MERSシンポジウム2007 開催報告 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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MERSシンポジウム2007 開催報告

患者とは何者か?
~患者-医療者間の『せつなさ』と『幸福な関係』~

第一部 基調講演「医療、福祉、そして癒し」


田口 ランディ RANDY TAGUCHI (作家)


東京生まれ。
広告代理店、編集プロダクションを経てフリーライターに。
1996年、紀行エッセイ「忘れないよ!ベトナム」(ダイアモンド社)を出版。
2000年、長編小説「コンセント」(幻冬舎)を発表。本格的な執筆活動を開始。
2001年、「できればムカつかずに生きたい」(晶文社)で第一回婦人公論文芸賞を受賞。

 

2007年夏、整形外科で父が離脱を起こした!!

 みなさん、初めまして、田口ランディです。

 今年の6月に私はヨーロッパに取材旅行に行っていました。2週間ほどの取材旅行から日本に帰ってきて、すぐに九州の水俣に行きました。熊本県の水俣市です。水俣病の患者さんの会で話をするという講演をしてきました。そのときは、座っている方がみんな水俣病の患者さんで、私もなぜ水俣に興味を持ったかとか、水俣に来て学んだことなどを熱く語って、自分なりに「感慨深いな~、あたしも成長したな~」くらいの気持ちで、長い出張から自宅に帰ってきました。家に帰ってきて、旅行中に私の父が脚立から落ちて骨折したという連絡を夫から受けていて、でも、「大した事ないから大丈夫だよ」と夫から聞いていたので、まあいいいかという感じで旅行を続けて羽田に着いたら、夫からまた電話が入っていて、「お父さんが大変なことになっているから、すぐに病院にきてください」と言われまして、羽田からまっすぐ、私の住んでいる湯河原町の父が入院している病院に行きました。行くと先生に呼ばれて「一体、何ですか。あれは!」とすごく怒られて、病院の人がみんな興奮しているんです。父は確かに枝を剪定しているときに脚立から落ちて、腰椎を二箇所骨折していたんです。腰椎骨折なので、およそ一ヶ月はコルセットをはめたまま腰を圧迫しないように寝たきりの状態で過ごさないといけないという、命に別状はないけれども、下半身不随になりたくなければ、絶対安静という状態でした。ところが、私の父というのは、若い頃からものすごい酒乱なんです。酒乱でDV。それで、どうやらすっかりアルコール依存症が進行していたらしく、当然ですけど、骨折で入院したら寝たきりの状態になりますから、酒は飲めません。お酒の飲めない状態が二日続いたものですから、突然、病院で離脱症状が起こったらしいんです。幻覚、妄想状態に陥り、恐怖のあまりに暴れたんです。ところが、そこは整形外科ですから、お医者さんは、アルコール依存症で離脱を起こしている患者なんて見たことがありません。それで「何が起こっているか」っていうことで大変な騒ぎになって、「今すぐ出てってほしい」とまず初めに言われました。父の様子を見に行ったら、鎮静剤をがんがん打たれてほとんど意識朦朧という状態で寝ておりまして、「今日からとにかく24時間体制で家族の方はここで付き添ってください」と言われまして、私は出張明けて第一日目が病院に泊まることになりました。私はとにかく何が起こったのか頭の整理がつかないままに、でも、これは間違いなくアルコール依存症であるし、こういうことがいつか来るだろうということは、かなり予感していたものですから、早速専門医に相談しました。何人か知り合いがいるものですから、「こういう状態なんです」って言ったら、「あ~離脱だね~。とにかく危険なので、早く専門病院に移した方がいいよ」と言われました。「それでショック死する可能性もあるからね」ということで。私は当然のことながら、この病院が転院先を紹介してくれるものだとばかり思い込んでいました。先生が「転院してください、すぐにでも転院してください、とにかくすぐにでも出ていってくれ」と言うので、「はい。わかりました。どこに行けばいいんでしょうか?」と言ったら、「それはあなた、自分で探して下さい」と言われて。「え!?患者が探すんですか!?なんで?」みたいな感じで。「でも、出ていけと言われても、受け入れてくれる病院がないと出て行けないですよ」って言ったら、「もう安静にしておけば何とかなりますから」というようなことを言うんです。めちゃくちゃでしょ?だって、絶対安静という状態で、寝たきりでコルセットはめてて、まだ離脱の真っ最中の人を「自宅に連れて帰れ」って言われたんですよ。私は、出張明けもあって、頭も混乱してたんですけど、「ちょっと待ってください。とにかく、一日二日考えさせてください」って言って、その晩は病院に泊り込んでいろいろと考えて、とにかく、明日の朝起きたら、真っ先にどこの病院が転院できるだろうと考えて、うちの近くの総合病院で整形外科と精神科のある病院がひとつだけあったので、そこに朝一で行きました。

