司会:花井 十伍(ネットワーク医療と人権 理事)
言いにくいことも言えてしまう空気
花井:
パネルディスカッションを開始したいと思います。お二人のお話は、大変広いお話でもあり、身近なお話でもあったと思います。どこから話を始めようかと悩んだのですが、ひとまずそれぞれのパネラーの方から、それぞれのお話を聞いた上で、コメントもしくは質問等がありましたらお願いします。
大西:
いろいろありますが、ストレートにコストの話からいきたいと思います。アシュリー事件の本の中にももちろん書かれていることで、「神聖な義務」が問題になった時に、私自身も反論を書きました。「神聖な義務」において、その趣旨は「血友病で知的にも問題がある子どもに月1500万円もかけているのか」という明らかな非難だったわけです。「1500万円かけて、この人が助かって、結構なことだ。素晴らしい」という趣旨では、もちろんありません。その非難に対する当時の私の反論では、「非難がましい声があるけれども、今まで動けなかった、あるいは体がもっと悪くなっていくかもしれない血友病の人間が、1500万円の経費によって、その不都合を回避できるのであれば、こんな結構なことはないじゃないか」という書き方をしました。しかし、30年以上経った今はそうは書けないのではないかと思います。そんなことを書いたら、「何を呑気なことを言っているんだ」、「月1500万円は、誰の金だと思っているんだ」と、それこそ「炎上」するのではないでしょうか。
児玉さんの場合は、時代的にはより近年ですが、そういう世間の声なき声が聞こえてくることも当然あると思います。どうお考えですか?
児玉:
私が子どもを生んで育てる過程で、コストをあげつらって直接言われた体験はありません。ただ、確かに税金を使った医療にかかっているわけなので、最近のこういう空気の中で、こういうお話をあちこちでさせていただくと、そういうことを暗に言われることはあります。質疑の中で手を挙げて、「医療や介護における社会保障費がかかり過ぎていることが問題なのであって、その中であなたはどう考えるのか」みたいなことを聞かれたりします。また、この間もあったのですが、質疑で手を挙げられた方が、「昔は、こういう子が生まれたら産婆さんが殺していたという話だってある」と、まるで見てきたかのような言い方をされました。私はお話する前にあらかじめ「私の娘はこういう事情で……」と言ってあるわけですから、その人は私に向かって、「アンタの子どもは、昔だったら産婆さんに殺されても不思議じゃなかったんだぞ」というようなメッセージを投げかけられているんだなと、私は受け取るわけなのです。だから、昔だったらおそらくとても言いにくいことで、自制されたはずのことでも、今は「ちょっと言いにくいんですけど……」と言いつつも言えてしまう世の中の空気ができてきているのだとすごく感じます。
親としての逡巡、葛藤
花井:
児玉さんの方から、先ほどの大西さんの話に対して、何かございますか?
児玉:
「神聖な義務」に関する北村(健太郎)さんのご論考を読ませていただいた時に、私が親としていちばん印象に残ったのは、この論争になった中で、当の親たちは、なかなかはっきりとものを言いにくい、両義的な立場に置かれてしまったということです。それは、親自身の中に、どちらもの葛藤があったからだと思います。「この痛みを子どもに背負わせることへの逡巡のようなものや、それこそなかなか白黒つかない思いの中で、親は葛藤したのではないか」と北村さんが書かれていたところに、私が親の立場で過剰に反応した部分もあると思います。
アシュリー事件の論点の一つも、結局「親の決定権がどこまでか」という話でした。「最終的に親が決めるべきだ」と言いつつも、そこには自ずと限界があります。何でもかんでも親や家族が決定して良いわけではないという中で、私がいつもそういう議論を読んだり聞いたりして感じるのは、そういう「権利」という枠組みでの議論の中からはすくい取れないものが、親の中にはすごくあるということなのです。「最終的には親が決めるしかない」、「じゃあ、親の決定権の範囲はどこまでなんだ」というように、論理だけではすっきりいかないものがあります。私の娘をめぐって「いざ、大きな決断をしなければならない」という状況を考えた時に、私の頭の中にあるのは、そういう議論ではすくい取れない、いろいろな思いなのです。
大西さんご自身が、親としての自分の決定権の中で、「血友病の子を生む・生まない」などということも含めて、そうした論理でしかできない議論から取り残されていくものについて、感じられたことはありますか?
大西:
血友病というのは、ある意味非常によくできていて、患者が自分で子どもを持つ時に、基本的には血友病の子どもは生まれないのです(保因者ではない女性との間で子どもを持った場合)。「持たない」というか、「(遺伝上)持てない」のです。患者自身からは、2分の1の確率で、元気な男の子か保因者の女の子のどちらかが生まれます。だから、先ほど言われたような葛藤のハードルが少し低いのです。確率50%の男の子なら何の問題もありません。残りの50%も、保因者の女の子だから「先の話じゃん」となるわけです。そこが血友病の上手くできているところで、だから多少無責任になってしまうところもあると思います。
私の子どもが生まれたのは1984年で、「神聖な義務」論争の4年後ぐらいでした。まだほとぼりもあったので、取材を受けて、「子どもについて、どういう心構えでいるのか」というような話を聞かれたりしたこともあります。児玉さんの質問に対する直接のお答えにはならないのですが、当時の考えは、正直言って、やや呑気でした。やはり、今すぐ直面する問題ではないし、その子の子どもが血友病だったとしても、「大きくなる頃には、きっといろいろな状況が良くなっているだろう」という楽観を持ってしまっていたので、すごく思い悩んだりすることはありませんでした。ただ一つだけ、これは文字に書いたこともありますけれども、自分が親として、自分の子どもが生まれた時に、「五体満足でよかった」とは絶対に言いたくないと思っていました。それは、乙武洋匡氏の『五体不満足』の本が出るずいぶん前ですが、テレビを見ていると、芸能人などが「もう元気に生まれてくれただけで……」などとよく言っていました。でも、それは結局「見た目」でしかないわけです。手や足の指を数えて5本とか、そういう範囲の中で、「いや、もう元気で、体だけは丈夫だったので、それだけで満足です」というように言う。もちろん個々の人間を批判するつもりはないとはいえ、私は子どもができても「五体満足でよかった」とは絶対言わないという心構えだけはしていました。
花井:
今のお話はご自身のお話なのですが、先ほど大西巨人さんへの内なる批判として、「黒人は美しい」の如く「血友病は美しい」とは明言できなかったことに批判があったというお話がありました。今でこそ、血友病はそんなに苦しそうに見えませんが、私たちの世代は、もうずっと痛がっていました。親は、だいたい為す術がなく、擦ったり冷やしたりしかできなかったのですが、それでも患者は痛い。そういう時代を知る親が「血友病の子はもう生まれてほしくない」と思うのは、ごく自然な感情だと思うのです。それは、大西巨人さんとて同様だったということでしょうか?
