MERSシンポジウム2007 開催報告 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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MERSシンポジウム2007 開催報告

患者とは何者か?
~患者-医療者間の『せつなさ』と『幸福な関係』~

第二部 パネルディスカッション「患者とは何者か?」


司会:花井十伍(ネットワーク医療と人権 理事)
パネラー:西川勝氏、ヨシノ ユギ氏、田口ランディ氏、日笠聡氏


日笠 聡 SATOSHI HIGASA (兵庫医科大学血液内科)


1962年生まれ。
1987年に兵庫医科大学を卒業後、1990年より血友病診療に従事。1990年代前半、多くの医療機関がHIV感染症の診療を拒否する中、兵庫医大病院において血友病HIV感染者治療に先駆的に取り組み、関西におけるHIV診療の牽引役の一翼を担ってきた。
1996年より関西HIV臨床カンファレンスの理事を務めている。
2001年より日本血栓止血学会の血友病治療標準化検討部会委員となる。
2000年より「NPO法人ネットワーク医療と人権」の理事に就任。
血友病、HIV感染症、C型肝炎の包括的な診療ができる、全国的にみても希有な臨床医のひとりである。

 

はじめに

花井:
 今、基調講演を頂いたお三方に加えて、兵庫医科大学の医師であります日笠聡さんを交えて、私、花井十伍の司会によりパネルディスカッションを進めてまいりたいと思います。日笠聡さんは、兵庫医科大学を1987年に卒業後、主に血友病診療を従事されてこられて、今もHIV診療等を経験し、現在、さまざまなNGOやMERSの理事もやっていただいておりますし、日本血栓止血学会・血友病標準化検討部会の委員でもあります。

 司会の私は、ネットワーク医療と人権の理事でもありますが、どちらかと言うと、私も患者側と言いますか、血友病患者で、HIVに感染して裁判などをして、もう感染して二十数年経つんですけども、その間、医療の方々ともお知り合いになり、いろんなことがありましたが、ここへきて、「医療とは何か?」「患者って何だろう?」と考える機会が多くなり、こういったタイトルとしては抽象的なパネルディスカッションを考えました。

 さて、第二部ですが、こういう場に医師の方がいると医療側の代表みたいなことをしゃべらされる傾向がありますが、ここではとりあえずそういうこともなく。前半の講演を聴いて、日笠さんの方からコメントをお願いします。

日笠:
 兵庫医科大学の日笠です。ご紹介いただいたように血友病をずっと診ています。こんな人達が患者さんやったら恐いなというのが、コメントですね。これは血友病患者でも慣れているんですけど、患者さんの思い通りにしてほしいという気持ちはとてもよくわかります。それを実現させてあげたいと、医療従事者も思ってはいるんですけど、最後の方でもお話が出ましたが、できないところが・・・。個人の資質でできないとか、専門が違うからできないとか、この病院の体制ではできないとか、この経済状況ではできないとか、さまざまな制約の中で、やってあげたいことほど、できないこともたくさんあります。

 できてないところに「できてないじゃないか!」と言われると、やっぱり「それはそうなんですけど」というのが医療従事者としては一番辛いです。やってあげたい気持ちはあるけど、できないこともたくさんあるわけですし。それは自分の力では無理な場合もあるし、自分の力でできることもあります。いろいろとございます。

専門家とは何か?専門家は必要か?

花井:
 先ほど、田口さんの話にもありましたし、西川さんの話でもちょっとあったんですが、今、「できることと、できないこと」というくくりになると人には限界があるし、一生懸命やっていても期待されないという話もあろうかと思います。一部、西川さんの講演の中では、専門家はわかることは解決するけれども、わからないことは問題がないことにして、それは解決しようとしないと。西川さんは、直接はそうはおっしゃらなかったけれど、わかることだけを解決しようとする、わからないことは、むしろ、そこには問題がないことにしてしまうのが専門家の傾向ではないかという指摘があったように思います。日笠さんはそういうタイプの医者ではありませんが、一般的にはそういう傾向があるのでしょうか?

日笠:
 わかることをつきつめていくのが専門家です。特定のジャンルをどんどん掘っていくのが専門家ですよね。そこを深く掘ることに日々エネルギーを費やせられれば、られるほど、横のところにはエネルギーが及ばなくなって、専門以外のところは見えなくなっていってしまうという傾向がある訳ですね。だから専門家と呼ばれる人はそういう人だと逆説的に言えると思います。

花井:
 日笠さんはどうですか?

日笠:
 僕ですか?よくわかりませんね。専門家なのか、どうなのか。診ている病気が血友病とかHIVとかいう病気で、そのジャンルについては必要な専門的な知識はたくさんありますが、どちらの病気も今のところでは一生治らない病気なので、血友病やHIVを診ながら別の病気を診ているというところが結構たくさんあって。典型的に言うと、血友病の患者さんのC型肝炎を診ているので、血液内科だけど、肝臓内科みたいに、インターフェロンでC型肝炎の治療をしていて、いわゆる普通の血液内科よりは肝臓のことについては詳しいはずなのですが、血液内科として本来もっと詳しくなってもいいエネルギーがそちらにとられているということになるので、血液内科としては専門性が少し落ちているのかもしれません。

花井:
 必要に迫られて、ということですね。

日笠:
 「肝臓の専門の先生に送ってしまえばいいじゃないか」という話はもちろんその通りなのです。その方が、いいケアが受けられる場合もありますので、もちろん「肝臓の先生のところに行きますか?」と聞くのですが、 「肝臓の先生のところに行くのは嫌です」 と言う人もいるので、「じゃあ、先生のところでやってください」と言われると、肝臓の勉強も少ししなければならないですよね。しかしながら肝臓の専門の先生よりは専門性は落ちるわけです。それは、どちらがいいのか、患者さんによって違うわけですけども、僕にはどれがいいのかはわかりません。

花井:
 西川さん、どうですか?日笠さんは、できないということはあるかもしれないけれども、他の自分の専門外でもやってみようかと、患者が「先生やってください」と言うと勉強してみようかというスタンスだと思います。

 先ほどのお話から言うと、専門性が深まる場合、逆に言えば他のことには目がいきにくくなるという、両義性がある中でのお話だと思うのですが、何かコメントをお願いします。

西川:
 専門家というのは必要ですよね。絶対に必要だと思います。「何でも診ますよ。どんな病気でも診ますよ。でも、ものすごく詳しいわけじゃないですよ」という人ばかりだったら、心臓に血管がつまったり、脳になんかできものができたりだとか、という病気になったら死んでしまわないとしょうがないですよね。

 心臓手術だとか、脳手術だとか、ものすごく専門性が高いために多分一生に何回もお世話にならないですよね。でも、きちんと専門家に正確に治療してもらわないとその後が続かない。そういうことがあるから、専門家は必要なんですよ。