 朝8時から並んで順番を取って、受診できたのはお昼でした。そこの精神科を尋ねたんですけど、その間にいろんな人に電話をかけて、「私こんな状況になっているんだけど、どうしたらいいかしら」と聞いてました。まず、一番状況がわかるのは、アルコール依存症の人だろうと思って、私はずっと仲良くしているアルコール依存症の友人でツキノコウジ君という人がいるんですが、彼は新潟に住んでいて、「壊れ者の祭典」という依存症とか、障害者ばかりでイベントをやっているグループを主宰している人たちで、ときどきイベントを一緒にしていました。彼はアルコール依存症歴が非常に長くて、今はアルコールを飲まない依存症ですので、彼に「私、どうしたらいいかしら、こんなになっちゃったけど」って聞いたら、そのときにものすごくショックなことを言われました。「あ~、田口さんね、まずあなたが変わらなきゃだめですよ。お父さんのアルコール依存症をそこまでしたのは家族なんですから。飲ませる家族がいるから飲むわけで、アルコール依存症の患者というのは、『底付き』という状態にならないといけないんです」って。つまり、「自分がもう生きるか死ぬかという状態になって初めてもう自分側から『この酒を断たなければ、俺は死ぬ』と思う、そこまで家族を突き落とすことができないと本人が自分で立ち直れない。あなた今までずっと甘やかしてきたでしょ?だから、今度こそは突き落とさないとダメですよ」って言われました。「突き落とさないとダメですよ」と言われても、骨折して、意識もないほど麻酔も打たれている父をここからこの先どうやって突き落とせばいいのか、その言葉に愕然としてしまいました。

 そうこうしているうちに、順番が回ってきて、精神科の受診をすることになりました。私は、その事情を説明して、「こういう理由で骨折で入院中に離脱症状になってしまった。できたらこっちに転院して、精神科の治療を受けながら、骨折のリハビリもしたい」ということを訴えたら、精神科の先生が「大変残念なんですが、うちの病院では連携医療をしていません」とおっしゃるんです。「精神科に入院しても、整形外科を受診することが不可能です」と。「どうしてですか?精神科があって、整形外科もあるんだから、両方一緒に診ればOKじゃないですか!」って言ったら「そういう訳にはいかないのです」って言うんです。「じゃあ、私、整形外科の方に行きます!」って言ったら「それも無駄です」と。「整形外科の患者さんを僕は診られないんです」って言うんです。「え~。なんで~!」と本当に訳がわからなくて、何故そういうことになっているのか、「そんなの非合理的じゃないですか!変じゃない!」って言ったんですが、「確かに変なんですけど、これが今のうちの病院の限界なんです」って言うんです。すごく新しくて大きな綺麗ないい病院なんですよ。「じゃあ、先生、私は何が出来るんでしょうか?私は出て行けと言われているし、あの父に対して私が今患者の家族としてできることは何なんですか?教えてください!」と言ったら、その先生も、「まぁ、お父さんがアルコール依存症であるということは、お父さんの問題だから・・・」って言うんです。いや、確かに父の問題だけど、そういうことじゃないだろうと私は思ったんですけど、先生は「あなたにはいつかブレイクスルーが来ます」と言うんです。「お父さんのアルコール依存症とこれから先も付き合っていく中で、何かあなたにとってのブレイクスルーが来る。それは、あなたの問題である。でも、お父さんのアルコール依存症はお父さんの問題である。とにかく今は何も成す術がないのだから、これをやっていくしかないと私に助言できることは何もありません」と言われました。「え~! そうなのか」と思って、そのときはあまりのことに理不尽すぎて疲れていたこともあって、涙ががんがん出てしまって、どうしたらいいのか途方に暮れてしまって、「私は誰に助けてもらったらいいんですか」って言っても「自分で考えて下さい」という感じでした。そしたら、部屋を出て行こうとしたときに、後ろでその先生が一言「僕の父親もアルコール依存症でした」とつぶやいたんです。「え?先生のお父さんもアルコール依存症だったんですか?お父さんはどうなりました?」と聞いたら「55歳の若さで死にました」と本当にそうおっしゃったんです。「は~。ご愁傷様です」という感じで。うちの父はもう78歳なんです。随分生きたな~とそのときは思ったんだけど、そのときに、先生が「それでね、僕は精神科医になったのだと思います。それが僕のブレイクスルーでした。だから、あなたにもそれがありますよ」と。「ばかやろ~、あたしは父のアル中でもう作家になってんだよ!あたしのブレイクスルーなんてもうとっくに済んでるよ!」と思ったけど、その場を後にして帰ってきた訳です。

