進行:花井 十伍(ネットワーク医療と人権 理事)
花井:
村上先生、本当にありがとうございます。
後半のパネルディスカッションでは、村上先生には、そのままお残りいただき、研究者の皆様も前方の席へお越しいただいているので、今のお話を受けて、若干やりとりができたらと思います。
壮大なお話と最後に強力な宿題を出されてどこを掘ろうかと考えているところです。さきほどの話は、ひとつは歴史的経緯と帰結によって、またその変化によって、病院は、あるステータスを持った装置としての役割を強制され、意味付与される。そこに従事する医師たちも、変化によってある種の機能を要請される構造があるために、ある程度医療現場というものも社会の要請によって役割を規定される傾向にある。
その傾向の中には歴史的に内在する矛盾点があって、医療者というのはその内在する矛盾の中で医療者として振る舞っていたということが見えたという話だったと思います。
しかしながら、今現在その帰結として、ひとつは人権という言葉がキーワードとなるし、疾病概念が時代とともに変化して、生活習慣病、慢性疾患といった話が出てきて、医療に対して社会は新たな役割を求めるようになってきました。しかし、実は今でももともとあった装置としての痕跡があらゆるところに残っていて、それを飲み込んだ形で現在の医療現場がある。
典型的なエイズ予防法やハンセンなどが歴史的に新しいですが、それらを引きずっていて、全部解消していないのだけれども、そういう役割を負わされながらきた帰結として今の医療がある。また新たな役割としての医療は、より一層、アドバイザーという医師-患者関係がクローズアップされている。これは村上先生のお話から言えば、これも歴史的帰結として要請されているとも読めると思います。話の持っていきかたが結構難しい話だったので、咀嚼するのが難しかったですが。
村上:
非常に正確にレジュメを咀嚼されていると思います。
花井:
ありがとうございます。最後に出たラジカルな村上先生の投げかけなのですが、薬害エイズの起こったころに、そういう、ある古いものを引きずりながら、そういう時代を迎えつつある医療現場に、全く未知の感染症がどーんとやってきて、その中で医師も患者も右往左往したという状況が、最終報告書に掲載されたスクリプトなわけです。
例えば医師たちは、医師も患者も自分の役割や位置づけなんか考えていなかったわけで、個人的な世界だったことが分かるのですが、こういったことを踏まえて、一体、スクリプトに収められている医師・患者という人たちは、本当に個人的な世界だったのか? 彼らは村上先生が提示したコンテクストの中で、どのような影響があったと言えるか? という点についてご意見を求めたいと思います。
今のお話だったら、種田先生にお伺いしましょうか。個人的なスクリプトなのだけれども、そうは言っても今の歴史的な経緯からすれば、いろんな医療が持つ、時代が強制した機能・背景によって、形作られたものによる行動というものが見えるのだろうか? という点についてコメントをいただけたら。
種田:
産業医科大学の種田です。難しい問いでまだ答えは思い浮かばず、考えながら話をしています。1980年代前半というのは、日本においてもインフォームドコンセントというのは導入されていなかった頃でもあります。医師にしても、患者さんや患者さんの家族にしても、どういう形でふるまったらいいのかということについて、惰性と言いますか、もっと穏やかな言い方をすれば慣性の法則がずっと働いていたわけで、医者の側の常識、村上先生の前半のお話に触れて言えば、医者の内部の内的規範としては、多分、治せない病気があるというのは当たり前という形で思っていたはずということは共通の理解としてあったはずなのです。
それが必ずしも患者さんの側には伝わっていない、伝えていないことで、その辺りでお互いの間のコミュニケーションというか、会話の齟齬みたいなのが当時起こってしまった。そこで悪循環というか、一旦ボタンの掛け違いが起こってしまうとどんどんボタンを掛け違えてしまう。
多分、ある医師-患者の関係の場合においては、修復というか、関係が保てたのだけれども、ある別のお医者さんについては、我々は今回聞き取りができておらず、実際どうだったのかということはよくわからないのです。少し想像を膨らませて考えていけば、ある種のボタンの掛け違いを掛け違ったまま、関係が切れてしまったのではないかな、と私は思っています。