 ただ、専門家がずっと必要かというと、そうじゃないわけで、心臓の手術にしたって、脳の手術にしたって、医者と言っても誰でもできるわけじゃない、その人しかできないという手術で患者さんを助けた後、ずっとその医師が必要かというと、おそらく別に医師は必要ないですよね。それよりは、帰ってきてからの看護師さんの対応だとか、家族がどんなふうにして迎えに来てくれるだとか、近所の人がどんなふうに挨拶してくれるだろうかとか、そういう普通のケアが普通の生活を支えるわけです。生命の危機的な状況には、その危機にあんまりびびらない専門家じゃないと困るわけです。「どうしよう」と言われたら困るわけです。一生に一度しかないような手術を受ける、それも全員がなるわけじゃない。100人、1000人に一人の人がなる病気、たった一回の病気を専門にずっとやり続けていた医者というのは、確かに、普通のことを考えていたらそんなことはできないわけです。腕は上がらないと思います。だから、必要でしょうけど、ずっと必要じゃないと思います。

 ところが、あまりにもその力がすばらしいがために、何でもやってくれるような、そういう期待を我々が患者になったときに、できるだけ名医にかかりたいと思うわけです。そのために、すべてのことを預けてしまいがちなところは確かにあって、だから、そういう他の人が持ってない技術を持っているプロに対しては、社会的な地位も報酬もすばらしく高いのです。ところが、その後一生を支えていくような、最近では誰でもできるような介護の資格化が進んでいますけど、僕はあれをどんどん資格化していくことは、専門化していくことは本当に正しいのかどうかというのは疑問があります。人が歩いたり、食べたり、お風呂に入ったり、トイレに行ったりということを資格がないとできないようにしていいのかと思いますね。人が普通に暮らしていくところは、普通のケアで何とかやっていくというような、広がりのあるケアというか、「私はケア専門家ではありません、ケアの従事者ではありません、医療者ではありません、だから何もわかりません」で本当にいいのかなと思います。

 頭が痛いときにどうするか、子どもが熱を出したときにどうするかということを、ある意味、人が苦しんでいるときに何か手を差し伸べるというのはみんなが持っていないと本当はダメなのに、全部病院の中にあるかのように思ってしまう。白衣の人なら間違いないと思ってしまう。そこにひとつの矛盾があるのかもしれません。

 プロはプロでできることはきちんと説明するということはもちろんですけども、できないことというのもきちんと説明するということが、非常に大切なのではないでしょうか。

「ケア」と「キュア」

花井:
 患者というのは「わからないんだ」というところから出発する。しかし、(医師が)「わからない」と言えば「先生、わからないんですか?専門家でしょ?なんで僕の病気のことわからないんですか!?」ということにもなり、そこは患者側からすると、期待しているものと、期待していないもの、どうも整理がつかないまま、矛盾したままになってしまうところがあると思います。医者側からそういうふうに求められているもの、ケア(care)とキュア(cure)という概念が違うように、イルネス(illness)とディジーズ(disease)(注1)が違うとか。ケア全般を病院ができるのかというと、田口さんのお話にもあったように、看護師さんじゃなくて介護してくれる人がいればいいのかとか、付き添いさんという話も出ていました。そこのところを、日笠先生の方から交通整理をしてもらえますかね?

日笠:
 ケアは、その人を手当するということ、キュアは治すという意味です。治せる病気はキュアすれば、治ってしまえば誰も手を差し伸べる必要はなくなるわけです。キュアを目指すということは、「もうあなたは病院に来なくていいです、僕の前に来なくてもいいですよ、もう治療は終わりです」というのがキュアです。

 そうできる病気もありますが、そうできない病気もあるのです。「治せないから、ご愁傷さま」では済まないので、治せない中で何か少しでも良くないことを良い方向へ、その人が「良くない」と思っていることを良い方向へしてあげる方法がないかと考える、というのがケアだと思っています。

花井:
 ある程度、後者のケアの部分も病院という施設で行っているということ、行っていくべきだという理解でいいですか?

日笠:
 「行いやすい病院」と「行いにくい病院」がありますよね。だから、救急病院でケアはできないんです。キュアする、もう死にそうな人を助けるためのところが救急病院の仕事で、ずっと長いこといたいと思っても、次に来る人が入れないということになると、そういう人は「一般的にケアするところに行ってください」となります。それが長期療養型病院とか、介護施設とか、そういう方向へ進んでいくということになると思うのです。

花井:
 ヨシノ君は、先ほどかなりGIDについてお話いただきましたが、実際、医療と言う、病気なのか、病気じゃないのかというのが、僕もややこしいところもあります。医療というとケアとキュアという話がありますが、GID医療に伴ったことでさっき話しきれなかったところをお話いただけたらと思います。今回の医療機関に対していくつか不満なことがあると思いますが、具体的に何かコメントお願いします。

ヨシノ:
 今の、ケアとキュアの話でいくと、そもそも、いわゆる性同一性障害・GIDを何らかの病気とか疾病とかに規定するかどうかということはとりあえず置いておいて、それを「病院として扱いますよ」と表明したときに、やっぱり、治る、治らないという単純なところではないわけです。医療を受けた当事者の医療行為を受けた後の生活の質の向上だとか、人生に対する考え方がいかにポジティブになれたかとか、そういうところで評価するものであると思います。当然それには限界があるわけですが、例えば、今持てる技術を使って医療行為をしたとしても、もともと身長180センチあってガッチリした体系で男として生まれた人が「女性の体に」と言っても、なかなか本人が望むような形で実現されることは今の状況では難しいのです。実際に技術としてできないこともあるし、本人が望むような形で実現できないこともいろいろあるわけです。だから、GID医療ということで考えると、継続的に見ていく必要がある分野と考えています。

 ただ、継続的に(治療を)していくということで医療・カウンセリングの中で救われていく・楽になっていく人もいるし、あるいは、当事者コミュニティとか、そういう別の関わりの中で楽になっていく人もいるし。私は割とどちらでもない、特にGIDとは直接関係のないコミュニティの中で仲良くやっていますし、一概に医療の枠の中でカウンセリングを継続したからといって、必ずしもそれがプラスになるかというとそこは難しいのではないかと思っています。

 今回の私の裁判の話で言うと、もともと「チーム医療というものがあります。治療の前後を通じて精神的なケアをして、身体的な医療行為をして、連携を医療チームという形でします」というのが、ジェンダークリニックなんですね。そういう中で安心して治療を受けたいなという気持ちで正規医療に進んだのですが、実際にはそれを標榜していながら、果たされなかったことがたくさんあったわけです。例えば、同じ病院の中にいながら私の精神科の担当主治医が、私がいつ手術を受けたのか日付すら連絡が行ってなくて。結局、私は手術してから「壊死した」と言われるまでの間、何のケアも受けることができずに、ひとりで徐々に患部が腐っていく状況に耐えなくてはいけないということが起こってしまいました。

 また、当然、医療の限界というのはわかっています。完全に男性とか女性とか、そういう風に見える完全な体が手に入るということはこちらも当然思っていないわけです。個人個人が望むあり方、性と身体との折り合いの付け方の中で医療側と相談してなるべく最善のものを提供してほしいということで、事前に医療側にはいろいろと相談もしていて、かなりしつこく伝えていたはずなのですが、いざ、治療が終わってみれば伝わっていなかったのです。