転院先を探さなきゃいけない!これが現実!?

 そこからは、整形外科の病院との戦いと言うか長期戦に入って。だって、出て行けないんだから、とにかく。転院先がないんだから、ここにいるしかない訳です。もう、交渉です、「置いてくれ。頼むからここに置いてくれ」という。「セカンドオピニオンで精神科の医師も付ける、アルコール依存症の専門医のところにも相談に行ってきた、こういう処方箋ももらってきているからとにかくここに置いてくれ。一刻も早く転院先を探すから、とにかく私が探すから、探すまでは置いてください」という感じで泣きついた感じでした。だけど、そう言いながら、どうして私がここでこんなに泣きついて、お願いして、半狂乱になって「治療を継続させてくれ」と頼んでいるのかわけがわからなかったです。父は骨折をしていて、骨折を直すためにこの病院に入院したわけです。今でも腰椎二箇所も骨折して、最初は「動かしちゃいけない」と自分が言っていたわけです。だけど、いざ、父がアルコール依存症でうちでは治療継続が難しい、離脱の一番ひどいときだけを見て(判断を)下して、出て行けと言っているわけです。離脱症状というのは、長くて一週間で安定するんです。だけど、そういう知識もないから、一番ひどいときだけを見て「出て行ってください」って言っているなとそのときは思いました。「なんてダメな病院、なんてひどい医者!」って思っていました。最初、看護婦さんがすごく冷たくて・・・。うちの父の幻覚は最初ひどかったらしいんです。父が言うには、夢の中で指とか体から竹笹がバーッと出てくる、「竹笹が体から生えてくるんだよ!」と。そして、アルコール依存症はよく行列を見るらしいけど、「武者行列が部屋の中を通って・・・狸のばけものが出てきて冷蔵庫を開けるんだ・・・」って言うんです。でも、本当にその幻覚はリアルらしくて、彼は全部それを現実のことだと思っていましたからね。

 そこからが、私の病院探しの始まりでしたけども、本当に断られました。行く病院、行く病院、全部断られました。アルコール依存症の離脱症状があるということが一番のネックになるんです。それで、精神科病院を片っ端からあたるんですが、今度は動かし難い骨折をしているということがネックになってきて、そういう患者さんをうちでは診る体制がない、要するに、整形外科医がいない。確かに内科はあっても精神科に整形外科があるとはあんまり聞いたことないなと思うのだけど、総合病院に行くと、連携医療をしていないという理由で断られてしまって。初めは神奈川県で探していましたが、およそ30の病院で断られ続けるんです。普通、人間にはいろんな病気が複合的に出てくることはたくさんあるだろうと思うのに、病気が複数になると大変で受け入れてもらえないんだろうと、これは本当に現実なのかと、最初は全く信じられない感じでした。

今度は肺がんも!?誰もこの状況を理解してくれない!

