大西 赤人 氏
「あるがままがいい」という感覚
皆さん、こんにちは。私はアシュリー事件については、正直なところ、児玉さんの本を読むまで全く知りませんでした。児玉さんの本を読んで、こういう出来事がすでに現実に起きていたことについて、やはり非常に驚きを感じました。これが、親や医療者のエゴで行われたというのであれば、「良い・悪い」の問題とは別に、流れとしては「まぁ、そういうことを考える人もいるだろうね。困ったもんだね」という話になるのかもしれません。しかし、このケースでは、親は結構本気で「これが子どものためになる」と思っています。「確信犯」という言葉は「間違った使い方をされている」とよく話題になりますが、そういう意味で言うと、本当の意味での「確信犯」、つまり「私は娘のために考えているし、これは娘のためになることなんだ」と信じていたところが非常に驚きでした。
「育たないようにする」というテクニックは、お父さんが考案したと思われるわけですけれども、その内容を聞いた時には、いろいろなことを感じました。高野文子という漫画家のデビュー短編集「絶対安全剃刀」の中に、「田辺のつる」というショッキングな作品があります。おかっぱ頭の可愛い女の子が登場して、何ということのない日常がずっと描かれていきます。そして、いちばん最後の場面で、その可愛い女の子が、実は老女、当時はまだ使われていなかった言葉だと思いますが、今で言う認知症が非常に進んでいるおばあさんだったことが分かります。おばあさんを女の子として描くことによって、そのおばあさんの心象では、自分が可愛い4、5歳の女の子の意識になっていることを表現しているという作りの漫画で、当時非常に話題になったことを思い出しました。
それからもう一つ、今調べてみてもどうしても見つからないのですが、誰かの作品でこういうものがありました。やはり、いわゆる呆けてしまった老人の世話をする人の話です。老人の世話は、非常に大変です。体も大きいし、わがままだし、この人が昔は自分の親だったと思うと、憎たらしくも感じる。でも、年を取ってしまった自分の親を殺すわけにはいかないから、親の脳を猫に移植します。すると、その猫はすごく可愛いので、憎たらしく思わずに面倒を見てあげられるという話です。そういった小説を昔、読んだ記憶があります。もちろん、これらはフィクションですが、アシュリー事件は実際に行われたことです。
日本といわゆる西欧先進国とを比べた時に、当然いろいろな違いがあるし、進歩の度合いも違うと思うのですが、このアシュリー事件のような考え方は、おそらく日本ではなかなか出てこないのではないかと思います。先ほど、児玉さんのお話の中に、アシュリー事件への擁護ないし称賛の声が非常に多かったという話がありました。もし、日本でこれが行われたとしたら、批判の方が非常に強いのではないか、「考えられない」という反応の方が、きっと大きいのではないかと思います。ただし、これは、アメリカをはじめとする西欧諸国よりも、日本の方が倫理的、あるいは精神的に進んでいるということを意味しているわけでは必ずしもないと思うのです。
つまり、日本には「身体髪膚(しんたいはっぷ)、これを父母に受く。敢(あ)えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり」という昔の言葉があります。「身体髪膚」とは、「身体」と「髪」と、皮膚の「膚」です。「敢えて毀傷せざるは」の「毀」は名誉毀損の「毀」で、「傷」はキズなので、要するに「自分の身体、五体は両親からもらったものだから、これを怪我させたり傷つけたりしないようにすることが親孝行だ」というような意味です。
今は一般的ではないかもしれませんが、このような「親からもらったものは、そのままに守っていこう」という感じが、日本の自然の生命観のようなところがあります。その延長線上で言うと、例えば「整形する」ということへの一種の嫌悪感や、あるいは赤ちゃんを生む時の「できる限り自然に生みたい」という希望、例えば帝王切開というと、非常に心理的な抵抗感が本人にもあったり、周りにも「えっ、帝王切開したんですか?」というような、「自然分娩じゃないの?」という受け取り方をする部分もあるような気がします。そういう「あるがままがいい」という感覚が、日本には良くも悪くも存在するので、その裏返しとして、こういうアシュリー事件のような出来事は起こりにくいのではないかという気がしました。
障害者は「消えていくべき存在」?
