イベント参加報告 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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イベント参加報告

第32回日本血栓止血学会学術集会 公開シンポジウム
輸入血液製剤によるHIV 感染 ~主治医の語りから~

特定非営利活動法人 ネットワーク医療と人権 理事長 若生 治友

イントロダクション

 輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究 最終報告書「医師と患者のライフストーリー」を題材にして、第32回日本血栓止血学会学術集会の公開シンポジウムが開催されました。MERSとして、この公開シンポジウムを後援し、パネリストとして参加してきましたので報告いたします。
 血友病専門医の多くが会員となっている日本血栓止血学会は、これまで「輸入血液製剤によるHIV感染問題」に対して、いわば沈黙を守り続けてきました。この学会は、第1回学術集会の会長を安部英氏がつとめた、いわば「薬害エイズ」に縁のある学会です。このたび初めて学術集会の主催で、輸入血液製剤によるHIV感染問題を取り上げられることになり、公開シンポジウムが開催されることになりました。

<開催概要>
日時:2009年6月6日(土)14:30~17:00
場所:北九州国際会議場 2F国際会議室
主催:日本血栓止血学会
後援:北九州市、輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究委員会、特定非営利活動法人ネットワーク医療と人権
参加者:約160名
プログラム:
 1.開催挨拶-公開シンポジウム企画の趣旨:白幡聡氏(産業医科大学)
 2.調査の経緯:若生治友
 3.非加熱製剤に対する医師の認識:種田博之氏(産業医科大学)
 4.HIV抗体陽性をどう知らせたか ~医師?患者関係:蘭由岐子氏(神戸市看護大学)
 5.継続する社会的「負の遺産」-いわゆる「薬害エイズ」がもたらしたもの
    :西田恭治氏(大阪医療センター)
 6.加熱後の血友病診療医から見た「薬害エイズ」:日笠聡氏(兵庫医科大学)
 7.調査企画側からのコメント:若生治友
 8.フロアとのディスカッション
公開シンポジウム企画の趣旨:白幡聡氏(産業医科大学)

 白幡氏は、開会の挨拶の中で、シンポジウム企画の趣旨について説明した。

 輸入血液製剤によるHIV感染、いわゆる「薬害エイズ」訴訟は13年前に和解が成立した。しかしながら裁判の過程で、医療現場の実相が必ずしも明らかになったわけではない。その要因の一つとして、メディアの作った「産・官・学の癒着」という分かりやすい構造の中で、一方の当事者である血友病の専門医がマスコミの取材に応じても、被害者・加害者関係の「加害者」という立場で常に描かれるという中で無力感から沈黙してしまったことがあった。
 また、主治医の中には道義的な責任から、裁判のプロセスで原告である患者さんの不利になる、水を差すような発言は差し控えたいという思いもあった。その結果、我が国では「薬害エイズは産・官・学が互いの利益のために癒着して危険な血液製剤を使用し続けたことが原因」という考え方が国民の間に定着してしまったと考えている。
 家庭輸注は現在広く普及しているが、それすら「製剤の使用量を増やすためにメーカーと医師が画策した」という捉え方があると思う。しかし当時、医師は不確実な情報の中で、各々の現場で血友病の治療と、HIV感染という未知の病気に対峙し、迷い、時には試行錯誤していたと思う。
 こうした当時の状況をできるだけ正確に把握しないと、今後同じように不確実な情報が錯綜する、そういう事態が起きた時に、それを最小限にとどめることはできない。
 「薬害エイズ」という修羅場を経験した医師が、この学会で学術集会の会長を努めるのは自分が最後であろう。これまで沈黙を守ってきた本学会で、初めてHIV感染問題を取り上げたが、薬害の再発防止に少しでも役立つことを期待している。