 それで、ついに今度はコネに頼りました。自分では見つからないので、いろいろと知人に尋ねて理事長から声をかけてもらったりとかして、ちょっと(自宅からは)遠いけれども東京のある大きな精神病院で内科も診るというところを見つけました。実はそうやって病院探しをしている間に、もっと恐ろしいことが起こってしまって・・・。入院先の先生から呼ばれて、「実は内臓を打撲していないかどうかレントゲンを撮ってみたら、ここに影があるんですよね」と言われて見たら、肺のところに白く毛羽立ったもやもやってしているものがあるの。「これね、がんじゃないかと思うんです」と言われて、「僕は正確な診断はできないから、この写真を持って専門医の相談を受けてくれ」と言われました。「今度は、がんか」と思ったけれど、大至急受けてもらわないと困ると言われたので、それを持って、静岡県立がんセンターというところに行きました。そこに行って、レントゲン写真を見せたら、「かなりの確率で肺がんですね」ということになり、静岡県立がんセンターというところでも、「アルコール依存症&骨折しています」って言ったら「うちではムリ。うちは、がんの治療に専念できるがん患者しか入れません」と言われて、「そうなんだ」と思ってすごすごと帰ってきました。がんの治療に専念できるがん患者しか入れないのなら、そりゃあ治療の成果は上がるだろうなと思いましたけどね。でも、がん治療とかで成果を上げている病院とかって本当にがんの治療に専念する患者しか入れてくれないんですよね。いい患者しか入れないから、治る率が高いんだなと私は思いました。

 今度はがんも加わっちゃって、がんも診てくれるかなと思いながら、東京の板橋の方にある、ある大きなグループ精神病院に行きました。事情は全部説明しておきました。がんでもあるし、骨折もしているし、一番の問題は、アルコールの離脱症状を緩和させないと、全く治療に取り掛かれない状態だと。と言うのは、整形外科の先生なのでよくわからないらしく、父の離脱症状は行動を押さえ込むために鎮静剤の投与の比率がガバーッと投与していたんだと思うんです。だから、なかなか離脱症状から抜け出せなかったわけです。だから、ずっと徘徊とか、奇行、幻覚とかが続いていて、それで確かにその病棟の看護師さんとかはうちの父がいるだけで一人か二人、かかりっきりの状態になってたんですよね。だから、「早く出ていってくれ」と言われることばかりだったんですけど、こちらも、これだけ手を尽くして探していても、転院先が見つからなくてという感じだったので本当に出て行って差し上げたかったんだけど難しいという状況でしたね。それで、紹介してもらった病院に行きました。精神科の病院で内科もあるということだったので、私が予約を入れて、待っていたら、そこはアルコール依存症の専門病棟を持っていたのですが、そこのセンター長がやってきたんですよ。その人の顔見たときに、完全にこの人シャッター降りてるなっていう顔してやってきたので、ちょっと不安になったんですよね。フレンドリーな感じ全く無し、バシっとシャッター降りているっていう感じの人いるじゃないですか?そういう人がやってきたの。私、一応作家ですからね。人を見る目はありますからね。シャッター開けているか、降りているかくらいわかるんですよ。一目見ればね。「あ~。こりゃ、降りてるわ。開けられるかな」という感じだったんだけど。実際に話をし始めると、「とにかく早く帰ってほしい」って感じがアリアリなんですよ。だけど、私も実はその病院に行くって決めたときに、なぜ東京までその病院を探したかと言うと、ついに父が入院していた整形外科の病院から7月20日には強制的に出て行ってもらうと、言い渡されていたんですよ。それで、行ったのは19日だったので7月20日が翌日に迫っていたんです。だから、私も使いたくないようなコネを総動員して病院の理事長に声をかけてもらって、それで、病院に行ったわけですよ。こちらも、理事長の紹介だから何とかなるかもってすごい甘い考えがあったからバカだったと思うんですけど。「あなたのお父さんってがんなんですよ。わかってんですか?」って、まず言われたんですよ。「あのね、アルコール依存症とがんとどっちを先に治療しなきゃいけないと思いますか?」と言われたから「アルコール依存症だと思います。今、離脱症状を何とか抑えない限り、全く他の病気を治療できない状態にある。だから精神状態の安定が一番だと思ってここに来ました」って言ったら、「バカじゃない」みたいなこと言われたんですよ。「やっぱりがんの治療の方が先でしょう」と。だけどね、がんの専門病院に行けば、「アルコール依存症を何とかしてから来てください」って言われちゃうわけですよ。「じゃ、どうすりゃいいのよ?」って感じでしょ?「私はいろんな病院に行ったけど、がんの専門病院に行っても、とにかく離脱症状を抑えてからじゃないと、本格的な治療には入らないから、離脱症状の緩和をとにかく最優先に考えてくれって言われたんです。だから、ここに来たんです」っていうことで、てこでも動かないぞ的な姿勢を見せたんですよ。そしたらね、ここの病院の内科医っていう人が出てきて、「ここの病院の内科医から説明を受けてください、お父さんのがんがどの程度か」と。内科医がお父さんの写真をこう私に見せながら「あなたね、これが見えないんですか。これが。こんな毛羽立っているっていうのは、がんなんですよ!」っていう言い方なの。これ、誇張じゃないですよ!本当に誇張じゃないんですよ。「この毛羽立っているのってがんなんですよ。これをどうにかしないで、アルコール依存症の治療も何もないでしょ?大体、うちじゃね、こんな重篤ながん患者を預かれない。預かったところでもう責任持てないから、とにかくうちの方針だから、いくらあんたが頑張ってもどうしようもないんです」って言われたんです。あたしね、さすがに頭にきて・・・。帰っちゃうわけ、お医者さんの方は。よくわからないけど、事務室みたいなところでお医者さんや看護師さんたちが事務をやっている部屋にひとり残されたんですよ。だけど、今帰っても、明日転院って言われているから、どうしようもないじゃないですか?ここは、少なくとも精神病院だから、せめて、あたしよりは情報を持っているだろうから、情報提供してくれるなり、何か相談にのってくれるなり、たとえダメでもこの断り方はないんじゃないかなと思って、そこらにいて全く無関係の看護師さんやお医者さんに「これってひどくないですか?あたし、どうしたらいいと思います?だってうち帰ったら明日転院させられるんですよ!」ってずっと怒鳴り続けたの。本当に。誰か助けてくれるんじゃないかと思って。そしたら、見るに見かねたらしくて、そのうちの一人の人が、病院ガイドっていうのを持ってきたんですよ。「あなた住んでいるとこどこですか?」「神奈川です」って言ったら、神奈川県の病院ガイドのページめくって「神奈川県立衛生保健センターっていうところに電話したことありますか?」って言われたから、「いえ、まだありません」って言ったら、「ここだったら何かの相談にのってくれるかもしれない」って言うんですよ。あたしも、もうここで何とかしなきゃって思っていたから、「今ここで電話をしてみてもいいですか?」って言ったら、「はい。じゃあ、これで電話使ってもいいから、こっから電話してごらんなさい」って。保健センターに電話するとだいたい、いつもと同じパターンの受け答えなんですよ。「神奈川県の中にがん疾患の患者さんを持っていて、連携医療等で精神科も診られるってところを私たちとしては情報を持っていない。だから個々の病院をあたってくれ」と。保健センターからもそう言われると。「ほらやっぱり。あたしは30の病院に電話して断られているんですもん」って言ったら、「じゃ、まだ残っていて可能性のありそうな病院っていうのがあるから、ここで一緒に電話をかけてみましょう」ってその人が言ってくれて、その場で10くらいの病院をあたったんですよ。その場で、「こういう風に言ってごらん」っていろいろアドバイスをしてくれるんだけど、やっぱりダメで。「やっぱりダメでしたね」って言ったら、その人が、「あ~自分が想像していた以上に厳しい現実だ」っていう風に、初めて共感してくれて、初めてその言葉が聞けたから、あたしはその病院を立ち去りました。この言葉を聞くまでは、絶対にここに居座ってやるって思いました。だって、舐めてるもん、患者を。患者の現実をわかってくれるまでここを立ち去るもんかって気持ちでちょっとねばってしまいました。