先ほどの、関係が未だに続いている医師-患者関係について、一回は、やはり「感染をさせてしまった」、あるいは「感染をさせられた」というような思いはあったはずなので、一回はどこかでボタンが掛け違ったけれども何かのきっかけを通じて元に修復できた。そのきっかけが一体何だったのかについては、われわれの調査でもいまひとつ明らかになっていないのです。そのことが村上先生の最後のスライドに現れてきていたのは、そういったことではないのかなと思った次第です。
花井:
もう一人コメントをもらってから次へ行きましょう。今の話はよくわかる話ですが、例えば、患者からすると、ボタンの掛け違いであれば、すぐに掛け直すわけで、修復不能だという話はあるけれども、患者側からすると修復不能でいいのか、という部分があります。先ほどの村上先生の話を引いて言えば、個人的な関係であれば、実は一瞬全くわからない、お手上げという状態があったはずなのです。けれども個人的な関係になれなかったわけですよね、ある人は。
医師はなぜ個人的な関係にもなれず、ボタンの掛け違いの問題意識も修正し得なかったのは何故という話ですが、「なぜ?」というところを厳し目に言ってくれるとすると、横田先生でしょうか? 当時の医師と患者は個人的な関係になっていたのでしょうか? なっていたら、お手上げならお手上げということも言えなかったわけで、そのとき、医師は振る舞いというのはどうだったか?
ボタンの掛け違いかもしれないけど、ある種は歴史的に、医師に対する役割という圧力によって、その役割を医師が振舞おうとしていたということは説明できるけど、もうちょっと辛めに何かあったのでしょうか。
横田:
花井さんのご期待に添えるかどうかわからないですが、今の村上先生のお話を聞いて、なるほどと思ったことが1点あります。表を見せていただくと、ちょうど80年代半ばころから呼吸器感染症から生活習慣病へと死亡者数の1位がシフトしています。
元々、私はカウンセラーでソーシャルワーカーなのですが、80年代当時は我々のような役目の人間が医療現場の中で求められていることはなかったのです。「いてくれたらいいかも」という存在として80年代に重なっているのですね。
当時から今までずっと医療現場に関わってきた人間として、病院というところがどのように変わってきたのかを感覚的なところで申し上げるならば、病院という空間は、良い意味で立ち行かなくなってきているという実感を持っているのです。
つまり様々な医療者、患者、周りの人たちを含む関係性の組み換えが多くの疾病領域で、試行錯誤で行われていて、それがおそらく80年代前半くらいに始まっているわけなのです。
今でこそ、最もらしく言えますが、まだ80年代当初ははっきりと言葉にできることでなく、ただ試行錯誤で医療なり診察なりが、外に開く方向で行われていたと思います。そのことによって、従来の医療が持つ何らかの閉塞感や物足りなさが感じられ始め、あるいは患者の方も、今まで通り我慢はしているけれども、その我慢が限界にきてたりとか、いろんなことが起こってきていた。そこに、突然、HIV/AIDSといった疾病が、血液製剤によるHIV感染という形で持ち込まれてしまった。
今でこそ言葉で整理できるようなことが、言葉で整理できないまま動きだした時期にHIVという問題がきて、いろいろなことを試行錯誤するヒマもなく態勢を組み替えなければならなかったというのが、80年代前半から後半だったのではないかという実感を先生のお話を聞きながら思いました。
花井:
今から振り返って、医療の現場は整理されたと思うし、種田さんのお話も整理されたと思いますが、村上先生、いかがでしょう。
村上:
先ほどの種田さんの話と絡むのですが、このことには言及しなかったのですが、少なくとも、血友病患者のHIV感染に関しては、医師が言ってみれば、<no harm to others>という近代医療の最も原理的なところに対して背いているという考え方があり得るわけです。
ところが、医療の世界というのは、実をいうと医師は医療者の権利として、場合によってはharm(傷つけること)を与えることを許されているという考え方を、当然医師はしているはずなのです。harmを与えてもなお、より良い結果を得る場合であれば、他者に対してharmを与えていることにはならないのだということが医療の原則だという考え方は、医療者の中のどこかに常にはあるんじゃないか(と思います)。
それを先ほどの個人的な医師と患者の関係の中で了解したり、了解しなかったりする場合というのは、今回の話(HIV感染問題)の中でも極めて深刻な問題であり、さっき解決がない、とおっしゃられて、問題がそこにもあるのだと思っています。
花井:
リスク-ベネフィットが最初からわかっていれば、医療行為をするのは良いけれども、わかっていない場合はどうしたらいいんだ? ということですね。何かコメントはありますか?
