された論文です。CD4陽性細胞はHIVと一緒に培養すると死滅するのですが、このAZTを加えておくとCD4陽性細胞が生きているという大発見でした。当時はエイズの薬がありませんでしたので、すぐに臨床試験が行われました。抗がん剤として臨床開発が進んでいましたから、HIVについてはいきなり臨床の第Ⅱ相試験に進みました。

スライド6

 スライド6は、AZTを飲んでいる群とプラシーボ(偽薬)を飲んでいる群の比較試験です。参加者は、自分がどちらを飲んでいるのかを知らされていません。6ヶ月の中間地点で成績が明かされると、プラシーボの群はエイズ発病、あるいは死亡していったのに対し、実際にAZTを飲んでいた群は、副作用は出ていたものの、発病者や死亡者は有意に少なかった事が分かりました。当時の委員会の委員から「この試験をこれ以上続けるのは人道的な問題がある」という指摘で、この試験はこの時点で終了となり、迅速審査・承認され、AZTは処方薬として世に出ました。1日の服薬量をどう決めるのかの十分な検討をする余裕も無く、「1日12カプセル飲む」事となりました。今から振り返ると、効果以上に多い量を飲んだということは多くの患者さんが経験したことだと思います。

スライド7

 AZTに関しては、その後「飲み始めて半年以上経つと、どうも効かなくなるのではないか」という臨床経験をリッチマン博士らが言い出しました(スライド7)。多くの人が「それは本当なのか、嘘じゃないのか」と言っていたのですが、1年経つと、確かにAZTを飲んでいた人の上がり続けていたCD4数が下がっていったのです。当時はCD4数しか計れなかったのですが、「これはおかしい」と思っているうちに、ラダー博士らが、その患者さんのHIVの逆転写では4つのアミノ酸に変異が起きて、AZTが無効になっていた事を突き止めました。つまり、耐性の変異の出現によってAZTが効かなくなるという事が示されたわけです。「これは大変だ」ということになりました。歴史に「IF」は意味がありませんが、もしAZTの臨床試験が当初の計画通りの期間で実施されていたら、処方薬となったかはわかりません。AZT単剤での臨床効果が半年ほどであった理由は、HIVがAZTに耐性を持つ新たな変異を獲得してしまったからです。これ以降、全てのHIVの薬は耐性についての検討がなされるようになりました。

スライド8

 さて、「耐性変異がどの段階でできるのか」ということは実は分かっています(スライド8)。HIVの逆転写酵素は非常にでたらめなもので、お手本通りに塩基を並べません。案外適当に並べ、しかもチェックをしません。人間の世界では「ダブルチェックをしないと物事が上手くいかない」ということは常識ですが、HIVの逆転写酵素はダブルチェックをしませんので、変異をやたらに起こします。逆に、そのおかげでこのウィルスは種々の困難を乗り越えているのかもしれません。言い換えると、HIVの逆転写酵素が働かなければ変異は起こらないので、増殖しなければ変異は出ません。だから、ウィルス量が感度未満であれば耐性はまず出ないと考えて良いぐらいです。言い換えると、治療戦略としては、「変異を起こさないために、より強力な治療を持ってくる」ということになりました(スライド9)

スライド9

HAART時代の幕開け

スライド10

 「HAART時代の幕開け」ということで、スライド10は1996年12月11日の雑誌「ニューズウィーク(日本語版)」の「もうエイズは怖くないのか」という見出しです。私にとっては今でも非常にインプレッシブ(強く鮮明な印象)な記事です。この頃、アメリカではプロテアーゼ阻害薬などの新薬が登場し、それを複数組み合わせる多剤併用療法、当時はカクテル療法と言いましたが、それがとてもよく効きました。ただ、非常に飲みにくい薬でした。だからとても辛いのですが、これを飲んでいたエイズ患者さんが立ち上がって歩けるようになったということがCNNのテロップで流れるぐらい、「ひょっとしてエイズはもう怖くない時代が来たのかな」という時代でした。その時の治療は「Highly Active Anti-Retroviral Therapy」、略して「HAART」と呼ばれていました。

スライド11

 1996年にバンクーバーで国際エイズ会議が開催されました。この会議は本当に画期的なものになりました。当時の厚生省は、全国のエイズ診療の拠点病院の医師を研修に派遣して下さりました。私も参加致しました(スライド11)。写真には多くの先生方が写っています。
 この会議では、大発見の報告がいくつかありました。一つは、プロテアーゼ阻害薬が登場したことです。サキナビル(SQV)、リトナビル(RTV)、インジナビル(IDV)と、今となっては副作用の強い薬とされていますが、その当時、これらの薬の効果は絶大でした。そして、ウィルス量が計れるようになりました。それまではCD4数あるいは死亡者数でしか臨床試験の結果を判断できなかったのが、ウィルス量で判断できるようになりました。これらの成果を踏まえて、多剤併用療法のガイドラインも出てきました。これらは本当に画期的な出来事でした。どんどん増えていたエイズの死亡者数も、この「HAART」と呼ばれる多剤併用療法の登場でグッと下がりました(スライド12)。HIVに感染しても、エイズになっても死なない時代が来たと言えます。