調査の経緯:若生治友

 体調不良により、パネラーの花井氏が急遽参加不可となったため、調査経緯を説明することになった。

 「輸入血液製剤によるHIV感染問題調査」は、2001年の夏ごろから準備を始め、正式に調査委員会を立ち上げてスタートしたのは2001年の10月。HIV訴訟ではあまり明らかにならなかった「血友病医療現場の在りようを知りたい」という、いわば「真実が知りたい」という強い思いから本調査を企画した。血友病を診ていたドクターの方々の「本音を聞いてみたい」ということが、調査の出発点であった。患者の思い、ドクターの方々の思い、それらを突き合わせることで、何か真実のようなものを浮き彫りにできるのではないかと考えていた。
 当初、私たちの周りの医師や患者を巻き込んで調査の主体を作ろうとしたが、原告団が絡んでいるというイメージによって、「聞き取り調査自体に悪影響を及ぼすのではないか」という意見があった。調査委員会の設置当初は、公正中立性を保つために社会学の専門家だけで調査チームを編成した。しかしながら第1次報告書の内容が、「これまでのマスコミで語られていた言説と変わらないのではないか」という強い批判を受け、ある意味調査自体が暗礁に乗り上げてしまった。その後、調査体制を改造・再編して、患者・当事者を積極的に調査委員会に参加させることとした。さらに、若手の社会学の研究者たちを増員して地域ごとの調査チームを編成し、その地域ごとのキーパーソンの方をパイプ役にするなどして、積極的に調査を進められるようになった。
 約7年に及ぶ調査に一区切りをつけ、これまでに聞き取った語りを誰の目にも触れられるように、そして関心のある方々に閲覧可能にするために、ひとまずここで最終報告書という形で発行した。報告書は、約3000ページ、3分冊からなり、第1分冊は、研究者の方々の論文を掲載している。第2分冊はドクター13名、のべ30回分のインタビューの記録である。第3分冊は、患者・家族の語り18名、のべ38回分の語りが掲載されている。いわば、この報告書の中には、それぞれの皆さんの人生が凝縮されているといえる。

非加熱製剤に対する医師の認識:種田博之氏(産業医科大学)

 種田氏は、社会学者の立場から、それぞれの人々の役割行動、規範性といったことに着目しながら、1980年代前半の医学論文や聞き取り調査から得られた「語り」を引用し、血友病医師の認識について報告した。

 これまでマスメディアの医師に関する言説には、「薬価差益を使って金儲けに走り…」など、「金儲け」「薬価差益」などの言葉を使う傾向があった。つまり医師のモラルの欠如が「金儲けのために非加熱製剤を使用した」という図式として説明されてきた。しかしながら、医師に対する聞き取り調査からは、この図式では説明しきれないことに突き当たった。むしろ医師としての「規範」が強く働いたことによって、治療のために非加熱製剤を使用したのではないかという実態が見えてくる。
 今回の報告は、医師への聞き取り調査結果をもとにした、「医師から見た薬害エイズ、あるいはHIV感染」という視点からの分析であると同時に、聞き取ることのできた医師の属性が、小児科系、内科系、開業医、勤務医、凝固系の専門家ではない医師など、非常に異なっているため、いわば最大公約数的な分析である。

 1983年頃の医師の語りをピックアップすると、

「それほど大きな危機感、緊迫感というのはなかった」
「同性愛者の問題とか、『ホモセクシャル、ゲイの病気である』とか、そういう形で言われていた時代なので、『そういうもの』と捉えていた」
「だんだんやっぱり心配が募ってきたんだけれども、WFHの会議が1983年の6月に行われましたよね。迷っていたんだけれども、あの時の決議に、迷っていたが故に飛びついちゃったんだ」


という語りが出てくる。つまり「迷いながら血友病治療にあたっていた」ことが見えてくる。「迷う」ということは「より良く治療したいという思いがあった」のではないだろうか。

 1984年ごろから危機が明確になってくる語りが出てくる。8月にリオデジャネイロで世界血友病連盟(WFH)の会議に出た医師の語り。

「この会議に出て、自分は目から鱗が落ちたんだ」
「この会議で認識がすっかり変わって、日本に帰ってみるともう加熱製剤の治験が始まっていて、そうすると治験に入っている人にはそれほど危なくない薬が使えるのに対して、治験に入っていない人には危険な製剤を使うことになってしまうわけで、その時の焦りというのはものすごく強かったんだ」