 「皮膚移植すればいいからそんな深刻になる問題じゃないじゃん」というニュアンスの言葉が向こうから出てくるわけです。だから、さっきも言ったように、「男性の体から女性の体になりたい人というのは胸を入れればよくて、女性の体から男性になりたい人というのは胸を取ればよくて、その質は問われない」と。「近似した状態になればいい」という治療側が持っているジェンダーの画一的な概念とか体に対するイメージとかが大きく左右しているのではないかと思っています。

花井:
 ヨシノ君の話は、二重的に、おもしろいと言えば怒られるのかもしれませんが、多分、前半の講演を聞くと、しまいにはGIDという診断を受けた患者会で仲間を作ったら、その仲間からも村八分になりそうなお話だったと思います。

(注1)イルネスもディジーズも「病、疾患」という同じような意味で使われるが、医療人類学でははっきりと区別される。イルネスは文化的な概念であり、自分で異常を感じる状態のこと。ディジーズは病理学的な概念であり、医師によって診断、命名されるもののこと。

「病名」、「診断基準」、「患者」

花井:
 僕らが診断してもらうのは、血友病とかエイズとか、診断してもらった方がわかりやすくていろいろ楽だから、でしょ?診断名がついてちょっとは救われたという話がありました。ADHD(注2)の患者さんにもそういう方がいて、だらしなくて、何にもできないなと思っていると、「あ、病気だったんだ!」と。そこで救われる面と、その名称がついたことによって「なんか違うぞ」という面と両方があると思います。

 若干、今日のテーマについてつながってきますが、田口さんはどうですか。お父さんはアルコール依存症と骨折とがんと、3つ病名がついて、その病名の専門領域はどこも無理だと言われましたが、病名と患者、病名と病者そのものについて何かコメントありませんか?

田口:
 うちの父はアルコール依存症で、アルコール依存症の家庭の子どもは機能不全家族で育った子どもということで、俗にアダルトチルドレンと言われるんですよ。私の兄は十数年前にひきこもりの末に部屋で餓死して自死しているんですけども、私は父のアルコール依存症について専門医に相談に行ったときに、家族のライフプロフィールを見て、そのお医者さんが真っ先に言ったことは「あ~。お兄さん亡くなっているの?お兄さんアダルトチルドレンだね。あんたもそうでしょ?」みたいなこと言われたのね。

 兄は、20代の後半くらいからだんだん働けなくなって、ひきこもりという状態になって、どんどん具合が悪くなって、最終的には部屋にひきこもって窓閉めて何にもせずに、餓死して死んじゃうという、そういう死に方をしているんですけれども、兄が死ぬ前に何度か兄を精神病院に連れて行こうと試みました。ものすごく拒絶されつつも、兄をだましたりして精神病院に連れて行った挙句に、そこの病院で出た診断名というのが笑っちゃうんですけど、そこでお医者さんはね、私に「お兄さんは性格異常です。性格だからこれは治りません」とはっきりそう言ったんです。あたしね、「性格異常??性格異常っていう病名なんてあるのか!?いや、これは病名じゃないんだ。だって治らないと言ってるし。性格が変だということを言っているだけなんだ」と思ったんだけど、結構愕然としてしまって。

 当時私が行った精神病院というのが、精神医療の暗黒地帯と言われる茨城の鉄格子いっぱい入ったような病院だったんですが、そのときはそういう風に言われたんですよ。

 そして、兄はとっくの昔に亡くなっているんですけども、今頃になってね、「お兄さんはアダルトチルドレンだったんだ。ん~。大変だったね」みたいな感じで言われてね。そのとき、「ばかやろー!」と思いましたね、やっぱりね。「なんかよくわかんないけどさ、それが何なんだよ!」という感じでね。そういうときに、医療者の冷たさというか、私と肌合いが合わないなと感じる瞬間ですね。それは、良いとか悪いとかではなくて、「私の現実感覚とフィットしてない、この人たち!」という感じ。でも、それが向こうの常識なのかもしれないし、きっと向こうから見たら私がアダルトチルドレンで、私の方が変なのかもしれませんけどね。

花井:
 病名って不思議ですよね。医者からすれば、診断基準に基づいて診断するのが当たり前で、どんな病気でも一応診断基準なり病理学的にいろんな所見によって決定し、それによっていろんなエビデンスというのが積み重なっていって、適切な対応・最善の対応というのが知識の体系としてあると思います。だから、それに着目するというのは専門家としてはむしろ当たり前な話で、そういう意味では病名ほど大事なものはないのではないかと思いますが、先ほどGIDとかいう病名との関係で、何かご意見ありますか?

日笠:
 診断基準に関しては、要するに数字で出る検査で診断できる病気というのは、簡単といえば簡単ですよね。だから「このデータがこれ以上あったら病気です」と。血圧がいくら以上あったら病気ですと、それは測ればわかります。数字で150以上だったら「高血圧」ということになるので、診断基準として診断してその病気とマッチすれば病気で、マッチしなかったら病気じゃないというのは、簡単だと思います。そういう点では精神科においてはかなり数字で出ない部分があるので、GIDでもそうですが、診断するというその作業自体がまず難しい。その基準を作るのも難しい。特に精神科領域は、なんとなくぼんやりした、「これに間違いない!」という人も多分いるんでしょうけども、その周りにはそれっぽい人もいるし、普通っぽいけれどもその傾向がある人もその周りにはいる。

 どこで境界線を引くかというと、診断項目、チェックポイントを付けて、何点以上になったらこの病気という風に、診断基準を作るとすればそうならざるを得ない。GIDとか、他の精神科領域の病気の難しいところだと思います。だから、診断基準を作って適応しやすいジャンルの病気と、基準を作りにくいジャンルの病気は一応あります。

花井:
 その診断をしなければ治療は不可能だからというニュアンスなんですか?なぜ診断をつけなければならないんですか?特に精神科領域のなんかで、そうかもしれないのですが。診断をつけなくてもいいという考え方あるんですか?ちょっと変な話ですが、患者となるために病名は必要なのでしょうか?

日笠:
 それは治療をするかどうかということと、強く関わると思います。治療するということは、もちろんその治療がいい方向に効いて、自分の体なり精神の不都合が「良くなりました」と良い方向に行けばいいのですが、行かない場合も結構たくさんあります。「うまく行くつもりのお薬だったけれども、この人には合わなくて余計に大変なことになってしまった」というようなこともしばしば起きます。その一つが薬害でもあったわけなのですけど。

 薬というのは、僕たち医者から言うと、仕方なく使う、治療というのは、その人が病気なり何なりで苦しい状態にあるのを何とかするために、仕方なく使うはずのものなのです。治療というのは、そっとしておいて治るのであればそれが一番いいのです。自然に治るというのは、その人にとっても楽だし、リスクも少ないのですが、そういかない人に対して仕方なくするのが治療行為。仕方なくするためには、ある一定の基準を満たさないと、よくないことが起きたときに、「診断基準も満足にしていないのにこんな治療したら、良くないことだけ起こったじゃないか」となるので、基準は必要なのです。

花井:
 先ほど、性格異常という診断名がついたとか、人格障害というのもありますか?
 精神科領域に詳しい西川さん、患者に病名が付くということは、医療・看護する側から言えば、この人は何病だとかいうことはどれだけの意味を持つのでしょうか?