一般:
心療内科の医者をしています。心療内科のエイズのこと、「原告団の手紙」を読んで、本当に向こうから悲痛な本当に辛く、それは、医療者として自分に向かってくる言葉がたくさんあったんですね。その中で、いろんなお医者さんを見ていると、一見非常にいいお医者さんである人が大勢いるわけですよ。例えば自分の身銭を投げ打って子どもの教育団体に携わっている、だけど、そういう意味から言うと、どうしてHIV感染問題でしくじってしてしまったんだろうと思ったときに、誠実さというものを忘れていたのではないかと思うのです。血液製剤のHIV感染について何にも議論が出てきていないのですね。
それはやっぱり、リスク-ベネフィットがわからないと言っちゃっていいのか、本当に、それを尽くしてやったのかというのが非常に疑問、今回自分たちでも思ったんです。新しい治療や新しい薬を使うときに、本当に自分の目であるいは自分の最大限の力を図ってやったかというのが疑問です。
要するに、今、伝聞の時代だと思うんですね。ああすれば、こうなる的な思考が医療の世界にはびこり過ぎていて、本当に悩みながら、自分は知らないのだという意識をまだ医者が忘れている、過去形みたいな形でまとめてしまっていいのか、というと僕は例えば、新型インフルエンザ騒ぎのときに、あんな騒ぎ方をして、再びペストの時代だって来る可能性が十分考えられる、そういう社会の混乱を見ていて、これは実際に専門家(プロフェッショナル)たちは自分たちの責任において考えていなかった、つまり、トリアージな医療だと思うのです。自分の責任の範囲はこうするけれども、それ以外は知らない、と分けている。それは本当に必要なのか、それで解決しているかというと、とても不安です。
村上:
おっしゃることに反対するわけじゃなく、全くその通りだと思います。去年私は非常につらい書物を読みました。これは読んだ方は何人かいらっしゃるかもしれません。
アメリカの小児腫瘍外科の先生、もう亡くなったそうですが、今、自分がその道に進むきっかけになった女の子のお話しで、4歳の子が自分の目の前に連れてこられて、その当時の医学の常識から言えば、それこそリスク-ベネフィットを計算すれば、どう考えても何もしないで何週間か一月くらいの間に亡くなるのを見守る以外にない。それが100%の常識だと。
でも彼女がベッドで自分に毎日問いかけるんだそうです。日本語は「もし」だったんですが、英語ではif じゃなくて、whenでした。When I am 5、私が5歳になったときには、わたしはお兄ちゃんと何々っていうゲームをやります。靴の紐を自分で結べるようになります、と毎日別のことを言うんだそうです。5歳になったら、あれもする、これもする、毎日違ったことをひとつずつ重ねていくというのですね。
それを聞いていて、その若き外科医は、何があっても、リスクがどれほどあっても何とかしてあげたいと思ったんだそうです。結果は幸いにもサクセスストーリーだったそうですが、その後、何百人という命が、その医師によって救われたと同時に、実は何十人かの命は失われている。そういう状況の中で医師は、チャレンジする精神、自分の命をかけるというのは恐いものですが、その場合は他人の命を懸けていることになるのですが、かけてでも、「もしかしたら」という可能性があることにかけるところを失った医師を、私は個人的には会いたい医師だとは思いません。
医師がそういう点で縮こまってしまうことによる弊害というのを、同時に患者の立場としても私たちは指摘しないといけないのではないかと思うものですから、この点も悩ましい、とてもつらい話なのですが、医師の立場からすれば、養老先生もおっしゃるかもしれないけれども、とにかく情報が「これについてはわからない」ということについて、「正確にわからない」と言わなければならない。それは極めつくしたところまでもっていって、でも、そこまでやらないといけないときはやらないといけないかもしれない、そこのところをどう捉えるかというのも医療の非常に厄介なところだと思っています。