大西:
おそらくそうでしょう。だけど、それは「生まれてもいいし、生まれなければそれに越したことはない」という話だと思います。
児玉:
今のお話を伺っていて、やはり当事者ご本人だから言い切れるところはあるのかなと思います。親としては、やはり「どちらにも言い切れない」というところがあると思うのです。重症障害のある子どもを持つ親が集まって、ミニコミ(注1)をやっていたことがあるのですが、編集会議で集まると、同じ立場の者だけだから出てくる本音のようなものが、その場でだけ言えるのです。そこで、以前に出生前遺伝子診断が話題になった時に、例えば「今妊娠中で、出生前遺伝子診断を受けて、その結果、おなかの子に重い障害があると分かった人がいたとして、その人から相談を受けた時に、どう言う?」という話をしたことがあります。みんな、やはり基本的には「生まない方が良いとは言いたくない」と言うのです。「生まない方が良いよ」とは、口が裂けても絶対に言いたくない。だけど、「生んだら?とも言えない」とも言います。やはり、みんな自分が子どもを育ててきた中で、いろいろなことを考えたし、いろいろな体験もしてきました。でも、みんなの思いとしては、「『生んだら何とかなる』という世の中にしたい」ということを希望にしつつ、でも「自分の目の前に、実際にそういうことで悩んでいるお母さんが出てきたら、どうだろう」と考えた時に、「どちらも言いたくない、言えない」ということを話したことを思い出しました。でも、今私はアシュリー事件を経て、いろいろなことを考えて、やはり「生んでみたら何とかなるよ」と言ってあげたいし、言ってあげられる自分でいたいし、そういうことを言ってあげられる社会を目指したいと思っています。
花井:
今はいろいろ時代が変わっているのですが、昔は「青い芝」という障害者運動がありました。その一つの主張として、今まさにおっしゃられた、すなわち「生んでも大丈夫な社会」ではない社会に問題があるのであって、如何なる子が生まれてきても幸せに暮らせる社会を作れないことを批判しています。つまり、「そういう社会であれば、障害者は何の問題もない」という全肯定の主張です。「青い芝」運動にはいろいろ批判もあるので、あまりそこに立ち入る気はないのですが、やはり、どうも今は、社会のコストがどんどん増大することの方に目がいくような雰囲気があるのかもしれません。
(注1)フリーペーパーやコミュニティFM、各種会報など、特定少数に対するコミュニケーション、またそのメディア。マスコミに対比される。(Weblio辞書より)
患者にとってのEBM、医師にとってのEBM
花井:
私の方からも、児玉さんにお聞きしたいことがあります。先ほど、「確実性幻想」という議論がありました。医療事故の文脈では、医療の不確実性は、医師側のいわゆる「武器」で、「患者は科学的リテラシーが低く、医療の不確実性を理解できないので、当然起こり得る結果に対して、何かにつけて『医療過誤だ』と言って裁判をしたがる。けしからん」とよく言われます。これは、どちらかというと、患者・医療被害者の運動に対して、かなり強い批判的な陣営のお医者さんたちが主に述べることです。私たちは「何を言う。医療の不確実性は、骨の髄まで患者は知っている」と反論するのですが、先ほどの「不確実性が既定路線のように……」というお話の中で、医師側にとっての不確実性と、患者にとっての不確実性は、若干違うと思います。そのあたりを丁寧に論ずると、どういうことになるのでしょうか?
児玉:
今のお話を伺って、頭に浮かんだのが「EBM」という言葉です。この「Evidence Based Medicine(科学的根拠に基づく医療)」という言葉が、実は本来の目的というか、ニュアンスとは全く違うように使われているのだろうと思います。要するに、医療サイドが、自分たちのやることの正当化や、患者に対して「何を言っているんだ。ここにエビデンスがあるんだぞ」というように、まるで「水戸黄門の印籠」のように振りかざすものとして使っているということです。でも、私は、医療の進歩とは「エビデンスが覆されてきた歴史」だと思うのです。だから、「エビデンスがある」というのは、「今のエビデンスは、それである」ということでしかない。
名郷先生(名郷直樹:武蔵国分寺公園クリニック院長)というドクターが、「EBMとは、医療職個々が自分の日常の診療のあり方を改善し、最善の医療を研ぎ澄ますためのツールにするべきだ」ということを言われています。だから、EBMが本当の意味で「個々の実践や判断のための指標、指針」として使われるか、今花井さんがおっしゃったように、「何を言っているんだ。患者は不確実性を分かっていない」と振りかざされるかというように、同じものが文脈によって都合良く使い分けられているのではないかという感じがします。
花井:
インフォームド・コンセント、つまり「説明と同意」という言葉が1990年代ぐらいから日本の医療に入ってきました。「説明と同意」だから、医者からすれば、何かを説明しなければいけないわけです。そうすると、それには、ここで言うところのエビデンス、根拠が必要になるということになります。ですので、やはりインフォームド・コンセントが先にあって、そのためにEBMをやってきたという感じは確かにあります。どうもそのあたりで、患者にとってのEBMと、医師にとってのEBMが相当違ってしまっているという議論でした。
「愛」ほど怖いものはない
花井:
アシュリー事件では、「親の愛」という概念が出てきています。児玉さんには失礼かもしれませんが、介護する側には「介護する」という負担があり、また同時にその負担から逃げられるという利益もあるので、通常、これは利益相反関係にあります。この利益相反関係にある人間が、「愛があるから」と言って、その利益相反関係を塗りつぶす、あるいは親の介護の問題で、先ほどご紹介いただいた事例では「お父さんが『もういいよ』と言ったし、自分たちは面倒を見られないから」と家族は言いますが、それは「親を老老介護で放っておいているからこそ成り立っている、今の楽しい生活がなくなるから」という利害があるのではないかと少し思いました。そういった「近親者の愛と介護」という問題なのですが、アシュリーの場合、これはもう完全に親は「愛のみ」という理解でいいのでしょうか?