西川:
 僕は今、京都市長寿すこやかセンターというところで認知症のケアの研究をしているので、認知症のケアの研究も兼ねて言いますけど、認知症というのは、最近できた言い方です。かつては痴呆と言われていました。

 厚労省がどんどん年寄りが増えてくるし、痴呆の人が増えてくるし、「これはなんとかせなあかん。予防しよう」ということで、「痴呆にならないための・・・」と大々的にやろうとしました。そうすると人が来ない。まだ痴呆が始まりかけの人が来てくれないと意味がないのです。「かもしれない」という不安があって、「大丈夫ですよ。まだしばらく」という人たちが来てくれないと困るのですが、「痴呆、そんなん、俺関係ない」「私関係ない」「とんでもない」、「お母さん痴呆予防に行ってみようよ」「何を言ってんのよ。とんでもない」という形で、あまりに「痴呆」という言葉に偏見が強すぎて、誰も近寄らない。「これはあかん。だから認知症と名前変えよう」となったのです。だから、病名にはスティグマというか、社会的に烙印を押されてしまう。「ダメだ!痴呆になったらダメだ!」昔だったら、「結核になったらダメだ」。エイズでもそうかもしれません。さまざまな病名にはさまざまな差別や偏見というものが塗り込められてしまうのです。

 認知症の場合は、痴呆から名前が変えられた訳です。最近は、サポーター養成講座で「認知症」と「正常なボケ」の違いはなんでしょうか?という話をしたりするんですね。主流はそういう考えです。そういうことが起こったら認知症の疑いがあるから、できるだけ早くに認知症外来に行って、今なら初期の認知症に効く薬もあるし、いろんなサービスを使って認知症の重度感を防ぎましょうというのが普通なんです。

 僕は考え方が少し違いまして、物を忘れてしまうだけが認知症ではないのですが、忘れてしまうことの苦しみというのは認知症に限らないわけです。生理的な物忘れだとか、できる能力の低下だけではなく、認知症だから非常に不幸なのではなく、今、小学校でも中学校でも授業で聞いたことを覚えられなかったら辛い思いするじゃないですか?生き方を狭められたりするじゃないですか?だから、要するに、「認知症のさまざまな症状だけが問題や」みたいに、認知症不安を駆り立てて、「こういう薬もありますよ、こういうサービスもありますよ、脳トレーニングもありますよ」といろいろやっているけれど、実は、なんてことはない、一度聞いたことを忘れてしまうことが非常に不利益を生む社会構造というのが今あるわけです。認知症だけではなくて、他にもいっぱいあるわけです。

 認知症という病名を付けると、一群の人たちの問題になってしまう。だから、性同一性障害だとか、そういう問題も同じだと思います、僕は。体に対する違和感、みんな持っているじゃないですか?もう少し痩せたいとか、もう少ししみがなくなってほしいとか、いっぱい思っていますよ。自分の体に完璧満足という人、多分いないと思います。でも、一部の人たちには、性同一性障害などという病名で、心と体とのアンバランスだとか、病的なもの、病理的なものとして社会的に位置付けられているわけです。

 だから、ある意味では、病気ということにすれば、「本人の問題じゃないよね」という形で「本人を免責する、責任はない」という形で、本人の責任は取りますが、個人攻撃はしないかのように思えて、差別や偏見の構造っていうのはきっちり残るのです。だから、認知症という言葉に代わったからと言って痴呆に対する偏見だとか、できていた人ができなくなっていく、人間の普通のあり方、できない人いっぱいいるんですよ。でも、できる人しか幸せになれないこの社会構造に対する疑問だとかは全然それは出てこないのです。病名というのは、一部の人を楽にする部分ももちろんありますが、その背後にあるいろんなこともやっぱり考えていかないといけない。それは、医療の現場からだけ考えてもちょっとわからないので、患者と呼ばれた人たちと話をするしかないと僕は考えています。

花井:
 今、大変本質的なコメントをいただいたんですけれども、田口さんは、確か「浦河べてる」では自分で病名をつけると聞きますが、それを紹介いただけますか?

田口:
 北海道の浦河町に「浦河べてるの家」という社会福祉法人があります。そこは200人くらいの、主に統合失調症の患者さんたちが自給自足というか、自分たちが会社を作ってそれを運営しつつ、自分たちが生活しているところがあるんですけど。本人たちいわく、「日本の中の社会主義」と言っています。

 そこの患者さんたちは、自分の病気は自分で病名つけて、自己研究ということで、自分の治療方法も研究しています。今、それをビデオにして商売もしています。

 だから、「病気を金に」というのが浦河べてるの家のすごいところというか、転んでもタダでは起きない、病気になっても儲けるというのが、すばらしいなと思います。あと、今すごくバカなこと考えちゃったんですけど、最近アンチエイジングとか、一大市場になっているじゃないですか?これは年齢同一性障害と名前を付けてしまえば、みんなやめるかもしれない。だってほら、自分が年取っていることに同一性が持てないという障害でしょ?見方を変えれば。だから病気なんて、名前つけちゃえばいくらでも作り出せるわけです。

花井:
 先ほど、ケアという話と、キュアという話がありましたが、確かに、こういう文脈でいろいろ批判したり、ミッシェル・フーコー(フランスの哲学者)とか引用して「あーだ、こーだ」と理屈っぽいこと言いたくなります。例えば病名を付けて、キュアがエビデンスもあって、「これはこの治療するしかないよ」という話までに及ぶと、また患者は「またわけのわからんこと言ってる」みたいになっておかしなことになると思いますが。

 ある種、ケアしかできないのに、キュアができない病気に対して安易に病名つけてしまったら、弊害の方が多いんじゃないの?という気もします。病名をつけるということを戦略としたGIDという説もありますが、正直、GIDは病名としてできたというのは、どう思いますか?