スライド12

スライド13

 スライド13は、これまでにウィルスの薬として開発された臨床薬の全てです。中央の矢印の上がHIVの薬です。下はそれ以外のウィルスの薬で、パラパラといろいろなウィルスの薬ができている以上にHIVの薬ができていることが分かると思います。これはまさに1996年頃、当時のアメリカのゲイのアクティビストたちのロビー活動の結果、当時のクリントン大統領が米国のメガファーマに優れた抗HIV薬を生み出すように言われたことが背景にあったと聞いています。その後もメーカーはプライドをかけて、力を振り絞って薬を作り続けてきました。ですから、短期間でHIVの薬が次々と出てきたのだと思います。ターゲットとなる酵素の立体構造も分かりました(スライド14)。これもものすごいお金をかけ、成果が実ったものです。

スライド14

HAART の課題

スライド15

スライド16

 「HAART」は免疫機能を回復させ、患者の予後を劇的に改善しましたが、多くの課題がありました。一つは、長く飲まなければいけないことです(スライド15)。つまり、言い換えると「治らない」ということになります。皆さんにとっては、ひょっとしたら懐かしいぐらいになっているかもしれませんが、かつての薬は非常に飲みにくかったのです(スライド16)。いろいろな人が必死になって作ってくれたのはいいのですが、インジナビルは1日に1.5リットル以上余分に水を飲まなければいけなかったり、吐き気がしたりしました。飲んだらしばらく寝ていないと苦しかったり、腎結石ができたりだとか、本当に今から思えば悪口しか出てこないのではないでしょうか。しかし、多くの患者さんの命を救ったのも事実です。サキナビルやリトナビルは薬の錠剤自体が大きくて、直径が2.5センチもありました。これを1日に10錠以上を飲まなければいけませんでした。皆さん、それを「命がけ」で飲み、生き延びられたのだと思います。
 かつての服用のある一例は、こんな感じでした(スライド16)。思い出される方もおられると思います。AZT、ddI、インジナビルなどは最悪の組み合わせの一つでした。「これとこれは一緒に飲んではいけない」「これは空腹でなければいけない」「8時間ごとに飲みなさい」「水を飲みなさい」「これを朝の6時半から夜の12時まで、毎日毎日、土曜も日曜もなくずっと続けなさい」、こんなことは普通ならできないと思いますが、当時の患者さん方は「分かりました」と言って飲み続けました。ある患者さんは「私は死にたくはないので一生懸命飲む」ということで、仕事も辞めて治療に専念しておられましたが、ふと「おれは薬を飲むだけの人生か」と思い、結局薬を飲むのを中断されました。そんなこともあったぐらいです。それが最近では1日1回1錠の薬も出てきました(スライド17、18)

スライド17

スライド18

進歩を遂げる抗HIV薬

スライド19

 最近の話は皆さんよくご存知だと思いますが、HIVの薬もおかげで、次から次へと新薬が承認されてきます。ガイドラインも毎年作られています。その一端をご紹介しますが、スライド19は2005年当時の治療ガイドラインの推奨薬です。こういったものが勧められていました。これは2006年、2007年と毎年変わっていくのですが、患者さんにとってはたまったものではありません。なぜなら、前の年に勧められた薬が、いつの間にか推奨薬ではなくなってしまい、「新しい薬が出たらしい。どうしよう」というような感じに毎年なっていたからです。いちばん直近の2014年にはこのような薬が出てきていて(スライド20)、本当にめざましい進歩を遂げています。

スライド20

 治療開始の基準も変わっています。1996年当時は、ホー博士というアメリカの研究者が「ウィルス量の半減期から3年半ほど薬を飲み続ければ、ウィルスは消えるだろう」と言いました。それで彼はタイム誌の表紙を飾ったり、時の人になりました。「Hard and Early(早く強力に叩け)」ということで、皆さん早期から服用を開始されたと思いますが、その結果は副作用がひどく、服用が辛いために、「CD4数が200まで待とう」ということになり、最近では350、今は500になりました。薬の開発も各メーカーは努力をされ、2剤の合剤が出来、それがさらに3剤の合剤である1日1回1錠の薬も出てきました(スライド21)スライド22の一覧がこれまでに承認された薬ですが、これだけたくさんありますから、今は「どれにしようかな」と選ぶことができる状況になっています(スライド23)

スライド21

スライド22

スライド23