ようやく転院先が見つかった!・・・寄り添って欲しかった。

 でも、困ったなーっと思って、明日転院しないといけないのに、と思いながら帰り道を歩いているときに、以前、あるシンポジウムで一緒になった東大の救急の教授のことを思い出したんですよ。電話をいっぱいかけたからケータイの電池なんて切れているから、電話ボックスに入ってその教授に電話をかけたら、たまたまその人がいて、事情を説明して、「明日転院しなきゃダメなんです!」って言ったら「わかった。どんな病院でもいいか?」って言うんですよね。どんな病院でもいいかって言われても、「せめてうちから近いとこでがんの検診が受けられるとこなら尚いいです」って言ったら、「精神科ではあるかどうかわからない」って言われて、でもそれだったら、「あなたの家の近所に救急で押し込んであげるから、すぐに今の病院に電話をして、民間救急車の手配を明日してくれ」って言うわけ。民間救急車の手配をして待っていたら、その人から電話がかかってきて、「茅ヶ崎にある、ある病院に救急で明日連れていけるようになったから、とにかく転院させてほしい。ただし、そこは精神科はないよ」と言われたんですよね。精神科はないにしてもそこには呼吸器内科があるから、肺がんの精密検査は受けられる、「救急で変な患者も慣れているからお父さんのことも対応できるんじゃないか、いい病院だ」って言うんですよ。そうか~と思って、がんの進行具合がわかればまだちょっと進歩もあるしなと思ったんです。私はその場で、整形外科の、今父が入院している病院に電話して「先生、転院先見つけましたから。でもね、明日先生に本当に言いたいことがあるので時間を取ってください。転院しますけれども、30分私に時間をください」って言ったら、先生はちょっとおじけづいちゃって。

