報告1 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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報告1

「私たちはあのHIVに素手で立ち向かっていた」

高田 昇(医師:広島文化学園大学 看護学科 教授)

はじめに

 広島文化学園大学の高田と申します。普段は看護の教員をしながら、月曜日と土曜日にクリニックでHIVの患者さんを診ています。
 皆さんご存知だと思いますが、スライド1の写真の左側のお二人(ロック・ハドソン、フレディ・マーキュリー)はもう亡くなってしまっていますが、右側のお二人(マジック・ジョンソン、長谷川博史氏)は今も元気に活躍されています。このお二人ずつの間を区切るものはやはり「薬」、一言でいえばそういうことになると思います。

スライド1

 スライド2の写真は、私の恩師になる藏本教授(藏本淳:元広島大学原爆放射能医学研究所教授)で、被爆者でいらっしゃいます。私も被爆者二世で、それで血液内科を始めました。1979年から、血液内科の片隅にいた血友病の患者さんを診なさいということで、特に自分で選んだわけではないのですが、血液凝固学をすることになりました。
 スライド2のグラフは、2010年3月に広島大学病院に来られていた血友病類縁疾患の患者さんの生まれた年と人数です。日本の人口構成(グラフ内点線)では、私たち「団塊の世代」がいちばん多いわけですが、血友病類縁疾患の患者さんでは、高齢者の部分が抜けています。これはもちろん広島大学病院に患者さんが来なかっただけかもしれませんが、やはり昔は血液製剤のような良い薬もなくて、かなりの方が亡くなっていたのではないかと思われます。1985年以降に生まれた方には亡くなった方はいないので、それ以前に亡くなられた方の大半は、脳出血やエイズで亡くなられています。

スライド2

1987年まで -HIV無治療時代-

 1987年までは、まだエイズの治療がない時代です(スライド3、4)。1981年に最初のエイズ症例が報告され、1982年にはすでに血友病患者にもエイズの発生が報告されました。これを私がどれぐらい意識していたのかはよく覚えていませんが、少なくとも1982年12月の「ニューイングランド・ジャーナル」の報告で非常に不安に思ったことは覚えています。この時代にはもう血友病の患者会を手伝っておりまして、患者さんとは何でも話ができるような関係が始まっていました。

 1983年にウィルスが分離され、厚生省のエイズ研究班が立ち上がりました。この年には加熱凝固因子製剤の治験が開始されていますが、この治験の開始は「HIVを意識して」というよりも、当時は非A非B型肝炎の問題がありましたので、少なくとも私のレベルではそれに対する治験だと聞いて参加しました。少し時期はズレますが、合計8社から、1社あたり3~4人の患者さんに参加していただくということで、こちらもすごく努力が必要というか、「メリットはないかもしれないけど、参加してくれませんか?」ということで参加者を募りました。やはり頻回に受診に来られる方が多いということで、重症患者さんが中心でした。

 1984年の夏にリオデジャネイロでWFH(世界血友病連盟)の会議がありました。これが私の国際会議デビューで、「広島の患者さんはこういうふうにまとめています」という話をしました。ところがフロアではもっぱらエイズの話題で持ちきりで、それまで私が持っていた不安が非常に高まりました。この時代は「いつエイズの患者が日本に現れるか」ということで注目されていましたが、1985年にはアメリカでライアン・ホワイトという高校生の血友病の患者さんが学校へ行くのを拒否されたという出来事があって、社会的にも一気に不安が高まりました。

 同じ年の8月に最初の加熱第Ⅷ因子製剤の承認が下り、12月には加熱第Ⅸ因子製剤の承認が下りましたが、私にとってはこの時期がいちばんフラストレーションの大きかった時代です。「加熱でウィルスが死ぬらしい」と聞いていましたが、「じゃあ治験をしていない人たちはどうなるの?」という気持ちが非常に強かったと思います。広島大学病院の小児科の教授は代々小児血液学が専門で、血友病の患者さんはむしろ小児科に多かったわけですが、「変な子がいるんだよね」という話をされていました。その子は1985年の10月に再発性肺炎で入院しています。当時の凝固因子製剤の95%は輸入製剤でした。

 私は今、看護学を教えていますが、学生さんに「薬害エイズって知ってる?」と聞いても、知っている人はほとんどいません。それは、その後に生まれたからだろうと思います。当時は患者さんの了解を得ずに血清を凍結保存していましたが、後日溶解して検査したところ、結局血友病患者の40%の方が抗体陽性であることが分かり、「抗体が陽性とはどういうことなんだ」ということが心配になってきました。社会的には松本事件、高知事件、神戸事件など、いろいろなところで差別が続きました。

 1987年が転機になるのですが、10月に先ほど申し上げた広島大学病院小児科の子が亡くなっています。AZTが発売された後になりますが、この子は一度も飲まずに亡くなってしまいました。私がいちばん仲の良かった血友病患者会で中心メンバーだった方が、この頃PCP(ニューモシスチス肺炎)で入院しました。ずっと「CD4が下がってくる。どうしたらいいんでしょうか」、「う~ん、どうしたらいいんだろうか」というやり取りをしているうちに発病してしまいました。この頃に、このエイズ学会の前身である第1回のエイズ研究会が京都でありました。この会場で東京都立駒込病院から「PCPに対してはステロイドパルス療法が効く」という発表があって、それを公衆電話で急いで大学へ伝えたのを覚えています。この患者さんを最初にAZTを使い始めました。この時点で広島大学病院の累計のHIV感染者は16人で、小児科の子が一人亡くなっています。