児玉:
アシュリー事件での「親の愛がどうか」と言うことは難しいのですが、議論の中では、みんな「親の愛であることは間違いない」とは言っていました。私も父親のブログを読みましたが、愛情は確かに感じます。ただ、すごく感じたのは、この人の愛は「理や知の愛」だということです。「情の愛」もないわけではないのでしょうが、いちばん感じるのは「理路整然とした愛」なのです。
私は、アシュリー事件と出会うまでは、自分が娘を誰よりも愛していて、娘のために何がいいか、娘の最善の利益をいちばんよく分かっている最善のアドボケイト(代弁者・擁護者)だと思っていました。でも、アシュリー事件を追いかけながら、先ほど花井さんが言われたような障害者運動の主張に出会って、いろいろ考えるうちに、「そうじゃないんだ」と気づきました。日本の障害者運動は、「親がいちばんの敵だ」と言われるのですが、確かに「親がいちばんの敵になり得るのだ」ということに気がついたのが、この事件なのです。親と障害のある子どもの関係、それから、介護する人と介護される人の関係の中には、現実問題として、今花井さんがおっしゃったような「支配し、支配される関係性」が潜んでいると思います。それが、虐待や介護虐待、その最たるものとしての介護殺人などに当然繋がっていくわけです。だけど、今は、親の愛があれば全てが許されるかのような風潮があります。
今日は触れられなかったのですが、安楽死・自殺幇助の議論と同時に起こっている一つの別途の現象として、英米を中心に「介護者による慈悲殺」が、ものすごく寛容に扱われ始めています。特に、夫が何年も妻を介護してきて、妻が「死にたい」と言ったので、手を貸して妻が死んだという事件が結構起きているのですが、たいていは、世論がアシュリー事件の時のようにウルウルして感動してしまいます。こんなに何年も献身的に介護してきた夫が「殺すほど愛が深かった」という話になってしまうのです。そして、裁判もたいていが微罪で、ほとんど無罪放免になってしまうということが、ずいぶん起きてきています。「愛ほど怖いものはないな」と思っています。
花井:
それは、逆はどうなのですか? ジェンダー・バイアス(社会的・文化的性差別、偏見)を感じるのですが。
児玉:
安楽死や自殺幇助を希望する人は、実は女性が多いです。ディグニタスに行って亡くなる人の6割が女性です。だいたい女性が多いのですが、ある多発性硬化症の女性が「ディグニタスに行って死にたい。その時には、夫について行ってもらいたい」と言って大きな裁判を起こした時に、夫がずっとその裁判を支援していました。それを見て、あるイギリスのジャーナリストが、「妻が『死にたい』と言っている横で、どうして夫はあんなにニコニコしていられるのか」と批判したのです。
川口有美子さんが著書で書かれていたと思うのですが、ALSの患者さんで「呼吸器を付けない」という選択をする人にも、女性がやはり多いです。つまり、介護を受ける側になった時に、男性は妻に介護されることにあまり忸怩たる思いはない、抵抗を感じないけれども、女性が家族に介護してもらう立場になった時には、「自分が世話をしてあげるべき立場なのに……」という余計な負担を感じてしまうので、女性はやはり「それぐらいだったら、家族に負担をかけないように死にたい」と希望する人が多いのではないでしょうか。日本ケアラー連盟という介護者支援の団体がありまして、私はそこの理事もしているのですが、今日お話したような問題は、根本的に、やはり介護の問題と繋がっていると思っています。
アシュリー事件にしても、安楽死や尊厳死議論にしても、決定的に欠けているのは「社会で支える」という視点だろうと思うのです。その「社会で支える」という視点の欠落を見えなくするマジックワードが「家族の愛」だったり「親の愛」だったりするのではないかという気がしています。先ほど大西さんが言われた「個人の決定に、社会が圧力をかけてきている」ということも、その挙句、「社会が支える」という視点をさらに見えなくしてしまうのではないでしょうか。
自己決定は変わっていくもの
大西:
渡部昇一の言ったように、「未然」、つまり「これから……」という選択をする場合と、もうすでに生まれている子どもへの対し方には、違いがあって当然だと思います。「未然」の部分は、やはり親が決めるしかありません。お腹の中にいる子に、あるいは、これから細胞分裂を始める子に「どう思う?」とは聞きようがないので、もう親の専権事項として決めざるを得ません。だから、「生まない」も「生む」も、親が判断せざるを得ないと思っていたし、今もそう思っています。