ヨシノ:
 そうですね。GIDが病名としてついた理由というのは、男性として、女性として、機能的には、健康的には問題のない体にメスを入れるということになります。その行為を医療行為として正当化する、治療として見なすために、何もないところにメスを入れたというのではなくて、GIDだからメスを入れたということで。トランスジェンダー(TG)という、生まれ持った性や社会的に割り振られた性と、自分の表現したい性が必ずしもマッチしない場合は、いろいろレベルがあると思いますが、その枠の中で法に触れないように、医療行為を正当化するために「性同一性障害」という病名とか診断とかが必要とされてきた歴史があるわけです。

 よくこういう場合に引き合いに出されるのが、ブルーボーイ事件ですが、昭和30~40年代に男娼、体を売って生活をするような男の人、ブルーボーイと呼ばれているような人たちに対して去勢手術をした医師がいたという事件です。それが当時の優生保護法に触れて、故無くして生殖機能を廃絶したものであるために有罪となりました。その医師は、実はそれ以外にも薬の横流しとかもしていたから余計に罪が重くなりましたが、この事件によって日本のこういう分野の医療が30年くらい遅れたとよく言われています。故なくして、健康な体にメスを入れてはいけないというのがあるのです。それに対してGIDは「理由があるからメスを入れるんだよ」という苦肉の策としての病名だと思います。でも、GIDということに対して、必要以上にそこに自分を投影してしまう人もいます。診断書を大事に持ち歩く人がいるという話を聞いて私はすごく複雑な気持ちになりましたが、でも、そういうことを頼りにしないと生きていけない、頼りにして生きていきたい人もいるのです。

花井:
 お守り代わりに持って「私はこれだから」という話ですよね。そういう話を聞くと、僕も考えさせられるところが多いのですが、さっきの診断基準から言えば、いわゆるステレオタイプ的な「男性はこういうもの」、「女性はこういうもの」というコンテクストに乗って、「より男性的な、より女性的なものを求めた」というのが、それが診断基準に入り込んできているように思います。これって「医学的にどうなの?」と思うのですが、日笠先生、やはりこうならざるを得ないところはありますか?

 身体的な違和感や性的な違和感を本人が自主申告すればそれで済むのではないかと患者は思ってしまいますが。

日笠:
 確かにGIDでは診断基準はそうなっています。

花井:
 やっぱり医療側の事情がありますか?

日笠:
 曖昧なままであったら、「してください」「はい。わかりました」となります。「それはいいのか?」ということになります。

花井:
 不都合はないのではないですか?

日笠:
 いや、「気が変わっちゃった」とか、「あのときはそう思っていたけど、実は違う」とか、後で思い直す人たちにとっては困ったりすることもあるでしょう。手術したら元に戻れなくなってしまいますので。手術も薬もうまくいけばうまい方向に行くけれども、悪い方向に行けば悪くなるので、何か免罪符がない限り、医療行為は傷害行為と差をつけられないわけです。注射だから僕は患者さんに針を刺してもいいけれど、電車で横の人に刺したら傷害罪になるわけです。「そこの患者さんに針を刺すという良くない行為をしてもいいよ」という免罪がこの診断だったりするわけです。

 「病気だから病気を治すためにあなたのためを思って、あなたの体に注射という一瞬良くない行為をします」ということになるのです。

花井:
 ある程度客観的な指標が必要だという趣旨ですね。

日笠:
 そうですね。自己申告で全部病気になれるのなら、例えば、自由自在に手術できるようになってしまうし、自由自在に会社も休めるようにもなってしまいます。「私この病気です」「わかりました」「じゃ、診断書書きます」となってしまいます。

花井:
 その話を聞いていると、治療が先なのか、病気が先なのかぐるぐる回ってわからなくなってきます。病気があるから治療するのか、治療するために病気があるのか。

 治療という行為をするためには病名が必要なのですね。治療行為ということを正当な行為として病名がいるというのは当然な訳ですね。

日笠:
 病名がいらなくて治療というのは、サプリメントとか、病気ではなく体が何かおかしいというときに、コンビニでパンとビタミン剤を買って飲むという行為自体は医療行為ではないので、診断名はいらないのですが、もうちょっと強い薬を使う場合には診断名が必要ということです。

花井:
 参考までに、「GIDの診断基準を作っていいよ」と言われたら、どのようなものがいいですか?あるいは今の基準のどこが問題だと思いますか?

ヨシノ:
 今、私の状態が、GIDじゃなくてもいいやと思っていて・・・。

 後悔しているとかそういうことではないけれど、自分でベストだと思ったことを考えてここまで来て、その結果として診断書というのが付随してきたけれど、診断書は何も意味のないもので、私にとっては紙切れにすぎないです。

 GIDと呼ばれることに、「あなたはGIDです」と言われても何の感想も抱かないし、「おまえは女に見えるからGIDじゃないじゃないか」と言われても「うん。それでいいよ」と、そんな感じなので。GIDの診断基準とか、ガイドラインとか、それ自体が今の私には意味が見出せないものになっている感じです。

日笠:
 診断というのは、線を引くということなのです。「あなたは○○です」か「○○ではありません」か、2つに一つの線を引くということなのです。線引きが診断基準ですけれど、人間の体でも病気でも、線が引けるほどデジタルにできているわけではありません。(診断基準の)線にだんだん近づいている人もいるし、「線を越えたら病気になる」という人もいます。それが診断基準だと思います。でも世の中には、診断されているか、診断されていないかの、2つに一つしかないと、世の中の人が思い込みすぎていて、病気っぽいという状態か、あたかもないという状態、病気か病気じゃないか、2つに一つしかないというのが今の世の中だと思います。

花井:
 結局は、診断基準というのは、定義によって決まっているということですね?今のは思いすぎとか、そんなに分けられるものではないということを日笠さんはおっしゃっていますが、どうも患者からするとね、そう医者に言ってやりたい感じがいつまでたっても患者に付きまとっている感じがしており、何かそこで線を引こうとしているんじゃないかって、引くことは大事なのかもしれないけど。

 さっき田口さんの話にもあったように、これは何々と決められないんだから、全体として病気、例えば、アルコール依存もあり、いろんな症状があって痛かったり気持ち悪かったりするじゃないですか。肝炎とHIV、今のむかつきは(HIVの)薬の副作用なのか、肝臓のせいなのか分けられないわけです。だから、患者はありのままを預けて病院に行くわけですが、線を引かれることによって、がんしか診ないからということになると思います。

 多数派の医者はそう思っているのでしょうか?

日笠:
 診断する訓練を受けます。診断できるようにならないと、お医者さんとしてはダメですよね。線を引けるというのは、基本の職業的なテクニックとして必ず必要ですが、線を引く技術はあるけれども、「線引きだけで人間が決まるもんではない」ということがわかっていないといけないというか、それを表に出せていないといけないのです。「これっぽいけどよくわかりません」というコメントをすると、「どうしてわかんないんですか」とまた言われるので、「いや、あなたはこの病気です」と言っちゃいたくなるんです、ある意味で。「これっぽいと思いますけどはっきりしません」というコメントで満足してくれる人はいいのですが、「これじゃダメだ」と、「この人はやぶ医者だ!」と思われてしまうのも、我々なので。線を引いても文句を言われる。線を引かなくても「どうしてダメなんだ」と言われるのが辛いなと時々思います。

田口:
 さんざんたらい回しにされて、よくわかったんですけど、やっぱり、本当にお医者さん忙しいんです。そしてね、わかりやすい患者さんが好き。「できれば、わかりやすい患者さん来てほしい!この患者ははっきりしてくれているといいな」と心から願って生きているの。それは、手に負えないというところが正直あるような気がしましたね。私が会った中で暇そうなお医者さんはいませんでした。

 特に、今病院がどんどん減っていて、整形外科の病院も、もう閉鎖が決まっています。もういくつかの科が閉鎖されていて、人も少なくて、そういう中で、数少ないスタッフが、先生いつも無精ひげはやしていて、先生遅くまでいるけども、その先生と喧嘩するの、あたしもしんどかったです。そういう実情はあるなと思いました。