花井:
先ほど村上先生がおっしゃった個人的な世界というところの本質ですね、養老先生にどうしたらいいか伺いたいと思います。
養老:
高級な話で、いろいろ思うところがありますが、元の話に戻って、村上さんの話で私が感じる、言葉の権力ということですね。
僕は大学紛争の世代の者ですから、権力をどのように使えるのか、日本の社会に権力という言葉が果たして合うのかなと思っています。
昨日、別なところで医学の議論をしていたんです。どうも私は言葉と実情が今の社会にうまく合ってないような気がして仕方がない。本当に権力という言葉を普通に使われますが、先ほどのお話で科学的な誠実さと文化的な誠実さとか、なんか多様ですよね。ところが世間から見たらオレオレ詐欺がこれだけ起きている。
言葉として全く対応していなくても、言葉を使える人たちが結構出てきている。これってNHKの調査だと、一流大学の文科系の人たちが被害に遭っている。20年くらい前は一流大学の理科系の人たちが多かった。最近は一流大学の文科系の人たちがオレオレ詐欺に遭っている。ああいう風に言葉を使う人たちが出てきている時代に、言葉の重さ、社会の中の位置、僕は、この仕事で20年言葉とお付き合いしていますが、最終的なデータで言葉になって出てくるというのが未だにちょっとひっかかりを持っている。
それは報告書に出てくる問題、医師-患者関係っていうのは、もうちょっと具体的な人間関係、そのことがこれから非常に大事な問題になると思うのです。でも、結局、最後は僕らなんですよね。今の社会が、いろんな問題を持っている人がいるのは、親の世代にかなり責任がある気がする。その時代がどういう設定で動いてきて、それのどこがおかしかったかということを考える。権力というところにひっかかるのですが、例えば、先ほどらい病の患者さんの話が出ましたが、ある詩人の伝記に書かれています。医師が脱走した患者を自分の権限で懲罰房に入れていることが書かれています。これが、医師が権力を奮う最悪の事例のようにして書かれている。でも、その方が何を理解していないかというと、当時おまわりさんが、病院から患者さんが逃げたのを捕まえて普通の留置所に入れたら、そこに入っている泥棒が騒ぎ出すんですね。「なんで、俺たちをらい病患者と一緒にする?」と。だから、そうなると医者が引き取るしかないのです。
医者がひきとったら病院の中で放っておくか、患者なんだから、泥棒だからと考えるのか、それとも病院の中も一般社会と一緒なんだから、そこに法律が整備されていない以上、医師がやらないといけないという責任として取るのか。そういう社会と医療の、当時は先ほどの話のように医療の壁が取り払われて病院というものも変わってきました。一般社会に近づいてきている。そうすると、一般社会の持っている根本的な矛盾そのものが病院の中に出てきてしまっている。
私がインターンだった時代の東大病院の話をしたら、今だったらとんでもない病院ですよね。本当にそう。だから、ある点で花井さんと私とで相当な現実観のギャップはあります。
昔、私の子どもが事故して入院して、小児科医で幸い生き残ったのですが、退院するときに、関係者ということもあって看護師さんたちがお祝いをしてくれたとき、婦長さんが言った言葉なのですが、「この病院から生きて出た患者さんはありません」って。
本当に私の生きていた時代って、世間と常識が医療に関して急速に変わってきた時代としかいうしかない。それに医者も患者さんも合わせていかなければならない。これほど日常の風合いが短い間に変わった。歴史はいろいろあるので、そこは評価していただきたいなと思いますが、そこは70年生きてきた者として「こんな時代なかったんじゃないかという論評をしないでくれ」という思いです。そういう革命的な変化を遂げた時代だったんだということです。
花井:
ありがとうございます。それでは好井先生、コメントをいただきたいと思います。8年前には、この文脈や、この概念装置で紐解けるかなと思ったのが全部ご破算になったんですよね。科学とか、いろんなものに依拠して、こういう説明によって結果が整理できると思う動きもあったのですが、全部ご破算になっていると。
どうですか、好井先生、この研究を8年間やってきて、8年間の変化というものと、この研究との距離みたいなものを、その辺について、ご感想もしくは自由にコメントをいただければ。
好井:
8年前というと、最初のころは、当時の血友病専門医の経験を聞きたい、当時どう思ってやっていたのかを聞きたいと考え、我々もすごく興味を持っていました。今回、最終報告書が「医師と患者のライフストーリー」として出ましたけども、もちろん匿名化して編集してありますけども、当時は、あんなに沢山の医師のトランスクリプト(TS)が報告書としてまとめられるとは想定していなかった。
なぜかと言うと、まず聞き取りに応じてくれない医師が圧倒的多数であったということです。聞き取りに応じてくれた中にも、「私に話を聞いてどうするんですか? 最終的に一般的な形にまとめないんですか?」と言われました。「報告書を出す、そのときに考えます」って答えていました。大抵の医師について、TSはダメだろうなと思ったんですね。だから、医師が語ってくれた語りの断片を使って何か物が書けないかと一生懸命当時は考えていました。8年、9年と聞き取りを続けているうちに、一人の先生に1回か2回、3回、中には8回9回の聞き取りに応じていただいた方がいます。その時分になってくると、結果として聞き取り全部のTS公開のOKが取れた。語ってきたものを、印刷物として残してもいいというようになってきました。
それは、お医者さんの中にかなり意識の変化があったんじゃないかなと思います。やっぱり8年前にあった、このHIV感染問題に対する世間のいろんな理解の仕方とか、その後、薬害肝炎の問題も出てきたので、自分たちが語るべきなのだろうか、当時のことを語る意味があるんだろうかと、お医者さん自身が変わってきたのだろうかと思います。もちろん、変わってもらえなかったお医者さんも多いと思いますが、少なくとも我々の聞き取りに応じてくれた先生や村上先生や養老先生はそうだと思います。
語りを聞いていて感じたことがあります。よく語ってくれる先生は、うまく言いづらいんですけども、言葉や語りの内容が変わってくるんです。自分の診療行為の説明に終始していたのが、3回目くらいから、説明に対する自分の思い、そういったものを含めた語りになってきたのです。
私はお医者さんたちの聞き取りをしていて、どうしてこの人たちは日常的な言葉で語れないのかという率直な印象を受けていたのです。私が聞きたかったのは、当時あなたが受け持っていた患者さんに対して、どういう薬剤を使用したかという事実ではなくて、あなたは患者さんに対して何をどのように感じていたのか、どういう関係を持っていたのか。あるいは患者さんの背景にあるもの、その患者さんはどういう世界に生きていて、それを自分がどうイメージして理解していたのかについての語りが少しでも聞きたかったのです。
ところが、なかなか聞けませんでした。例外的に語ってくれる方もいらっしゃったけれど、「あ、そうなのか、医療の世界はこんなに違いがあるんだ」と思いました。個人の言い分とか立ち位置とかに還元できるものではないと思いました。
私は、お医者さん・患者さんには、権利と義務があると思うんですけど、今回の調査では、そこまで拾い上げて聞き取りができたかわからないのです。今後何らかの形で継続することがあれば、もっとお医者さんに日常的な言葉を用いてほしいと思っています。日常的な言葉が聞けるように我々も工夫して、それは別の言い方をすると、医師が、個人的に、あるAさんという患者さんと自分が親しいから語れないのではなくて、Aさんという親密な関係について、医療の言葉ではなくて、もう少し臨床現場の言葉でもいいし、日常的な世界に近づいた形での言葉遣いで、自分の患者さんとの関係を語れるようになれればと思います。
