「答えのない問いを探求する 正義という理念をめぐって」
東京大学 名誉教授 盛山 和夫
正義の概念をめぐって
私の専門は社会学という学問です。社会学という学問には色々なテーマがありますが、『リベラリズムとは何か』という本などを執筆し、理論的にリベラリズムや正義というコンセプトについて考えてきました。他方で、階層を中心にして実証的に研究をし、不平等や社会の現実の問題がどういうメカニズムで起こるかを規範的にどう考えたらいいかという問題にも多少携わってまいりました。
今回、ご依頼をいただきましたけど、正直、医療そのものは専門的には探求しておりません。しかし、正義やリベラリズムという理論について考えてまいりましたので、そのあたりからお話をさせていただければと思っております。また、先程提起されたコロナの問題に必ずしもすぐに結びつくとは限らないかと思いますが、そのあたりは
ディスカッションでさらに深めていけたらと考えております。
「正義」という話が出る時に、数年前に大変話題になったマイケル・サンデルというハーバード大学の哲学者の本の中でよく取り上げられたのが、この「トロッコ問題」という問題です。これは、時速 60 マイルというかなり速い、時速 100 キロ位で走っているトロッコ(路面電車のこと)のブレーキが効かなくなって、一方には 5 人の作業員がいる、一方には一人しかいない、どちらに進むのが正義にかなっているのかという問いがなされます。
結論的にいうと、こういう問題に私は理論的に正解というものを導くことは不可能だと思っておりますが、案外と理論家の人たちには、こういう問題が好まれています。記憶にあるかと思いますが、一年くらい前に、この問題をどこかの小学校で先生が子どもに提起して、この問題に真面目に考えた子供たちの中に、少しトラウマになってしまった子がでたという話が報道され話題になったことがあります。このように、正義の問題は非常に難しいということがわかると思います。
もう一つ具体的な例でいえば、日本の場合、多くの場面で女性の社会参加が大変遅れており、例えば、研究者の女性比率を見ると諸外国のなかで非常に低い。私が数年前まで仕事をしていた学術振興会や大学などでは、いろんな場面で女性の研究者比率を上げなければならないという話題が上がってきます。
私も基本的にはそうすべきだと思ってはいますが、そういう時に、よく使われる手段がアファーマティブ・アクションといわれるものです。例えば大学の教員の何割以上を女性にするとか、学会においても理事を何割以上女性にするとか、予め割合を決めて、それ以上を女性にするというポリシーが考えられる訳です。ただ、身近な女性研究者にそういう政策についてどう思うか聞いてみると、殆どの方が反対されます。理由は非常にはっきりしていて、アファーマティブ・アクションのような優遇をすると、却って差別や偏見を生むというご意見が圧倒的に多数でした。
日本の大学や大学入試でのアファーマティブ・アクションはほとんど見られないと思います。私は東大大学院・人文社会系研究科にいましたが、私が最初に赴任した時は女性はどなたもいらっしゃいませんでした。2、3 年経って一人増え、今は沢山いらっしゃって、徐々に女性研究者が増えていることは事実なのですが、アファーマティブ・
アクションは正義と言えるかという事に関しては意見が分かれているというのが実情であります。それほど難しい問題であるということを最初に述べまして、これから理論的に入っていきたいと思います。
個人的に、正義の問題が現れていると思われる現象というのは、それなりに感じておりまして、特に社会学でよく話題になるという点では、例えばヘイトスピーチがあります。日本でも一部の街中で時々見かけられる現象であります。また、あまり大きな話題になっていませんが、私がきわめて問題だと思っているのは、技能実習生の、全てではないけれど、一部の人たちが大変虐げられた環境におかれているということです。或いは日本の場合は難民申請が非常に厳しく、入管に収容された場合、大変過酷な待遇が待ち受けています。またよく話題になっている人質司法というのがあります。他にもいろいろございますが、そうした現象をみるにつけ、なんとかして改善しなければいけないと思います。
ただ一方で、何が正義かという事に関しては、かなり議論が分かれます。さきほど述べた人質司法の問題にしても、法務関係の人たち、弁護士の人たちは、そういう問題に関して声を上げることが多くありません。なぜか司法の現場の人たちから、日本の中で声が上がってくることが非常に少ないのです。難民申請にしても、人質司法にしても日本では法務省の担当です。法務省は英語では ministry of justice で、正義を司る省庁ですが、こういう問題が生じています。その現場の人たちは、必ずしもそれが問題だとは感じていないことが多いのが残念なところであります。客観的にどういうことが言えるかということが、正義というコンセプトにとって大変難しい問題になっています。
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