そして、その判断をする時には、その子が生まれた時にどうなるかということを当然親は想像するわけです。「学校へ行くのも大変だ、就職も大変だ、病院へ通うのも大変だ」というように、いろいろ考えなければいけません。もちろん、普通に子どもを生む場合でも「この子はどうなるのかな」ということは考えますが、子どもに病気などがあった場合には、それよりも遥かに多くの乗り越えなければいけない問題が具体的に見えてくるわけです。そして、「それを乗り越えられるのか、跳ね返されてしまうのか」という判断をする時、社会に「こういうサポートをする体制がありますよ」、「こういう制度がありますよ」というような姿勢があれば、その判断が変わる可能性があります。「そういうものがあるんだったら、まぁ何とかなるかな」と思えるか、何にもなくて「いや、とてもじゃないけど無理だ」と思うのか、その温度差はすごくあるはずです。もちろん、そういうものが相当程度整ったとしても、親が「いや、でもやっぱりこの子は大変だから生むのはあきらめよう」と思ったら、それは仕方がないけれども、できる限り「生めるんじゃないかな」という範囲のことを整えていくことは、社会の責任なのではないかと思っています。
花井:
「できれば健康な子どもが生まれてほしい」という時に、常に議論になるのは「育てる側の親の権利」とのコンフリクト(競合、衝突)です。つまり「そんなこと言ったって、育てるのは私なのよ」という議論です。一方で、血友病は幸いにして最近は治療法が飛躍的に良くなっているので、例えば「血友病の子を生むかどうか」という相談に来た人でも、「今は血友病と言ってもこうですよ」と説明して、「あぁ、それなら」と気が変わる場合も、おそらくあるのではないかと思うのです。つまり「状況の変化や時間経過によって、意思決定は変わるかもしれない」ということです。ALSの患者さんでも、「呼吸器を付けたくない」という意思決定をした人を説得して、呼吸器を付けさせて、後から聞くと「やっぱり付けて良かった」という話はあるわけです。なぜ「呼吸器を付けないでほしい」と言ったかというと、やはり「周りに迷惑をかけてまで自分が生きるのは憚られる」ということなのですが、1回「そうだ」と言ったからといって殺してしまったら、取り返しがつかないのではないかと思います。このあたりの「自己決定」というものに対する信頼の圧倒的な厚さが欧米社会の特質だと思うのですが、「状況が変わる」ということについては、あまりにも鈍感なように思いました。そのあたりの議論はないのですか?
児玉:
障害者運動が、すごくがんばってそこのところを言ってくれています。「Not Dead Yet」という、直訳すると「まだ死んでいない」という名前の団体があって、すごく強力にそのあたりを議論してくれています。去年出した『生命倫理学と障害学の対話』には、自己決定について、いくつか事例が載っています。やはり障害を負って、病院の一室でずっと寝ていて、同室の人はみんな高齢者で、「こんな人生を生きるのは嫌だから死にたい」と言って、裁判で認められた人が、そのまま死なずに、障害者運動の支援を受けて、地域で自立生活をするようになりました。そして、「生きていて良かった」と言っている事例などもあります。
花井:
「事例」というか、「普通」ですよね。日常でよくある話としか思えません。
児玉:
普通に考えれば当たり前の話だと思うし、まさに先ほどのバウアーズさんの話に繋がります。バウアーズさんの件は、「事故に遭った次の日に死なせてどうするんだ」という話なのですが、これに対して、アメリカのキャプランというすごく有名な生命倫理学者が「いや、せめて2週間は待たなければ……」と言って、「2週間かよ!」と私は思わず突っ込みました。私は年単位、あるいは10年単位ではないかと思います。私自身が娘の障害を受容することを考えても、「受容する」という言葉はあまり好きではないのですが、死ぬまでいろいろな形の受容を、本人も親も繰り返すと思います。今振り返ったら、「受容」はやはり10年単位のものだったような気がするのです。「生きていて良かったかどうか分からない」ということは、障害がなくても同じではないかと思ったりします。
花井:
その通りだと思います。日常的な普通のことも、「普通ではない話」として進んでいるということが印象に残りました。その中で、「何かを確定しないと前に進めない」という現場の論理や、先ほどのコストの話が絡んできているのだろうと思います。
医師と患者はタッグを組めるのか
花井:
コストの問題に関しては、イギリスを中心に議論がされていて、その影響がヨーロッパに広がり、今や日本にも去年ぐらいから具体的な話として出てきています。要は「この人が1年生きるのに適切なコストはいくらか」という議論です。先ほどまでのような話だと、3人とも一致して「そうだよね、命って大事だよね」、「それを踏みにじる奴は許せない」という話で済むのですが、こういったお金の話にすり替えられると、「そんなことにお金を使ったら、こっちの重病の患者さんに医療費が回らなくなるんですよ」、「血友病患者さんが、もう少し製剤の使用量を抑えて、例えば体育の時間を少し我慢してくれるだけで、他の難病の患者さんにコストが回って、例えばALSの患者さんの呼吸器の装着率が1%上がるんですよ。それなのに、血友病の患者さんは、もっと製剤を使うと言うんですか?」というような暗黙の圧力がかかってしまいます。このあたりについては、どう考えていくべきなのでしょうか?