といった正直な語りが出てくる。つまり1984年の半ば以降、HIVへの危機感を抱きながら血友病治療を行っていかなくてはならない状況に医師たちは置かれたといえる。

 一方で、「本当に認識が変わってくるのは、やはり抗体検査の結果が出てから以降である」という語りもある。今では、HIVの抗体陽性というのは「持続感染をしている」ことを意味するが、当時、このHIV抗体陽性の意味をレトロウィルスの専門家は理解できていたと思われるが、多くは「持続感染している」こと自体がよく分からなかったと思われる。ある医師は「防御抗体として見ちゃったんだ」と正直に語っている。
 これは、当時の医師たちは「ウィルス感染に関しての基本の枠組みからHIVを理解しようとした」ことを意味する。と同時に「なぜエイズの臨床的症状を示す者がいないのか」という疑問を抱くことになった。感染症の既存の枠組みでは、

「10年も感染状態が続くとは思わない。感染すればすぐに発症するものなんだ」


と思っていたが、身近にエイズの臨床的症状を示す者がいなかったので、

「ほとんど発生頻度の少ない病気、ウィルス感染なんだろうと、そういう形で自分は理解してしまった」


と他の医師は語る。つまり「抗体検査によって危機感は強くなった」といえるが、一方で「発生頻度の低いウィルス感染症」という形で理解することで、抗体検査によってHIV/AIDS自体に対しての危機感が相殺されてしまったと思われる。

 医師への聞き取り調査を通して、医師は「血友病をより良く治療したい」という「規範」に従って、良かれと思って非加熱製剤を投与していたことが見えてくるが、1980年代はインフォームド・コンセントという概念は無かった。「良かれと思って」は、あくまでも「医師の思い」であって「患者自身の思い」ではない。ある患者は、

「人間だから分からないこともあったんだろうけれど、専門家として診療にあたっている立場で、反省みたいなことをやっぱり、どこかで総括してほしいんですよね」
「そういったことをしないと次の医者に引き継いでいけないでしょう」


と語る。さらに別の患者は、聞き手が「『分からなかった』という言葉が欲しいですか」と聞くと、

「それだけではないにしても、『あの時の自分は本当に分かっていなかったんだ』というようなことを言ってくれるだけで楽になりますよね」


と語る。様々な事情はあったにせよ、患者は未だに「説明された」という意識を欠いたままといえる。

 たとえインフォームド・コンセントがあったとしても、疾患自体が未知な場合においては、正確な情報はそもそも伝えることはでない。今後も現れうる未知な疾患については、未知であればあるほど、不確実であればあるほど、「未知である」ことを伝えていく必要があろう。さらに、常にアップデートされていく情報の更新をできるだけ速やかに、いつでもできるようにしておく必要がある。情報が更新されたら、そのつど患者と話し合う機会を設けておくべきではないか。今回の調査から、自分の「規範」を自明なものとせず、患者と絶えずコミュニケーションし続けることが重要だといえる。

HIV 抗体陽性をどう知らせたか ~医師-患者関係:蘭由岐子氏(神戸市看護大学)

 蘭氏は、個々の医師-患者関係に大きな影響をおよぼした1980年代半ば以降の「告知」をめぐる具体像について、2つの語りを紹介した。

「手紙」による通知

 ある地方の患者会顧問医師の場合。このHd医師は抗体検査の実施を計画し、1986年の患者会の大会において話し合いがされ、「9月から開始する」と決まる。この患者会にはHd医師の他に2人の顧問医師がおり、3人で段取りを整え、各医師の所なら「どこに行ってもいいですよ」という形で検査を実施することになった。
 Hd医師が開業している小児科クリニックでは、22人の方が検査をし、そのうち10人が陽性、45%の陽性率という結果が出た。その時の率直な気持ちとして、Hd医師は、

「全国平均は38.8%だったかな、40%をちょっと切るんですよ。それで自分のところが多いので、愕然としてね。僕はびっくりしてね。とにかく検査をやったのはいいけれども、返事をどうすればいいのか。この時は参りましたね」


と語る。さらに、

「それで1週間ぐらい『どうしようかな』と考えてね、決まらないんですよ。いや『どうしようか』と。それで、いちばんショックを少なくするにはどうしたらいいんだろうかと考えたところ、直接会って話をするよりも手紙がいいんじゃないかと思った」