 スライド4右側の顔写真は、当時の小児科の小林先生(小林正夫:現広島大学病院小児科教授)です。当時の小児科の患者さんたちを一人で診て、一人で悩んでいた先生です。私とは仲が良くて、今でも一緒にやっています。その下の写真は「そしてエイズは蔓延した」というランディ・シルツの本です。これは何度か読み直した、当時のバイブルでした。

スライド3

スライド4

1996年まで -NRTI療法時代-

スライド5

 1988年には性感染の患者さんが初めて受診しました(スライド5)。この方は外来での診療のみだったのですが、1989年になって、やはりヨーロッパ帰りの男性が血液内科に入院しました。広島大学病院の血液内科は元々原医研内科といって、原爆放射能医学研究所の内科が広島大学病院の血液内科を担当しているのですが、「食道炎の患者がなぜうちの科に入るんだ」ということで、病棟のナースあるいはドクターにずいぶん反対されました。私がやってきたことは、だいたい先ほど紹介した藏本教授が追認してくださったことが多いのですが、今回も「藏本教授が受け入れたんだからしょうがない」ということで、性感染の方もずっと診ていくことになりました。
 薬害エイズの裁判は1989年5月に始まりました。私は原告側の証人として大阪地裁で証言しましたが、この時も藏本教授に「あなたが正しいと思うことをしなさい」と言われたことが後押しになりました。

 1989年からはエイズ予防財団の資金的な援助も始まり、その頃から私は小児科の先生と心理士の兒玉先生(兒玉憲一:前広島大学大学院教育学研究科教授)と小児科の上田教授(上田一博:元広島大学病院小児科教授)と毎月1回集まっていろいろな相談をしていました(スライド6)。患者さんのカウンセリングもこの時代に始まっていましたが、主に告知の問題がやはりいちばん大きくて、我々は「原則告知」ということで合意していました。「誰にどう告知し、その後をどうフォローするか」ということを話し合いながらやっていきました。これは私にとっても「燃え尽き症候群のサポート効果」があったと思っています。

スライド6

 当時の非常にエポックメイキングな出来事として、1991年のメモリアル・キルトの日本巡回展が挙げられます(スライド7、8)。広島にもやってきました。広島でキルト展を受け入れようということで仲間ができました。彼らは今でも「広島エイズダイアル」として、エイズの電話相談を続けています。
 1987年のAZTに続いて、1992年には2つ目の薬であるddIが認可されました。
 1994年には国際エイズ会議が横浜で開かれて、「世界にはこんなにたくさんの人たちがエイズと闘っているのか」と勇気づけられました。薬害エイズの裁判は最後の1年半で原告側不利から逆転していくわけですが、この時代にddCが認可されました。この時点で、広島大学病院の累計の感染者数は50人、死亡者数は19人になりました。

スライド7

スライド8

薬害エイズ訴訟の和解から現在へ

 薬害エイズ裁判の和解には、ドン・フランシス(元CDC【米国疾病対策センター】エイズ特別研究班長)の働きが大きかったと思っています。和解の重要な意味はやはりエイズを政策医療として進めていくことが決まったことだと思います。私なりの項目立てですが、原告側の要求とそれに対する実現がどうだったかを示してみました(スライド9)。ずいぶん大きな働きをしたなと思っています。この過程では、屋鋪さん(屋鋪恭一:HIVと人権・情報センター創立者)の働きもすごく大きかったと思っています。
 それからは、あっという間にd4T、3TC、インジナビル、リトナビル、サキナビルと薬が次々と増えていきました。今から思えば怖い薬だったなと思いますが、いろいろな思いのある薬を順次使っていきました。

スライド9

 広島大学病院は1997年から「中国四国地方のブロック拠点病院」という役割を担い始めました(スライド10)。中・四国ブロックの人口は日本の人口の10分の1ですが、感染者・患者の割合は5%ということで、全国的には数が少ないです。しかし医療従事者はしっかり育てなければいけないということで、いちばん最初に始めたのが「薬剤師のための服薬指導研修会」です。これはもう50回ぐらい続けています。その後、看護職のための研修会を始めまして、2008年になってようやく医師のための研修会を広島大学病院で始めました。この間にエイズのメーリングリスト(J-AIDS)を立ち上げて情報を共有したりもしています。2007年には広島で日本エイズ学会学術集会・総会を開催することになりまして、フェルドマン先生(ミッチェル・D・フェルドマン:カリフォルニア大学サンフランシスコ校総合診療部教授)に来ていただきました。この時期で、広島大学病院の累計の感染者数は180人、死亡者数は23人でした。お気づきのように、感染者数は増えていますが死亡者数はそんなに増えておりません。

スライド10

 スライド11は、輸入血液製剤によるHIV感染者の生存率をグラフで表したものです。日本の血友病患者の50%が感染した時期と推定されている1983年4月の時点で未成年であった人と、成人であった人に分けて生存曲線を見ますと、成人は早くに亡くなっていて、未成年だった人が生き残っています。何歳で感染したかによってかなり違うんだなと思っています。

スライド11

 先ほど申し上げたメーリングリストの参加者は、今は850人とかなり減りましたが、いろいろな情報を発信していますのでどうぞお使いください(https://www.facebook.com/InfoJAIDS(スライド12)

スライド12