大西:
少しその手前のところからお話すると、「自己決定」というものを重んじている国だからこそ、その裏返しで「自己決定ができなくなった、あるいは生まれつき自己決定ができない人間は、人間ではない」という感覚が生まれてくるのだろうと思います。日本でそこまで話が広がっていないのは、ある意味で、そういう「人間のあり方」を欧米社会ほど突き詰めていないから、検討していないからこそであるような気がしています。インフォームド・コンセントにせよ、一定程度遅れて日本に入ってきたように、そういう感覚も、きっとこれから入ってくるのではないでしょうか。そして、言わば「人権」に対する意識が海外ほど定まっていない日本というところに入ってくるので、地盤のなかった日本にインフォームド・コンセントが入り込んだために少し歪みが出ているのと同じように、非常に危なっかしい形で、その感覚が導入される危険は、大いにあり得るのではないかと思います。
それと同時に、コストの問題が、人の耳に入りやすい形できっと出てくるだろうと思います。なぜかというと、もうすでに、病気などではなくても、生活保護など、一定の人間の生活を保障するためにかけるお金、経費に対して、すごく冷淡になりつつあります。ましてや、「何を考えているのか分からない病者の面倒を、なぜ見なければいけないのか」というような動きには、なかなか歯止めがかからなさそうな気がします。
花井:
確かに怖いです。イギリスのNICE(英国国立医療技術評価機構)は、極悪非道なコストカッターのように言われていますが、一方で、市民社会が前提となっています。だから、抗がん剤をカットした時に、患者が物申し、NICEのいわゆる全体の保険財源とは別のキャンサー(がん)・ファンド(資金、基金)が用意されたように、市民社会から「さすがにそれはおかしいだろう」と言われました。日本の場合は、そういうことはなくて、例えば、先ほど言った「私」すらないわけです。阿部謹也(日本のドイツ史学者、故人)さんは、「society」に「社会」という訳語があてられた10年後に「individual」の訳語がなくて、困って「個人」と訳をあてたと書いていますが、日本はそういった国です。ですから、イギリスのように、一周グルッと回って「人権がある、自己決定がある、市民社会がある」となって、その後にコストカットという話が出てくる場合とは違って、まだ半周ぐらいしか回っていない状態の日本に、そういった欧米の概念が入ってきた時に、守ってくれる人がいない感じがします。
大西:
ある時期から日本でも、入院患者のありようが「スパゲティ」などと言われるようになりました。「スパゲティ」とは、たくさんの管が身体につながっている状態で生き延びていることで、「本人にとって決して良いことではないから、こういうことはもうやめよう」と言われるようになりました。それ自体は正しい部分もあると思うのですが、それがすぐに変質して「無益な治療」論にいくわけです。何年か前にこういった小説を書きました。お父さんが倒れて、もう回復不能だという状態になった時に、兄弟が集まって「もうしょうがないよね。治療も止めて死なせよう」と言っている中、兄弟の一人だけが「いや、絶対がんばらせるんだ」と主張するという内容で、これはアンチテーゼ(注2)で書いたのですが、今は実際にそういう雰囲気ができてきています。つまり、ある一つの突出した例を出して、そういう観測気球を上げて、世間がどういうふうにそれに応じるかを見るわけです。それも、すごく過剰な例を出すことによって、別のそこまでではない事例は、「それなら、まぁいいかな」という感じで流れていきます。
確かに、今でも治療などに関するコストについて、理解のある医療者もいます。竹中平蔵のような人が、人ひとり生かすのにコストがどうたらこうたら言うのは「仕方がない」というか「まぁ言うだろうな」という世界です。でも、理解のある医療者でも、「この治療によって、こう予防して、こうなったら、死者がこうなって、その時にかかる経費に比べると、安く済みます」などということを、先ほどのお話に出たエビデンスに近いものとして、「これで成立するんだ」という出し方をしてきます。それは、確かに数字としてはその通りなのでしょうが、やはり医療の側は「コストがかかっても生かしていく」という方向で言ってくれないと、本質のところで本末転倒してしまうのではないかと思います。
児玉:
そこのところでいつも思うのですが、本当は医療サイドと患者サイドはタッグを組んで、同じ敵に向かうはずなのに、向かえなくされている感じがすごくしてしまうのです。このあたりのことで、今日は緩和ケアを専門にしておられるドクターが来ていらっしゃいますので、先ほどの不確実性の話や、コストの問題なども含めてコメントをいただけないでしょうか。
新城拓也(しんじょう医院 院長):
神戸で開業医をしております新城と申します。私は平成8年に医師になりましたので、もう医師になって20年近くになります。
医療の不確実性の話は、コストの話とも通じるところがあるのですが、私が医師として働いている中で、どのあたりから病院での状況が狂い出していると感じたかというと、やはり医療者が「患者様」と言い出した頃からだと思います。つまり、医療がサービス業になってしまったということです。そして、患者をまるで客として位置づけていくような取り組みが、やはり病院側でありました。アメニティ(快適さ)を充実させたり、また、それまでぞんざいだった口の利き方も直さなければいけないところもありましたから、キャビンアテンダントの人を呼んで、マナーの講習を受けたりしました。それはそれですごく良いことなのですが、「患者様」と言い出し始めた頃から、患者、家族の意識が少しおかしくなってきました。患者や家族の側の消費者意識が高まっていくのです。そうすると、日本は医療費の7割、あるいは9割が保険(国費)で賄われている国なのに、自己負担があるだけで、すごく消費者的な発想が出てきます。それで「私たちのお金に見合う分だけ、あなたたちは何をしてくれるの?」などということになるのです。そして「医療の不確実性」というものが合わさると、「お金を払ったのに上手くいかないのでは困る」、「私たちは消費者であって……」と、患者がすごく賢い消費者のように振る舞うようになっていきました。医療費の大部分が公費であるにもかかわらず、そういった「上手くいかないことに、なぜお金を払わなければいけないんだ」という消費者的な発想が「患者の権利」ということにすり替わっていき、その延長が訴訟であったり、病院の中での医師とのぶつかり合いです。そうやって患者が「病院から、医師から何か益を受ける」という消費者の側に回ったことが、問題をすごく難しくしたと思います。医療者と患者が「物を売る側」と「買う側」という関係になってしまっては、タッグを組めないのは当たり前です。
EBMについてですが、「根拠に基づいた医療」ということで、私にとってすごくやりやすかったのは、いろいろな上司を黙らせるのに役立ちました。田舎の病院などで働いていると、「オレ流」の人がたくさんいるわけです。そういった人たちの行動は、どうしても変容させられません。「おれはこれでやってきたんだ」と言うのですが、それが時代遅れで、「こんな手術はもうしないだろう」、「もうこんな治療をやっていてはダメだろう」という時に、相手を黙らせるには、やはりエビデンスを利用するのが、いちばん手っ取り早かったです。「すでにこういう結果が出ているんだから、もう私たちは変わらなければいけない」という形で使っていました。