 それで、その病院で入院している間に、最初のうちは本当に看護婦さんが冷たくて、やっぱり恐かったんだと思うんですよね。見たこともないような離脱症状の患者で暴れていて、徘徊がすごくて、歩けないくせに床を這ってどこまででも行っちゃったりとか。家族でも24時間の付き添いはできないから、「毎日決まった時間、6時間は付き添うから、後はなんとか頼みます、じゃないと、転院先を私が見つけないと転院先を見つけることができないんです」って説得して、何とか看護婦さんたちに頑張ってもらってたんだけど、そうやってなんとなく付き合っているうちに、最初はとても冷たくしていた看護婦さんたちがだんだんいろんなことをわかってくれて、優しくなってくれて、特に婦長さんがすごく理解を示してくれましたね。その病院では。私は何度も何度も医者とやりあったんですけども、そのお医者さんが、うちの父のことを「だってどう見たってあれ、変じゃない。あの患者は変なんですよ。だから出て行ってもらわないとうちとしてもやりようがないんですよ。わけのわからなくなっちゃった人は」っていうようなことを言ったんですよ。私は、確かに父の行動は奇異なんだけれども、私がずっと付き添って、ある程度、その後、家族だからかもしれませんけど、父の要望を汲み取っていると、すごく落ち着いておとなしくしているんですよ。だから、ここは福祉施設じゃないし、老人施設じゃないから、看護師さんにそれを望むのは難しいと思っていたんだけど、先生の言い草はあんまりだと思って、「先生、でもね、全く何もわからなくてごねている訳じゃないんですよ。父には父の、暴れるには暴れるなりの事情みたいなもんがあると思うんですよ」って一緒にいつも話し合いのときには婦長さんは隣に座っているんだけれども、いつも一言もしゃべらないんですよ。そのとき初めてね、「ね、婦長さんもそう思いませんか?うちの父って本当に頭変なんでしょうか?」って言ったら、婦長さんが「私たちがお父さんを変だと思うように、お父さんから見たら、私たちの対応がよっぽど変なんでしょうね」って言ってくれたんですよ。それはね、婦長さんにしてみれば、お医者に盾を突かない、私に対する最大限の思いやりだと思いました。その一言がすごくうれしかったです。その転院する朝も父の髭を綺麗に剃ってくれて、玄関まで見送ってくれました。私は、病院としては最低だなと思いましたが、看護はまずまずいいじゃんみたいなね、すごい横柄な家族だったんですよ。次の病院に転院して自分たち家族がいかに横柄な患者家族かっていうことがわかるわけですよ。もっとひどかったから。あそこはすごいマシだったんだって、後から気付くんですけどね。