と語る。
 その手紙の内容について「どういうことを書かれましたか」と聞くと、

「『残念ながら、陽性が出た』ということと、それと『一緒に頑張って、なんとか乗り切るようにやろうや』ということを書いた」


と語っていた。実際にHd医師を主治医とする患者bpさんにも手紙が送られ、その内容にbpさんは、

「『やっぱりか』という思いと、それとショックがあった」
「それと『手紙かぁ』という思いが両方ありましたね」
「ただ手紙の内容としては、最後に励ましみたいなことがちょっと、先生のご自分の姿勢みたいなことが書いてあったんで、ちょっとホッとした思いがしましたよ」


と語る。bpさんは、クリニックはすごく狭いところで、看護師とか事務の人がすぐそばにいて、プライバシーを守れない問題があったから先生は手紙にしたんだろうと手紙にした理由を推し測り納得している。
 その後もHIVの診療に関して、Hd医師は、

「喋るとしても小声でしゃべるんだ。たぶん『患者さんが来ている』ということも知らないだろう」
「手紙を書いた連中とはいつも一緒にやっていましたから、だから分かってもらえるなと思った」


と、信頼関係のもとで手紙にしたことを語っている。bpさんの語りによれば、Hd医師の親身な姿勢や症状についての的確なアドバイス、CD4が下がってきた時は「治療を受けた方がいい」と言い、大学病院を紹介してもらったことから、その後の関係性は良好に保たれている。さらにHd医師は、

「感染させたことについて、実は手紙には一言も謝罪を書いていないんですね、あとで考えてみたらね」
「やっぱり自分がいちばん悪いんだな、と思ったのは確かなんです」


つまり「製剤を処方しなければそういうふうに(HIV感染に)はならなかったんだから」、「その結果を引き受けよう」という考えであることが分かる。

ある「患者のつどい」

 1990年、ある地方で開催された会合「患者のつどい」は、訴訟運動の中で「集団告知」として表象され、糾弾されてきた。その集いに参加した医師と患者の語り。
 当日の資料「患者のつどいによせて」という配布物には、「患者側からの要望により研究班が主催し、HIV陽性者のための会であること、現在告知を受けている患者のみを対象にしたもの」という記載があり、開催目的として「血友病HIV感染患者の健康管理について知ってもらう」こと、「救済事業について理解をしてもらう」こと、「何か要望があれば厚生省へ提出する」ことが記載されていた。
 この会合に参加したQd医師のメモによれば、この会合で話された内容、救済の範囲、金額の問題、医療体制、精神面のフォロー、二次感染防止の方法など、質疑応答の項目などが残っていた。会場は落ち着いた様子で質疑応答が展開されていたらしい。しかしながら、中にはまだHIV感染を知らされていない人がいたとのこと。Qd医師は、

「趣旨は知らされないで、『患者会があるから来てくれ』と言われて行った」


ために、会合の展開に驚いていた。
 一方で、この会合に参加していた患者は、

「病気の、HIVの勉強会だった。その中で告知されてなくて分からない人もいたんです」


と振り返る。彼は自分に強力ミノファーゲンC(注1)の大量投与がなされたことについて問いただし、「HIV感染しているんだ」ということを事前に告知されていた。HIV感染を知らされていない人がいたことについて、

「集団告知と言われているけど、告知にもなっていないよ」


ともいう。この会合によって参加者が互いに「感染しているんだ」という事実を知ることになり、

「自分のプライバシーが露わにされたこと自体がショックだった」


と語る。しかし同時に、

「自分と兄弟のように生きてきた仲間が感染しているから、『なんとかしなきゃね』という考えもあった」


と振り返る。
 この会合に対するQd医師の解釈は、

「やはり集団告知と呼ばれても仕方がない面がある」


と振り返る。1980年代後半、この地方ではHe医師の指示の下、非告知の方針が貫かれており、Qd医師は、

「検査することは言っているし、検査したからには(結果を)言った方がいい」


と思いながら、非告知の方針に従っていた。しかし患者の奥さんが発症して亡くなられる経験を経て、告知を始めるようになっていた。He医師が非告知方針を取った理由として、Qd医師は、