コストの話ですが、日本では、まだまだそれほど深刻化していません。日本は、7割や9割というほどの公費負担をしている国ですから、医療コストについては、いちばん鈍感な先進国です。私たちは、非常に安価なコストで、良い医療を受けられているはずです。「コスト」を重要視しているのは、厚労省、財務省のポリシーメーカー(政策立案者)の人たちです。厚労省、主に財務省の人たちが、決まった額をどう配分するかは2年ごとに変えていっているのですが、全体の医療費そのものを抑えざるを得ない状況に入っているのは確かです。医療の制度は、皆さん想像してみれば分かるのですが、日本では、医療政策をコストでしか変化させられません。「こういう医療にしよう、こういう医療を目指そう」と言っても無理なのです。省庁では、値段設定しかできません。だから「ここを重点的にやってほしい」と思えば、そこに配分する額を高くします。「ここはそんなにがんばらなくていい、むしろ萎んでいってほしい」という部分は、値段を低くします。コスト誘導で、医療の構造を修正するしかありません。日本全体の医療をドライブ(操縦)していくのは実は本当に難しくて、国は値段しかつけられません。値段をつけることだけで「2年後、またどう動くか」ということを見ていくのです。血液製剤など、高価な薬剤を使っている方も含めて、自己負担する医療コストという点では、まだまだ日本は非常に安く良い医療が受けられます。アメリカやイギリスに住んでいる方たちに聞けばすぐ分かることですが、あんなに酷い国はありません。彼らは、医療経済、医療とコストについて、日本よりずっと研究しているのですが、その研究をしている人たちですら、「この国の医療制度よりは、日本の方がマシだ」と思っている人がほとんどです。それでも、日本でも現在、医療に関するお金に対する感覚のようなものが、少しずつ変わってきていると思います。
花井:
ありがとうございます。今お話していただいたように、日本の医療は概ね実は良いのです。医療過誤被害者の勝村さん(勝村久司:陣痛促進剤による被害を考える会)や、私たち薬害被害者から言うと、少し批判も出るかもしれませんが、諸外国に比べると、実は日本の医療は良いのです。しかし、中にはとんでもなく酷いものもあります。日本の医療保険制度は、公的事業としてやっていて、保険者に代わって療養給付を民間が直接行うという制度になっていますので、本来は医師と患者は一緒にならなければいけません。そしてペイヤー、すなわち保険者側(支払い側)と闘う。こういう構図にならなければいけないのですが、そうなっていないのは、先ほどお話いただいた通りだと思います。今のお話で、何かコメントはございますか?
児玉:
コストの話で私がすごく気になっているのは、本来医療は、固有の患者さんの固有の症状、病気を基にして、個別具体に考えるべき意思決定のはずだと思うのです。だけど、そこにコスト論が紛れ込んでくることによって、例えば「○○病だったら治療は無益」というような、包括的な切り捨ての線引きができていきかねないことがすごく恐ろしいなという感じがします。
花井:
私は、ちょうどそのコストを配分するところ(厚生労働省中央社会保険医療協議会:中医協)に委員として参加していますので、こう言うと、支払い側というか保険者側から少し怒られるのですが、実は日本の医療は結構ざっくりとしています。つまり、療養担当規則と診療報酬点数表はわりと決まっているのですが、ピアレビュー(注3)といって、審査を臨床医が見ているのです。これは諸外国にない良い例です。だから医師は、「地域で昔から残っているとんでもない悪習によって、その地域でだけ、地元の支払基金の審査委員会が通してしまう医療がある」という弊害に対して通常は批判をするのですが、一方で、同じ医師の「これは仕方がないよね」という医療も通るのです。アメリカなどはペイヤーが徹底的にザクザク審査するのですが、それとは違って、日本はそういったピアレビューをやっています。これは本当は良い制度なのですが、一方で、自分に甘い、「狼にニワトリの番をさせるような制度ではないか」という批判もあります。この両方の議論があることによって、今の日本の医療の現状を「まぁいいじゃん」と見るか、「これは何とかしなければいけない」と見るかという視点が、非常に難しくなっていることは確かです。
児玉:
日本の医療が非常に良いということは、私もいわゆる重症心身障害児施設(重心施設)に子どもがお世話になっていますから、そう思っています。そこで、大変お金をかけて、医療と介護を受けつつ暮らさせてもらっています。今回、成人の場合には重心施設という法的な位置づけはなくなったのですが、医療のニーズも福祉のニーズも両方を併せ持った人を、身体障害も知的障害も重い「重症心身障害」という行政用語として位置付けて、別のカテゴリーとしてケアの対象にしてきたのは日本だけだとよく言われます。これはすごくありがたいと思うのですが、そのあたりの制度がどんどん変わって、だんだんとコスト論がそこに入ってくると、そういう人たちへの治療は「もう無益だ」という空気に徐々に染まっていくのではないかとすごく感じています。
花井:
だから、政治的に言えば、大きなその流れの空気の中に行くと、日本医師会と私たちは仲間になるということになります。コストカットには、日本医師会がいちばん反対するのですが、安倍政権のようなネオコンサバティブ(新保守主義)なコストカッターが入ってきて切られるとすると、私たちも日本医師会と同じように反対してしまうという、何か居心地の悪い感じになってしまいます。それほどまでに、コストカットや医療産業振興という圧力が、今は巨大な力として、医師会や薬剤師会、患者といった、日本固有のいわゆるプリミティブ(原始的、根源的)なステークホルダー(利害関係者)に襲い掛かり、その日本の中での敵・味方全てが、この大きな流れの中で吹き飛ばされかねない状況に、敵も味方も併せて危機感を覚えているのが、おそらく今の客観的な日本の状況かなと思います。
児玉:
そうですね。コスト論でもう一つ言いたいのですが、今の医療産業にとって有望なところにかかるコストは、決してあげつらわれることはありません。そうではない、例えば「終末期に一人につき、いくらかかる」、「血友病の患者さん一人ひとりにいくらかかる」、「重心医療にかかる子どもにいくらかかる」というようにあげつらわれて、数字が流されてくる医療もありますが、逆にそういったことが全くされない領域もあるわけです。アシュリー事件を経て、私がいつも思うことがあるのですが、私たちは、つい「そこで語られていること」について行ってしまうのです。そうすると、簡単に説得されてしまうのですが、でも実は、そこには「語られていないこと」があります。ですので、ただ単にそこで語られていることだけについて行くのではなくて、「そこで語られていないことは何か」ということに、しっかりと自分で注意して、目を向けていなければ、本質を見誤るのではないかと思います。
(注2)ある理論・主張を否定するために提出される反対の理論・主張。(コトバンク:https://kotobank.jp/ より)
(注3)Peer Review:仲間・同僚による評価・判断。
「チーム」で意思決定をする
花井:
さて、今日は西田先生がいらしていますので、血友病の出生前診断とその実情をお話いただきたいと思います。先ほど、「説明をきちんとしたら、『生もう』という気分になるのではないか」と勝手なことを言ったのですが、そのあたりは今、現状としてどうなのでしょうか?
