≪筆者≫ 関西HIV臨床カンファレンス 会長・関西医科大学洛西ニュータウン病院 内科部長 上田 良弘
私がHIV感染症と関わりをもつようになったのは1982年のことである。この年開設された関西医科大学洛西ニュータウン病院に着任した私は、当時の関西医科大学第一内科・安永幸二郎教授の指示を受け、京都、滋賀の血友病診療を、すなわち同時にHIV感染症診療をも受けもつことになった。その前年、1981年には世界で初めてエイズ症例が報告され、この年には血友病患者にも同様のエイズ症状が認められたと報告された年であった。当時私がこのHIV感染症をどのように考え、患者さん達に語っていたかは、サマーキャンプを詳細に記録したビデオが現存し、いずれ当組織の真相究明事業の中で評価を受けることになるだろう。
その後、日本の血友病患者の4割にも達する多くの患者さん、特に当時開始された加熱製剤の治験に参加してもらった患者さんさえすでにHIV抗体陽性であった事実に驚愕し、さらに次々とエイズを発症してくる患者さんの診断と治療に忙殺され、しかも免疫能が回復しない限り最終的には亡くなってしまう状況に打ちのめされながら無我夢中の数年が経過した。
一方遅々として進まぬ行政的対策に追い詰められるように始まった訴訟の検討。原告番号一番の赤瀬さんとも旧知の中であり、原告番号二番、第二代原告団長・石田吉明さん、今は国会議員となった第三代原告団長・家西悟さん、第四代原告団長・花井十伍さんなど多くの初期原告団の主治医であった私としては、被告に病院、医師を含めるか否かに葛藤する彼等の激論からはどうしても一定の距離を置かざるをえなかった。
時は流れ和解の日が来た。そしてその日を境に進められた抗HIV薬の迅速承認と多剤併用療法の確立は多くの患者さんを、とりわけ、すでにエイズを発症していた患者さんさえ死の淵からの呼び戻すことが可能になった。
しかしこれですべての問題が解決した訳ではなく、残された課題は多い。
今回大阪HIV訴訟原告団の呼びかけにより、この感染症に関わる患者、遺族、弁護士、医療関係者を発起人として、薬害エイズの検証から再び薬害の起こらない社会、感染症に対する差別や偏見のない社会、そして人々の人権が保障され、適切な医療・福祉を享受できる社会の実現を目指すネットワーク『医療と人権』が設立されることとなった。私が発起人を引き受けたのは、過去が免罪されたのではなく、当時の事情を知るひとりの『語り部』として選ばれたという意識を頑なに持ち続けるという条件のもとにである。
ともかく、新しい観点に立ってこの二十年近い歴史を持つに至ったHIV感染症が我々に突きつけた諸問題の解決、そして何よりもこの様な歴史が二度と繰り返されないための対策を模索するために、各業種の壁を越えた自由で活発で発展的な討論が行える組織に育って欲しいと願うものである。