キュアとケアの温度差 ~患者家族として感じたコト~

 救急で茅ヶ崎の病院に運ばれまして、すぐに精密検査というか、がんの状態を調べてもらってその日はそこに入院ということになって、父はある程度落ち着いていたので、いくらか安心してうちに帰って今日こそはゆっくり寝られるかなと思って、夕方ぼんやりと一息ついていると虚脱感が訪れて、チューハイ一杯飲んだらヘロヘロになって、っていうところにさっき転院した病院から電話がかかってきて。「すぐに来てください。お父さんが暴れています」と。「今すぐには、私・・・」と言っていたら、電話が主治医に変わって、転院したときには外来で忙しいとか言って一度も顔見せなかったですよ。「いつ主治医の先生に会えるんですか?」って聞いたら、「2、3日後でいいんじゃないですか?検査も終わるまでは主治医からは何も連絡事項ありませんから」って言っていた先生なんですよ。だけど、よっぽど父が暴れたのか、出てこなかった先生が電話に出てきて、「主治医の●●です」とかって言うんですよ。「来れませんか?ご家族の方。今大変なことになっていて、うちの看護師じゃ手に負えません」って。手に負えないっていうのは、暴れて物を壊すとかじゃなくて、徘徊なんです。離脱が起こると、今自分がいる場所が正確に判断ができない、わけがわからなくなって、家に帰ろうとするんです。私は本当にその日は行けないと思ったので「ごめんなさい。さすがに疲れきっていて、今日は行けません。明日にしてください」って言ったら、先生も私の雰囲気から今呼び出したら患者の家族を追い詰めちゃうなと思ったらしく、「わかりました。明日の午前中に必ず来てください。あと、ご家族の付き添いがなければうちでは転院してもらうことになります」って言い出したんですよ。すごく困りまして、また、転院か、ここまで来るのにこんなに苦労したのに、あたしが付き添ったら仕事はできないし・・・って考えているうちに、付き添うだけなら私じゃなくてもいいんだって思いついたんですよ。それで、インターネットで検索をかけて、付き添い看護とかを探し始めたら、神様っているんだなっと思いまして。その病院の真裏に家政婦派遣所があったの。それで、病院にすごく近いから、誰か家政婦さんを派遣してくれるかもしれないって思って、夜の9時半くらいだったけどそこの事務所に電話かけたら、そこの人が出て、説明したら、「わかりました。10時ですね」って言って付き添いさんを探すって言ってくれたんですよ。そこで、何で医療ってこんなに対応が悪いのに介護ってこんなに対応がいいんだろうって、ものすごく介護と医療とのギャップを感じてしまいました。朝、病院に行ったら、私より早く付き添いさんがいるんですよ。50~60代の女性なんだけど、聞けば、そこの病院っていうのは昔はみんな付き添いさんが付いていたんだって。ところが、「ある時期から付き添い禁止になっちゃったんですよ。でも、病院の看護体制としては、完全看護なんかとてもできるもんじゃない、だから内緒で付き添いさんをみんな頼むんですよ、でも名目上は家族ってことにしてもらわないと困るんだけど、病院も何考えているんだかね~」ってことを言っていたの。そこの病院の看護は本当にひどかったです。別に看護師ひとりひとりが悪いとか言うわけではなくて、そこの病院は私が救急で入れたように、いろんな救急の患者さんを受け入れている救急病院だったんですよ。一日に何度も救急車が行ったり来たりしていて、救急患者だけでみんな手一杯なんですよね。ずっと付き添いでいたからよくわかったんだけど、ここの病院は救急で患者を受け入れているというだけで手一杯でちょっと救急じゃなくなった患者さんの手当てが出来ていない。24時間救急を受け入れているから労働時間も過酷で、どうやら看護師さんがあんまり居つかないらしいんですよ。看護師さんの申し送りなんてほとんど通らないんですよ。だから、看護体制がとても不備、それはその、だから誰が悪いっていうものではなく、構造上の問題というか、制度上の問題というか、そういうことを感じました。だから、ひとりひとりがどんなに一生懸命頑張ろうと思っても、経験もないし外人部隊みたいな看護師さんばかり寄り集めて、年がら年中救急患者さんで、てんてこまいになっている中で看護師さんは病室に一日何度来てくれているかみたいな状態で、うちの父はいわゆる薬漬けの状態のまま、肺がんの検査だけはここで終わったんですよ。ただ、多量の薬を投与されたもんだから、今度はアルコール依存症の離脱症状から認知症にそのまま移行していきました。どんどん認知レベルが上がっていき、入院中に自分の名前とか生年月日とかが言えない状態になったんですよ。私はこの病院で、精神科のいない病院でこのまま放置しておくと、認知症のがん患者になってしまうと思ったので、父は認知症じゃないんですよ、アルコール依存症から認知症に移行する可能性はあるけれども、脳のCTを見ても脳の萎縮は全く見られなかったから、これは薬によるものか、栄養状態の悪化と考えたんですよ。私はアルコール依存症に関しては結構勉強したので、そのことも含めて、ビタミンB群の投与が認知症の予防になるからっていうことも先生にお手紙で渡しました。だけど、先生からは「うん、いろいろアドバイスありがとうございました。参考になりました」みたいなこと言われましたけど、ビタミン投与など一切改善されませんでしたから、やっぱり素人の言うことなんて先生は聞いてくれないんだなと思いましたね。がんというのは確定して、その先生はとても的確に私の望むとおりにがんの検診を行ってくれて、父の進行度合いはこの病院ではっきりしました。先生の診断では「ステージ4で肝臓にも転移が見られるから、これは末期で薬物療法もお勧めしないし、このまま、ターミナルということで」っていうサクっとした説明を受けました。まあ、アル中だしもう死んでもいいんじゃない?っていう感じでしたね。そうは言いませんけどね。雰囲気はそんな感じ。「もう80歳だし、アル中だし、こんな状態だし、認知症にもなっているし、で、末期がんだし」。がん患者の友人がたくさんいるもんですから、そこからいろんな情報をもらって、肺がんのラジオ波治療が有効だと聞きましたけどって言ったら、「でも、今からそれをやるって感じでもないでしょ?」みたいな。先生がそう言うのは、父が治療に積極的な患者じゃないからだと思うんですよね、私は。父はがんの治療に専念できないのは目に見えてましたから。