西田恭治(大阪医療センター 感染症内科 医長):
先ほどおっしゃられたように、状況というものは、個人の歴史の中でも変わってきますし、また社会全体の時間の流れの中でも変わってきますので、ある一定の時間での判断は、非常に危ういものを孕んでいると思います。それは、個人の中でも危ういですし、社会全体の時間の流れの中でも危ういので、先ほど児玉さんがおっしゃったように、やはり非常に長い時間をかけて考えていかなければ、後々悔いを残すようなことになってくるのではないかと思います。その中において、血友病の歴史は、非常に著しく変わっています。遺伝病には多くの種類があるのですが、血友病は、遺伝病の中の最優等生と言われています。なぜかというと、他の遺伝病に比べて、非常に短い時間経過の中で治療が向上してきたからであり、血友病は、一世代の中ですら、その体質の見方はかなり変わってきました。今は出生前診断の問題などが言われていますが、その中で我々ができる最小限のことは、最新の情報をきちんと集め、供給し、それぞれの人が、少なくとも誤った判断の基で自分の人生のイベントを決定してしまうことのないようにしなければならないといったことなのではないかと思っています。私は医者になって35年ですが、その「情報を与える」ということ自体も、ずいぶんいろいろな意味合いで変わってきましたし、血友病は、そういったあたりで最も変化のあった疾患の一つではないかと思っています。
花井:
例えば、安楽死を望む人がいて、その人に対して、全く根拠はないのかもしれませんが、「もしかしたら医療が進歩するかもしれない」と説明することは、やはり現場ではしづらいものなのでしょうか? もちろん、全く根拠のない期待をさせることは、インフォームド・コンセントの筋とは違うと思います。ただ、先ほどの事例であったような、「回復の可能性はゼロだ」と医者が言ったから、「では、本人の意思を聞いてみよう」、「死にたいと言っているから死なせよう」というようなことが起こってしまうとすれば、可能性がかなり低くても、その可能性を提案することが必要とされると思うのですが、医療現場からすれば、それはしづらいものですか?
西田:
「しづらい」ということはないと思います。ただ、児玉さんがおっしゃっていたように、「ある瞬間的な一人の意見だけで、その人が自分の意思を決定する」というのは、本当にむちゃくちゃな話です。その時点においても、また時間の流れにおいてもそうですが、やはり違ったアングルから、いろいろな意見を聞いて判断していく必要があると思います。ですので、そういったものの一つの方向としての話は、我々もしています。ただ、その時に私が言うことは、あくまでも、その時の段階で、その時の私の立場で話せることなので、対象者には、もっといろいろなアングルからの話を聞いて、判断していただきたいと思います。
児玉:
今のお話を聞いていて、西田先生にぜひお聞きしてみたいことがあります。日本では、「チーム医療」というものが、掛け声ばかりで、実は根づいていないと私は思います。ティム・バウアーズさんのケースでも、その記事を読むと、一見お医者さんだけしか対応しなかったように見えるのです。そういうところに、すごく問題があるのではないかと思います。日本でも、終末期医療をどうするかとか、私の娘のような重い障害のある人の医療をどうするかという時に、どうもお医者さんと親だけの話になってしまうのです。アシュリー事件もそうなのですが、アシュリーに関わっているはずの学校の先生がいたはずだし、看護師さんや支援職、OT(作業療法士)さんやPT(理学療法士)さんもいたはずです。彼らは、体に直接触れてケアしていますし、アシュリーの普段の生活に直接関わっているので、考えてみれば、そういう人の方が、お医者さんよりも、本人のことをよく知っているはずなのです。だから、なぜこの事件を云々している人たちは、もう少しOTやPT、学校の先生や看護師さんに話を聞かないのだろうと思いました。ですから、大きな意思決定をする時には、医療職だけではなくて、福祉職、支援職なども入れたチームで検討するという文化を、もう少し根づかせることが必要なのではないかと思います。このあたり、西田先生はどうお考えでしょうか?