「何も解決策がない現状で告知するのはあまりにも忍びない、という感じがあったのかもしれない」


と、当時の困難を極めた治療体制も考慮に入れながら、He医師の胸中を察している。


 以上、2つの事例から考えてみる。最初の事例において、果たして手紙で通知することで、医師の気持ちを患者たちがしっかり受け止めることができたのだろうか、あるいは、きちんと伝わったのだろうか。bpさんには伝わったのかもしれないが、伝えたつもりでも伝わっていない患者もいたと思われる。ある他の医師は、自分のポリシーとして、

「患者さんの体は患者さんのものだから、告知をするのは当たり前。自分も実際そういうふうにやってきたんだ」


と語るが、その医師を主治医とする患者には、実はきちんと伝わっておらず、

「最初は陰性だと言われた」


という語りも得られている。その後、その医師は治療をずっと継続しているため、その患者は、

「『裏切られた』というふうなことは思っていない」


と語る。
 「『伝わること』あるいは『伝えること』は難しい」ということは、「何がどう伝わったのか」を、はっきりとお互い確認するしかないだろう。聞き取りした医師たちが、このHIV感染問題の経験を踏まえて、「インフォームド・コンセントやセカンド・オピニオンについての仕組みをどう作っていくか、あるいはどういう難しさがあるのか」ということを語っている。「医師と患者のライフストーリー第3分冊 患者の語り」では、

「自分たちにとって、『治療を決めていく上でのパートナーとして医師がある』というふうに考えなくてはいけないね」
「医師を『議論の相手である』というような存在にするには、実は患者の側にも責任はあるんだ」


という語りが多く見られる。「いかに対話をするか、いかにそういう場を設けるか」という「対話の必要性」を強調したい。聞き取ることのできた医師の多くは、「未だに自らの責任を問い続け」常に責任を問うていると思われる。ある医師は、

「医者に道義的な責任はあると思うんですね」
「かつて自分たちは情報をどういうふうに処理したのか、いろんな意味でそれを認めて、通り一遍の言い方になるかもしれませんけど、誠心誠意対応するというか、その後の、ですね、エイズの治療も含めてケアを尽くしていくんだ。それともうひとつ、『二度と繰り返さないように努力する』ということで、謝罪とは違うんだけれども、『私たちが責任を取る』ということはこういうことだろう」


と振り返る。医師にとって「患者と切れずにずっと治療している」という実践自体が責任の取り方なのだろう。


(注1)肝炎の治療に使われる薬剤。主成分のグリチルリチンが持つ抗炎症作用、免疫抑制作用などで肝細胞の障害を抑え、インターフェロンを誘起して免疫を高め、ウィルスの働きを抑制する作用がある。

継続する社会的「負の遺産」-いわゆる「薬害エイズ」がもたらしたもの
:西田恭治氏(大阪医療センター)

 西田氏は、今なお感染症以外の種々の問題が存在し、臨床現場に影を落としている現状を報告した。

 「薬害エイズ」においては、経済的な被害者への救済、恒久対策としての国家的エイズ専門医療体制の構築、1980年代初頭にはなかったインフォームド・コンセントという概念とその実施が進んだと考えている。
 「社会的『負の遺産』」として、患者・遺族の精神的・身体的苦痛および損失、遺族固有の問題、血友病患者会の衰退・分裂、次世代を担う血友病専門医の減少、精神主義を求めがちになり観念的となり時として合理性を失った恒久対策などがある。
 被害者の苦痛・損失の状況として、精神的不安定による不安、不眠などの過覚醒状態や、トラウマの原因になった障害、関連する物事に対しての回避傾向があり、深刻な特徴として症状の再帰性(被害への立ち返り・拡大の繰り返し)がある。また運動の原動力として、むしろ心理的外傷の継続が必要とされ、統一要求書の文言から遺族の怒りや苦しみの増幅を汲み取れる。
 「治療薬のためにHIV感染させられてしまった」として医療に過度の不信を抱き、その後の抗HIV療法をも拒みエイズで亡くなられた患者を複数経験している。他の医師も同様の経験をしており、もしかしたら全国的にはこのような転帰を辿った患者がいると考えられる。このように医療施設や医療関係者全般に対する拒否反応を示す患者や、カウンセリングの域を超えて精神科対応が必要な患者が増えており、薬物療法やナラティブ・セラピーが有効であると考えられている。
 「負の遺産」が継続・増大している理由としては、インフォームド・コンセントの概念が乏しかった、あるいはなかった1980年代の出来事を、常識となっている現在の視点から捉えてしまったこと、さらに「民事訴訟」により加害・被害の図式が強調されたこと、メディアが『産・官・学の癒着』という構図を煽動したこと、和解後も医療者・原告・メディアは構図の修正を行わなかったこと、後世に益する必要な「検証」がなされなかったことなどが挙げられる。
 今回のシンポジウムが過去の「負の遺産」の軽減のため、いわゆる「薬害エイズ」を捉えなおすきっかけの一つになることを期待する。