(注2)注意欠陥・多動性障害(AD/HD:Attention Deficit / Hyperactivity Disorder)。多動性、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害もしくは行動障害。

現在の日本が進む医療の方向性

花井:
 今、現場は大変ですよね。今、僕もHIVという限定的なところですけども、医療現場を見ていると、理屈が吹っ飛ぶほど忙しく、しかも、診断名とかいろいろあるんですけど、HIVなんかだったら、告知されて、もともと、ゲイの患者さんとか、みんなに隠していたりとかいろんなところに(問題が)来て、ただでさえややこしいこと考えている中でHIVと言われて、「治療始めましょうね」と言われても、なかなか治療を始められなかったりします。

 いろんなことを病院が、サービスとしてやってくれています。 その中でどんどん負担がかかっていると思います。現場としては患者のニーズというのは、ある程度応えないといけないと思いますが、どのへんまで病院が受け持つべきか、今の医療制度改革ではもっと身も蓋もない形で議論されています。西川さんはその辺はお考えございますか?

西川:
 僕は今までにあんまり忙しい病院で働いたことがありません。精神科って、すごく忙しいはずなのですが。90人くらいの患者さんを、夜勤では3人でやっていました。一人で30人くらいのオムツ交換をやっていました。

 ずっと一晩中おむつ交換をしていることもありました。一回終わって、30人終わって、前換えた人にまたやっているという感じで、一晩中おむつ交換をしていました。あんまり切迫感のないところでした。「今すぐしないとダメ!」というのではありませんでした。

 ところが、一般病院なんかでモニターが鳴っているようなところで、患者さんが10数名でも、今日オペが終わった患者さんが3人いて、そしてナースが3人というところで働いているのは、それはすさまじいでしょうね。それは、普通の感覚っていうのを麻痺させないとナースはやっていけない感じはしますね。そういう人たちとよく話しますが、僕も殺伐とした医療現場からどんどん外れていった人間ですから。

 血液透析は、かなりシビアな感じはしますけど、一応外来なので、透析が終わったら元気におうちで生活している人たちです。その人たちが外来で来て、見た目にはすごい機械で血液を回しているというような治療です。のんびりしたところでした。8時間勤務のうち、4時間血液透析を見守っていればいい所でした。結構濃厚なケアができる良いところでした。精神科でもめったに話ができない人と、話ができるときにはゆっくりと話ができる。

 認知症でも、老健(老人保健施設)とデイサービスに勤めていましたが、老健はかなり辛かったですね。30人の入所者の人、半分くらいは車椅子で、認知症の人たちばかりでした。で、「普通の暮らしにできるだけ近いように」と言いながら夕食の時間も6時過ぎに始めて、ゆっくり食べてもらっていると7時、8時までになります。そこから服をパジャマに着替えてもらって歯を磨いてということを30人の人に3人でやろうと思うと、最後の人は夜中の12時になってしまいます。手を抜かないとどうしようもない。丁寧なケアをやっているときに、「トイレに行きたい」と言われる、どっちかをどうにかしないといけないということになる。そういう意味では命が懸かっているような、アラームが頻繁に鳴るような職場で追い立てられて働いているナースというのは、ある意味鬼みたいな顔になってしまうし、(感情などを)シャットダウンしてしまうようなところも確かにあると思います。そこで、何が必要なのかなと思います。

花井:
 老人保健施設は医療と福祉の中間的イメージですね。

西川:
 そうですね。だから、病院から在宅に帰る中間施設と言われていましたけれど、末期がんの人も来られましたね。「心停止2回起こしています」というような人が来ました。そのときにお話したことは、「ここは病院じゃないし、看護師としてやれることはします」とだけは言いました。「ここで治してくれというのはムリですよ」みたいな話をしながら、お互い、できることを言いながら、本人は「どうでしょうね」と言いながらね。「ずっとこう面倒見るっていうわけでもないし、病院に行きたいときには病院に行ってもらっていいですけど」「ここでできることはこんなことですけどね」と言いながら。あんまり自信のないような感じで、結局最後までいた人もいましたしね。

 末期がんで骨盤にまで転移しているからかなり痛みがひどくて「モルヒネ使わないとダメだろうな」という人もいました。医師もモルヒネ使える免許持っていましたけど、「できることなら、病院で使いたいよな~、老健で使いたくないね~」と言いながら、結局、最後の最後まで機嫌よくホテルと勘違いしながら、亡くなった人もいました。全部が全部、そんな風にうまくいくとは言いません。

 認知症の場合、痛みに対する感覚なんかが鈍くなってきたりするわけですよね。だから、病気というのも、どの基準で見ていいか悪いかというのは全然違うんです。

 意識の鮮明な人が上の療養棟にいましたけど、みんなすごいんですよ、看護師が回ると。「ここが調子悪いです」、「あそこが調子悪いです」、「大丈夫ですか?血圧高いの?」、「脈が飛ぶんですよ」とかね。「年とっているからしゃあないよな」とか思うんですけど、もうみんなものすごく不安で仕方がない。(入居者も)病気の知識持っているし、だから、「病院にちょっと行きたいんですけど」「老健入っているとき病院はなかなか行けないんですよ」「え、そんな制度なの?」って悩みと不安とで強烈なんですけど、認知症の人は、末期がんでも知らん顔して僕のことをウェイターかなんかかと思って「おい。お茶」とかってこう言われながら「はい」とかってやっていました。

花井:
 HIV感染症は結構包括ケアで、血友病でも包括ケアということが、かなり他の医療に比べて言われていると思います。HIVの場合はブロック拠点病院とか、ACC(エイズ治療研究開発センター)とか、かなり手厚い、過剰といったら怒られるかもしれませんが、これくらいの医療が提供できることが望ましいと言われています。医療資源には限界があるからできないだけで、病院というのは、かくあるべきだとお考えでしょうか、それとも、もうちょっと機能を、純粋に病院の機能を絞るべきだとお考えでしょうか、病院はどちらの方向に行こうとしているのでしょうか?