医学教育とは、まさに医師が「お医者さん」になっていく過程の中で何を失っていくものなのか、あるいは、かつて持っていたものが医学教育の中で失われていくのかというところを、養老先生にうかがいたいくらいです。お医者さんには、もっと日常的で人間的で普段の言葉や思い、そういったものを取り戻して欲しいし、我々のように調べる側からすると、そういったものを質的にどうやって捉えるかという調査の仕方を考えていきたいと思います。個人的には一番初めにお医者さんに聞き取りをしたときに、なんと聞き取りしづらいお人だろうと思ったことは事実です。以上です。
花井:
ありがとうございます。好井先生は、この調査に一番長く関わっていただいた方です。今の文脈からいうとむしろ、医療の現場で日常的言葉を使うようになったら、もう現場がもたなくなりましたっていう話ですね。今までの理路はね。だから、調査を始めたころは教えるか・教えざるかという感想で、医療者も日常言語を使うようになったときに、医療が日常の世界と地続きになったら、どうオペレートしていいか答えがなくて、どうしましょうという問題系にすり替わっていますよね。ある種、そのような視野を獲得するために8年間かかりましたけど、長かったですね。
村上:
今おっしゃったことを痛切に感じることがあります。大阪大学大学院に、コミュニケーションデザインセンター(CSCD)という、これは大学院大学で、要するに、ここでは全ての大阪大学の大学院にいる人たちが、コミュニケーションのスキルと知識を身につけることを目標にして、大学院生に対して開かれています。コミュニケーションの専門家がそこで訓練をしたりしているのですが、恐らくそこに一番来て欲しい医学系の人は一人も来ていないのです。指導教員が「そんなとこに行ってる暇があったら研究をしろ」ということになっているようです。一方で薬学の院生は、服薬指導といった臨床的な仕事を薬剤師さんはしないといけなくなったので、結構CSCDに来るのだそうです。
そういう意味で、やっぱり医学教育の中に、ムンテラっていうってひどい言葉があるんですけども、養老さん、これは日本語ですよね? 日本で作られたドイツ語ですよね? ムント・テラピーという「口(Mund)で治療(therapy)する」という。臨床に関して昔はそれこそ使われたわけです。
先ほど、コミュニケーションが大事と言われましたが、おっしゃられたとおりなんです。コミュニケーションって「伝える」ということは、「伝えられる」ことでもあるのです。そうすると、伝えていくうちにこっちも変わっていくわけですね。それを考えざるをえない。それがコミュニケーションの要諦なのです。そこが一番のポイントです。お互いが変わるわけですね。コミュニケートしているということは。
それが実現しないと非常に不幸な状況が生まれてきて、最終報告書の中にも時々そういうものが見えるわけですし、逆にさっきおっしゃったように互いが変わっていく例も見えるわけです。コミュニケーションというと、本当に大事に扱う必要があると痛感しています。
花井:
ありがとうございます。そろそろ時間が来てしまいました。変化を受け入れないコミュニケーションが流行るというお話だったと思います。
話は逸れますが、CSCDを立ち上げた大阪大学の鷲田清一総長は、お医者さんになる人は全部CSCDでお芝居をしないと医者にならせないということをおっしゃっていましたが、それは実現していないんですね?
村上:
現実には実現していない。
花井:
そうですか。お医者さんになるまでには、お芝居の勉強をする時間はなかなかないということですね。村上先生、養老先生、本当に長い間ご協力いただきありがとうございました。研究者の皆様も、本当に長い期間研究にお付き合いくださり、さらにこれからも研究の課題がたくさんあったかと思いますので、掘り下げていただき未来へつなげていただけたらと思います。また参加してくださった皆様もありがとうございます。
これをもってNPO法人ネットワーク医療と人権の特別記念講演会を終わります。