加熱後の血友病診療医から見た「薬害エイズ」:日笠聡氏(兵庫医科大学)

 日笠氏は、1990年頃から血友病診療に関わった医師である。加熱製剤から使い始めた血友病医師の立場から、1980年代初頭の医療の状況を推測し、不確実な状況下での患者と医師の関係について提案を行った。

 現在でも「濃縮凝固因子製剤による在宅自己注射」が血友病の最良の治療方針である。一方、非加熱製剤によるAIDSのリスクは、1982年から時間をかけて次第に明確になっていく。AIDSリスクに関する情報が少なかった時期・リスクが徐々に明確になっていく時期には、「最良の治療方針を捨てなければならないかもしれない」という思いと、患者との付き合いが長いほど、思い入れが強いほど「悪いことは起きてほしくない」という思いが葛藤し、結果的に「最良の治療方針」を転換するほどの選択は考えられなかったのではないだろうか。
 医師にとって、不確実なリスクをうまく患者に伝えるのは容易ではない。また患者にとっても、我が身に降りかかるかも知れない不確実なリスクを、曖昧な説明によって受け入れることは難しい。しかし、治療の選択とそれぞれの危険の比較衡量が問題となるのであれば、その危険性を患者が引き受けるかどうかを、患者の選択にゆだねなければならない。不確実であることを伝えた上で、どうしていくかを患者に尋ねてみれば、患者は考えることができる。患者が考え、その考えを医師が聞くことによって、共に方針を決定していく過程がインフォームド・コンセントである。いわば「今はこうしておきましょう」という方針を「一緒に・繰り返し」決定していく作業が必要である。
 「薬害エイズ」の悲惨さを増幅させた原因として、当初はよく分からない病気で治療薬もなく原状回復できなかったこと、エイズパニックによってHIV感染者の診療拒否などが起きたことなどがある。「未知の致死性の感染症」への恐怖や不安感や、一般社会からの偏見や差別により、被害者は身体的被害に加え心理的社会的に大きな被害が及び、結果的に医療者の力では原状回復を成し遂げられなかったのではないか。
 最後に「医療の不確実性によって、悲劇を背負うことになってしまった人に対して、何がなされるべきか?」という問いを考える基礎資料として、最終報告書「医師と患者のライフストーリー」が役立つことを願っている。

調査企画側からのコメント:若生治友

 「医師と患者のライフストーリー」に掲載できたのは、ほんの一部の人の語りであり、さらに多くの人々のリアリティや人生があったはずである。HIV訴訟に至るまでには、エイズパニックに始まる社会の偏見・差別、一番救ってほしい医療機関から診療を断られ「どこに助けを求めても助けてくれる人がいなかった」など、多くの苦難があったと思う。大阪HIV訴訟初代団長の赤瀬範保さんは裁判を起こす意義として「血液行政の是正、社会の偏見・差別の解消、薬害の根絶」を掲げていた。現状を考えると、血液新法が制定され、血液行政は改善されつつあるが、新型インフルエンザへの社会や医療の対応を考えると、必ずしも差別・偏見の解消には至っていない。薬害の根絶は非常に難しい課題かもしれないが、本報告書がより良い医療を作るための材料となり、医療現場で誰も傷つかなくて済む未来を望みたい。