日笠:
 確かに、HIV医療がカウンセラーなり、ソーシャルワーカーなり、薬剤師なり、いろんな職種が手に手を取ってチーム医療をとって、その人に全人的なケアを提供をすると、理想的な形に近づこうと、一部の病院ですけど、ブロック拠点病院とかではできつつあります。それは原告団のおかげなわけですよね、ほとんどね。それ以外の部分においては、もっともっと削ぎ落としなさいというのが、今の日本の医療です。「入院期間はもっと短く。家に帰れるようになったらすぐに帰ってください」「もう何日以上入院していますよ。どうするんですか、この患者さん」と追い立てられて転院しようとか、在宅に戻すとかいう話を毎日病院ではされているのです。

 日本の医療としては「どんどん削ぎ落としなさい、病院でしかできないことだけを病院でして、あとはすぐに戻してください」というのが今の日本の医療政策です。そこに一部HIVだけが逆方向に進んでいるという状況だと思われます。どっちがいいかということですが、もちろん手厚いほうが良いんでしょうけど、手厚ければ手厚いほうがいいかと言えば、「自立を疎外している」とか、働けるはずなのに、働かずにずっと家にいてしまうような人を作り出しているんじゃないかという反省も一方ではあります。どれがいいかというのは、患者個々に違うと思うし、政策としてどちらがいいかは国民が選ぶことになるのだと思います。

 日本の医療の方向性としては、できるだけ削ぎなさいという方向にあるのは確かだと思います。

花井:
 診療報酬についても、開業医の方に、時間外診療に点数をぽんと付け、時間内診療しかしない開業医の先生は貧乏になる方向に今政府案を出したら医師会側の委員らが反発をして戦いを繰り返しているようですが、GIDとかTGという問題を、医療というところに結び付けてくるということ自体は必ずしもTG問題が全体化してくると、いいことだけでもなさそうな気がしてきます。診断書をお守りにしているという関係とはどうなんでしょうか。

 TGは病気という意味では、ただでさえ医療という中からサービスを削ぎ落として、国全体は行っているのに、TG全体をちゃんとケアできるGIDクリニックなんて言い出したら、おそらくHIVと同じようにかなりスペシャルな、もちろん適切なサービスがあれば理想的ですが、ヨシノ君のようないわゆるグレーなゾーンを含めて受け止めていく体制というのは不可能に思うのですが、いかがでしょうか?

ヨシノ:
 そうですね。今、いわゆる正規ルートのGID治療自体は、転機にさしかかっている時期だと思います。

 それは、なぜかといえば、今年の4月にこのGID医療に先鞭をつけた埼玉医科大学がすべての手術から手を引くと撤退を発表しました。そのために、予約していた30人以上の患者が急にキャンセルになって、どこに行けばいいのかみたいな混乱状況が一時起きました。

 東京の方は、個人病院も含めて、連絡会的にいろんな先生たちが集まって、どうにか手術の再開に向けて話し合いをもっているという状況です。

 大阪医大に関しても、もともと、あんまり積極的に手術をたくさんする病院ではなかったのですが、現在手術をしている病院は、日本では岡山大学のみになっています。

 岡大がどういうチーム医療をしているのかは、私は詳しくわかりませんが、さっき田口さんがおっしゃったように、こういう領域だとわかりやすい患者の方が当然やりやすいのです。私のように、「GIDだと言われなくてもいい」とか、「10ヶ月はムリだけど3日で生まれるなら子ども産んでみてもいい」とか思っているような、極めて診断基準からも逸脱はするが、例えば胸に対する違和感はあって取りたいだとか、グラデーションの患者に対しては、医師の理解というのが、非常にジェンダー的な部分で、男女二元論的な部分でとどまっているので、患者を診るときはあくまでそういう目で見てしまいます。

 チーム医療の方向で進んでいくことというのは、なかなか難しいだろうと思います。今の状態だと、HIVの方とかと違って患者会のようなもの、当事者のコミュニティが、私なりの過激な言葉で言うと、奴隷根性じゃないのかと言う風に思ってしまうわけです。

 「治療してもらえるだけありがたい」「せっかく治療してもらっているのに胸が壊死したくらいで裁判を起こすとは何事だ」と言われます。そういうバッシングがあるわけです。「お医者さまに治療していただいているんだから、余計なことはせずに日本のGID医療の形を守ることが重要だ」と、そういう主張をされる方もいます。だけど私はそういう立場には立てない。となると医療状況に対してきちんと言っていけるような当事者のコミュニティの運動も重要だと思いますし、また今まで分断されていた個人病院、いわゆる非正規の治療と正規の医療との間で症例とか術式というのをもっと共有していくという交流がないと、チーム医療とか、総合的な形での医療は発展しないんじゃないかなと思います。

花井:
 確かに乱暴に言ってしまえば、そんなややこしい話を医療に求めても難しいかもしれません。ちゃんと医師として必要な手術を合法的にするときに、最低限の手術をするテクニックとか、患者に対するインフォームドコンセントとかをきちんとしていて、できる体制であれば診断基準とか患者会で一緒に考えていけば良いと思いますが、そういう感じの理解でいいんですかね?

 例えば「強く出産したい、したい、したい」という妄想が広がっていったら、ある時点からトランジットな妄想なのかとかね。そんな話を医療の診断基準とかで、議論したくないというか、しても無駄という気もしますが。

 今後GID医療としては、やっぱり育っていくという方向であってほしいと思っていると理解していいんですか?

ヨシノ:
 一回全部なくなってしまうと、もう一回立ち上げるのは大変なことなので、まず何とかある程度のところを維持して、また徐々に発展していくことは必要だと思います。

花井:
 埼玉医大はなんでGID医療をやめたのですか?

ヨシノ:
 担当医とか、関連の医師の退官の年齢だとか、その後の待遇の折り合いがつかなかったとか、健康上の問題だとかいろいろ言われています。はっきりは知りません。

花井:
 特に、組織としてこういう方向を、全体として舵取りを変えてGID医療には関わらないことに決定したという話ではないのでしょうか?

ヨシノ:
 当然、学閥の方針の違いもあったのではないかという話もされています。採算が取りにくいし、不払いになってしまう例もあると多少は聞いていますから。

花井:
 患者の運動とすれば、厚労省へ行って「ちゃんと保険収載してくれ、診てくれ」といった展開になるかと思いますが。

ヨシノ:
 そうですね。今の段階では診てもらえるだけありがたいという、医者の慈善で成り立ってきた部分があるので、すごい恩があるからあんまりそういうことは言わない方がいいみたいな考えが結構多いですね。

花井:
 そんな殊勝なことがあったんですね。

まとめ

花井:
 患者というのは、ある種、病院では病名がついて、医師との関係性、社会的関係性、しかも病院という社会システムから免れない中での、ある種の立場性であるということです。そこに病名がついたときに、その病院の中での立場性という患者の機能と社会の中にアイデンティファイされて、例えば、「あの人はエイズだ」とか、「GIDだ」とかそういう側面と両義性があるわけです。

 今までの議論はもちろん、全部そういう話をしていたのですが、やはり、「患者とは何か?」という問いは、まさに患者が主観的に自分が何か幸せじゃないとか、体の体調が悪い時だと、何病かわからないけど具合が悪いときに 「助けて!」と病院に駆け込むのです。その「助けて!」と駆け込む患者全体の全体性はいろんな側面があるけれど、果たして医療側はどこまで受け止めうるのか、もしくはどこまで受け止める医療体制がいいのか、もしくは、どのような考え方がいいのかということを考えてみてはどうか、というのが今までの議論です。