 あまりに万策つきて、医療コーディネーターというプロを頼みました。これもある方に紹介されたんですけど、あまり一般的に知られていないんですけども、日本医療コーディネーター協会というのがあって、HPがあるんです。そこに登録医療コーディネーターというのがいて、患者の病院探しの手助けをしてくれるということで、そこで医療コーディネーターを雇いました。平沢さんという医療コーディネーターの方がやってきました。都内の大きな病院で30年間看護師をしていて、10年間は婦長をしていたと言う人です。ものすごく頼りになりました。病室までやってきて父の様子を見てくれて、本当に親身になってくれて、一緒になって病院探しをしてくれました。最終的には、彼女の医療コーディネーターの後輩の看護師さんが勤めている精神病院にうちの父は転院できました。今はまだその病院に入院していますが、そこは内科もあって、慢性期の患者を扱っている病院で、適切な治療を受けて、父の認知症は一週間で回復しました。放っておいたら、もっと悪化して戻らなかったかもしれないです。今は腰のリハビリも終わって、12月には戻って来れます。がんは、もちろんがんのままです。先生は末期だとおっしゃいましたが、年寄りなので進行も遅いもんですから、病院で快適な生活をして栄養状態も普通に良くなったので、がんの症状も見られず、本人にはまだ告知していません。

無力感、みんな持ってる。真正面から向き合わないと。

 私は本当に医療に絶望したり、看護師さんがひどいとか、最初は文句ばっかり言ってました。文句と不平不満。頭来て、いろんなことがくやしかったです。なんで自分はこんなに無力なんだろうって思うし、自分の無力感を痛感する毎日でしたけど、転院とかいろんな方の力を借りて病院が見つかっていく中で、実は、医療者の方もすごく無力なんだってことに気づきました。看護師さんもいつも無力さを感じています。病院の忙しい体制の中で、思うような看護ができないとか、自分はこんなことをやるために看護婦になったわけじゃないのにとか、いろいろ無力感を持っているし、ソーシャルワーカーの人はソーシャルワーカーの人で自分の経験のなさとか病院との板ばさみの中で思うように患者さんにしてあげられないことの無力感を持っているし、お医者さんはお医者さんで整形外科では精神科はお手上げみたいなところでね、やっぱり無力感を持っていると思うんですよね。私は転院するときに先生に時間をもらって30分間、「本当に自分は苦しかった、病院っていうのは、突然病気になったり、怪我をしたりして途方に暮れた人がやってくる場所なのに、どうして誰も手伝ってくれないのか、相談にのってくれないのか。私は先生のことは嫌いじゃないです。先生は一生懸命治療をやってくれたと思う。でも、もうちょっと私に寄り添ってほしかったんです。もっと私の気持ちになってほしかったって、それだけは最後に言っておきたかったんです。次にここに来る患者さんたちは途方に暮れて困ってここに来るってことをわかってあげてください」っていうことを、泣きながら言ったら、その先生が、初めて私の話を聞いたっていう実感を得ました。そのときは、本当に真剣に私の目を見て話を聞いてくれたんですよね。だから、その病院でもいろいろあったけど、転院するときは気持ちよく転院できましたし、こんなことやってて、自分もしんどいし、文句言うのも疲れるだけなんですけども、患者の側も真正面から向き合わないと医療者とわかり合えないし、話せばわかるというのが多少はあるというのが、私の夏の経験した実感です。