西田:
全くその通りだと思います。メディカルな専門領域の人たちのみならず、意思決定をする人に関わっている様々な職種の人も交えて、方向性を求めていくべきだと思います。しかしながら、メディカルな専門領域の人たちの中ですら、そのような意識が出てきたのは、ごく最近のことで、またそれも限定的な部門の人たちだけですので、今おっしゃったようなことは、なかなか進んでいないというのが現状だと思います。また、システム的にも上手く機能できないような仕組みにもなっているので、こういったことはなかなか進んでいかないところがあると思っています。
花井:
アシュリーの場合も倫理委員会があったと思うのですが、倫理委員会の中には、法律学者と倫理学者と一般の人が入っているというのが建前になっていると思います。
児玉:
よくぞ聞いて下さいました。実は、アシュリー事件は「病院内の倫理委員会が、いかに機能し得ないか」という実例だと私は思っているのです。一応、病院の倫理委員会が承認したということにはなっています。しかし、元々倫理委員会というのは、アドバイスする存在であって、結論を出すわけではありません。そして、よくよく記事などを読んでみると、アシュリーのケースを検討した倫理委員会は「特別倫理委員会」と銘打ってあるのです。つまり、病院に常設しているいわゆる「倫理委員会」ではなくて、特別に設けられたものの可能性がある。報道記事によると、それは病院内の職員だけで組織されているとのことでした。常設の倫理委員会は、地域の人を含めて、いろいろ外部の専門家を入れるのですが、アシュリーのケースは、「特別倫理委員会」と銘打たれた「内部者だけの委員会」を作って検討してしまったのではないかと思われる節があるわけなのです。倫理委員会については、「無益な治療」論を批判しているトゥルオグという倫理学者が、「病院内の倫理委員会は、どうしても医療の価値観に偏るから、バイアスのない判断はできない」と批判していました。また、日本にはないのですが、障害者の人権擁護のネットワークがアメリカにあって、アシュリー事件でも活躍しました。そういう患者や障害者など、医療によって人権を侵害されがちな人たちの権利を擁護する制度を、医療の外側に作るべきではないかと私はアシュリー事件から学びました。
花井:
医療事故調査制度の話も、結局、患者からの申し立ては、横車を押されて先送りになってしまったわけですが、一部には、まだそういうことに対する抵抗感が強いようです。大学病院やいわゆる総合病院ではなくて、民間の400床未満あたりの病院のグループが、意外に強く反対するという構図でした。
社会全体に必要なコスト
花井:
大西さん、最後にこれは言っておかなければということがあれば、お願いします。
大西:
病気や障害とは、人間にとって誰しもが歓迎すべきことか、それとも、できれば回避したいことかと考えた時に、やはり多くの場合は「回避したい」と思うわけです。本当に少しのことならば、「まぁそれなら我慢できるよ」という場合ももちろんあり得ますが、かなり重篤なものだったら、それはできる限り自分も回避したいし、家族や周囲の人間にも回避させたいと思うのが、自然だと思います。
その場合に、「神聖な義務」の論調が、何を推進しようとしていたかというと、親に判断を迫っているのです。でも、例えば「月1500万円かけて、ある一人の病気の子どもが、治ってはいないのだけれど、ある程度の自由度を取り戻した」ということに対しては、「良かった」と書こうと思えば、書けたはずなのです。ところが、明らかに「そういう状況は、社会に対しての負担であり、望ましくないことであり、民度、あるいは国力を下げていくものだ」ということを前提としながら、でも渡部昇一は、“国家が、力のあるものが、個人に迫ることはいけない、してはならない”と、巧妙に書いています。つまり、それは“自分で考えれば分かるでしょう”という意味なんですね。これは、ものすごく残酷な話です。なぜかというと、現に目の前にいる親に対して、「一人目に、すでにその体質の人間がいるんだから、二人目は普通、持たないでしょう。それはアンタ、考えたら分かるでしょう」ということを迫っているのです。これは、やはり有識者と称される人のやることではありません。つまり、「自助」とか「判断」とか「選択」などと言っているにもかかわらず、親という特殊な立場の人間に対して、「こうしろ!」ということを、暗黙のうちに求めているということです。「社会のためだ」という美名の元に、いろいろなことを周りにくっつけて渡部昇一は書いていますが、端的な部分はこれなのです。
世の中には、いろいろな病気の子どもを持つ親がいて、「やっぱり今になってみると、この子が生まれて本当に良かった」と言う人も多くいますが、これは、やはりすごく大きなショック、あるいは絶望を乗り越えた結果として、今やっとそう思えているわけであって、最初から望んで「その病気になりたい、ならせたい」と思って子どもを持っているわけではありません。ものすごい苦悩の果てに、「やっぱり育てられる」、「生まれて良かったな」というところに辿り着いているわけであり、その人たちに対して、「実は、アンタは生まない方が良かったんじゃないの?」ということは、やはり人として、とても言えないはずだと思います。
花井:
先ほど、大西さんから、「障害者はカナリアである」という、すごく示唆に富んだお話がありました。つまり、障害とは、どこかで線が引かれているようなものではなくて、グラデーションなのです。ですので、「障害を持っているかどうか」ではなくて、「どこからどこまでを切り捨てていくのか」という話でしかありません。その意味においては、コストがいくらかかろうが、これは民主主義や人権の観点から見ると、どうなのだろうという気がします。
大西:
松葉杖をついている人のために、駅にエレベーターを作ると、「コストが……」と言われますが、駅にエレベーターを作ると、お年寄りや妊娠している人、もっと言えば、トランクを持って空港から帰ってきた人までも含めて、そういう人たちにとっても、より便利になるわけです。エレベーターがない場合は、その便利さを味わえないまま、みんな我慢しているのですが、そういう「先端の人にとって便利だったら、絶対みんなにとって便利だよね」という考え方をすれば、コストの部分も、だいぶ違ってくるはずだと思います。
花井:
「社会に必要なコストだ」ということですね。コストという理屈で言うならば、「そこに金をかけずして、どこにかけるんだ」ということだと思います。いろいろとまだ議論は尽きないのですが、このあたりで終わらせていただきます。ありがとうございました。