 ただ、今までの議論だけでそれが整理されたとは思えませんが、そういうところにつながっていく話をしているつもりでいました。今後、病気とか、患者とか、病名とか、医療とか、そういうものが今後、どういう形であった方が患者にとって幸せか。それは、より機能的、物質的なテクノロジーによって非常にわかりやすい、つまり、患者のいろんな広がった部分は病院の機能から削ぎ落としていって、わかりやすいキュアの部分に、他の部分は患者の使い方の問題だという考え方もひとつだし、ひとつは、病気とは患者の全体性で分離できない全体の人間そのものじゃないかと、それを受け止めるシステムとして、病院はもっとフレキシブルで、それにつながる福祉ももっとフレキシブルで、もっと人間的な受け止めができる方がいいんじゃないかと、二つの方向性が考えられるんだろうということかもしれません。

 どっち向いたらいいのかなと、現場から見たらどうなのかと、患者から見たらどうなのかというところに、この問いがこめられていると思います。このような観点から今までの議論を踏まえて、今後、病名とか、患者とか、どういう方向で考えていったらよりハッピーな方向に行くのかということで、ご意見お願いします。

日笠:
 どれだけ余裕の幅を持たせるかということだと思いますね。今は、医療費削減という大きな目標のためにどんどん医療が削ぎ落とされています。

 診断基準にマッチした、病院でしか治療(ケア)できない人しか病院では治療しにくくなっています。病院でしかケアできない人の周りには、病院以外でもケアできるが病院でのケアを望む人や、どちらかといえば病院でのケアの方が望ましい人もたくさんいます。

 余裕があればグレーのゾーンを広く受け止めることもできるけど、余裕がなくなればなくなるほど、この病状は病院でしかケアできませんという人だけしか受け入れられない。

 その余裕を持たすかどうかは、ひとつは病院がいくつあるかとか、キュアに関わる人が何人いるか、とかいうところから始まり、ケアの選択肢がいくつあるとかいうところから全部含めるとどれくらいのお金を投入するかに行き着く。投入するお金が少なければ少ないほど、一部の人しかケアできなくなりますが、医療のコストは下がります。ちょっとぐらい余分に入院していただいても大丈夫です、という余裕のある状態にするんだったらより多くの人をケアできるけど、その代わりコストは上がります。どちらの方向に進むのが良いのでしょう?

 ただし、お金をかければかけるほど良い治療になるかどうかは、無駄使いをどれくらいするかにも左右されるので、(お金を)かけりゃいいっていうものでもないのも事実です。

花井:
 難しいですね。では、ヨシノ君お願いします。

ヨシノ:
 はい。キュアならば、キュアだけでもいいとは言えないけど、医師と看護師が忙しいのはわかっていますから、それは労働争議とかしてもらって解決してほしいと思います。私の場合は、医者がどれだけ忙しいからといって、私に加えられた医療ミスが免責されるわけでもないし、だから裁判はするわけです。現状の条件でキュアしかできないのであれば、「キュアしかできないよ」ということはやっぱり言ってもらわないと、どういう風に向かっていけばいいのか、特にGIDの場合だったら、それを考えていかないといけない。今回はキュアじゃなくて、「ケアするよ」と病院が自ら標榜していたにもかかわらず、しなかったこと、プラス、手技のミスによる問題として訴えているわけなのです。私は別に精神科に行って助けてもらえると思っていたわけでもありませんが、ないよりはあったほうがいい、と思っています。なので、総合的な医療をやっていくとしたら、現在の条件とか予算とかで解決できない部分であるとしたら、もはや実践的な当事者運動によって転換していくしかないかなと思います。

 私自身のGIDの医療に関する考え方も、私の中で始まったばかりなので、これからどんどん変わっていくかもしれません。

花井:
 「ケアするといいながら、キュアさえまともにしなかった。ふざけるな!」ということで、その医療機関と戦っている最中だということですね。

 医療過誤に関しては、薬害関係とまた別のところで医療シンポジウムをやりたいと思っています。是非、またヨシノ君のことも応援してあげてください。西川さんお願いします。

西川:
 僕は大阪大学に来るまで、自己紹介するときは「看護師の西川です」と言っていました。今日は言っていません。やっぱり言わないと思います。どこかで看護師として仕事をしていない限り。患者さんがいないと医療者はいませんよ、絶対に。何回か失業もしましたけど、そのとき自分が看護師の免許を持っていても、看護の知識があっても、自分は看護師だとは思えなかったです。患者という人たちがいて、初めて医療者になるんです。そういう意味では患者というのは医療者のためにある。僕は精神病院に勤めていましたから、それこそ患者狩りと言ってホームレスの人たちを増員しまくった、精神病院に入れるために。もしくは、路上生活者でちょっとおかしそうなヤツをみんな片っ端から連れてきたというような、患者にさせられてしまうことの恐ろしさって、やっぱりあると思います、僕は。医療者はそれをなかなか悪だと認めたがらない、全部が全部そうじゃないです。でも、患者にするというのは、医療者のためです。

 だから、そう簡単に病気になったからといって、患者になるべきじゃないと思います。ただ医療者のときには、患者として来てくれないと看護者になれないのです。あんまりすっきりいかないんです。人の生き死にだとか、苦しみだとかというのは。どっか病気だけ、疾患だけで苦しんでいる訳ではないので。病気だけに対応はできないですよ、やっぱりね。どうしても専門性を高めたところで、どこかではみ出てしまうようなことが必ず医療にはあって「医療者-患者」という関係は必ずどっかでほつれてしまうところがあると思うんですね。だから全部のアイデンティティを患者というものに掬い取られる必要はないんですけど、そのためには病というものを単純に医療の対象とするような患者になるんじゃなくて、病とか老いとかというもの、人間が変わっていくものなんだというそのことをしっかり考えていく哲学が医療者だけではなく、患者になる前に必要なんじゃないかと僕は思っています。

花井:
 まとめに近いことを言っていただきました。では、田口さんお願いします。

田口:
 「患者とは何者か?」という、私は患者の家族になっただけですが、なったとたんにマイノリティです。患者とはマイノリティですよ。ある日突然病気になったら、自分がマイノリティの側に突然属すことになるっていう、それまでは一般的大多数だったのに、いきなり弱者の側に「あれ、入っちゃったよ」っていうことが、患者になることだというのが私の実感なんです。でも、もちろん副作用的な問題があって腹が立ったとか、本当にありましたけども、患者になってマイノリティの側に立ったときに学べることはものすごく多くあったし、わかったことも大変多かったし。もし、今この状態でいきなり世の中にキュアとケアもバッチリって医療制度ができたら、私たちは何からマイノリティを学べばいいんだろうというくらい、学ぶことが多かった。

 多分、患者が学ぶということが、次の医療への道なんだろう、学ぶことが道になっていくんだろうと思います。それを、みんながしていくことで次の何か新しいものが生まれてくんだろうけど、それが何かは私にはよくわからないです。

 「水俣病の患者さんたちが、何でここまで運動をがんばってこれたか?」と、「水俣病の患者さんたちは、制度に道を説くんだよね」と言われます。「みんな、制度とかシステムとか国家に人間として道を説いちゃう、そういう人たちが戦ってきた、ここまできた」ということをよく聞いて。私たちも、無駄だとか、制度に楯突いて、無力感を感じることが多いけど、みんな無力なんだから、人間として道を説いていいんじゃないかなとすごく思います。