今日の一つのテーマである、渡部昇一の「神聖な義務」という文章(参考資料に掲載)は、1980年に書かれました。ごく掻い摘んで経緯を言いますと、私の父親の大西巨人が、非常に長い小説を書いていまして、なかなか完成しませんでした。かつ、他の仕事を全くしないので、非常に汲々として生活をしていました。そういう背景があり、その中でようやくその小説の完成が間近になった時期に、週刊新潮が父親を取材して記事を載せました。週刊新潮は当然、本来的には大西巨人とは同系統ではないので、あまり良くは書かないはずなのですが、その記事自体は非常に好意的な感じで書かれていたのです。ところが、おそらく週刊新潮の上層部が「これでは面白くない」ということで、ちょうどその頃は、私の弟が非常に酷い血友病の症状を起こしていて、入院して大きな手術を受けて、医療費も非常にかかっていたので、そのことにも記事で触れました。そこには、「医療費が月1500万円」と書かれていました。もちろんずっとではなくて、2ヶ月ほどの短期間ですが、それぐらいの額の治療費がかかっていた時期だったので、それを結び付けて、見出し的にはそう報じました。これを見た渡部昇一が、「神聖な義務」と題して、「大西巨人は一人目……」、つまり私、赤人ですけれども、「一人目が血友病と分かった後で、二人目として、また血友病の子が生まれている。そして、その子のために医療費が1500万円もかかっている。これはいかがなものか。自発的に、自助努力をもって、これは回避すべきではなかったか」という趣旨の文章を書いたわけです。
非常に面白いことに、児玉さんの書かれたアシュリー事件の本「アシュリー事件 ―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代」(生活書院)の165ページにも、「親には子どもにとって正しいと信じることをしてやる神聖な義務……」という表現が出てきます。これは、アシュリー療法を考え出したお父さんのブログの中にある言葉で、もちろん翻訳ですが、日本語として「神聖な義務」と訳されています。渡部昇一の言う「神聖な義務」は、社会に対しての義務なのか、二人目の子どもに対しての義務なのかというところがあまりはっきりしないのですが、要するに「自らの判断として、血友病の二人目の子どもは避けるべきではなかったか」ということを書いているわけです。
その一つの大きなスタンスとしては、「『既に』生まれている人たちに対して、国家あるいは社会が援助の手をさしのべるのは当然である」、「『既に』生まれた生命は、神の意志であり、その生命の尊さは、常人と変わらない」と書いています。けれども併せて、「しかし『未然に』避けうるものは避けるようにするのは、理性のある人間としての社会に対する神聖な義務である」ということが彼の主張というか、そう称しています。後に問題になってからも、渡部昇一は“既に生まれたものは大事だ。「未然に回避できるものについて考えろ」と私は言っているのに、多くの人間がそこを無視して私を批判する”と述べています。たしかに、文字面ではそう書いてあるのです。「敬虔なキリスト教徒」とか「カトリック的立場」とかの言葉を並べつつ(そういう人たちが総て素晴らしいかどうかは全く分かりませんが)、渡部昇一は、その前提で“既に生まれたものは神の思し召しだから、大事にしてあげなければいけない"という書き方をしています。
また、彼が「劣悪遺伝子を受けたと気付いた人が、それを天命として受けとり、克己と犠牲の行為を自ら進んでやることは、聖者に近づく行為で、高い道徳的・人間的価値がある」とする自助努力の実例を挙げています。その一つは、妊娠中の奥さんのつわりが酷い時、良い薬があると聞かされた知人のことです。知人は、何か嫌な予感がしたので薬を与えなかったら、それは後にサリドマイド(注1)の薬害に繋がる薬だったという話で、これを褒めているわけです。また、生まれた赤ちゃんが早産で、「保育器に入れれば育つかもしれないが、障害児になる可能性が高い」と知らされ、結局それを拒んだという話で、これも褒めています。「社会に対して莫大な負担をかけることになることを未然に防いだ」決断と良識であるというのです。
サリドマイドの薬害に遭うかもしれないという予感を持って薬を飲ませなかったのは、一定の判断ですから別にいいとして、それと「既に生まれている赤ちゃんを保育器に入れたら、重い障害児になるかもしれないので回避した」という父親の判断とは、全く両立、並立できるような話ではありません。しかも、明らかに後者の保育器に入れる云々の赤ちゃんは、まさに彼の言うところの「既に生まれた生命」です。それに関して、“障害が起きるかもしれないので、保育器に入れなかった”という判断を称賛しています。しかし、この文章の中には直接書いていませんが、その赤ちゃんは、保育器に入れなければ当然死んでいるわけです。ということは、「既に生まれた生命」を障害と引き換えに死なせることを、渡部昇一は明らかに許容し、推奨しているということになります。
したがって、「既に生まれた生命」は尊いと言いながら、しかし、障害を持つ生命については、全く大事にしていないのです。事実上、これは“障害を持つものは死んだ方がいい”と言っているに等しいのですが、彼はここでレトリック(注2)を使っています。後日の反論の中で、渡部昇一は“この短い文章の中で、私は何度か空中転回しているので、分かりにくかったのかもしれない”という書き方をしていて、要するに、それは、読者をごまかそうとするレトリックをたくさん使っているということです。しかし、そこに書かれていることは非常に単純であって、結局、体の悪い、障害や病気を持っている人間に対しては、「自発的に」という言い方をしながらも、その存在は消えていくべき、あるいは減っていくべきものであり、もっと言えば、消していく、減らしていくことの方が、人間の社会にとっては望ましいということを明らかに主張しています。
(注1)1950年代に安全な睡眠薬として開発・販売されたが、妊娠初期の妊婦が服用した場合に催奇形性があり、四肢の全部あるいは一部が短いなどの独特の奇形をもつ新生児が多数生じるという薬害事件を引き起こした。日本では、市販の睡眠薬以外に妊婦のつわり症状改善のためにも調剤された。(参考:Wikipedia)
(注2)修辞法。ことばを効果的に使って、美しく、また適切に表現する技術のひとつ。わざとらしい、あるいはこれみよがしな表現を特徴とする文体にも用いられる。(参考:三省堂Web Dictionary)
「逃げ」と「言い訳」の論理
また、彼は最初に「ヒトラー」という極端な存在を持ち出し、“ヒトラーが行なった優生的な政策は、世界的に、歴史的にもちろん否定されているけれども、実際に自分が海外で経験したところによれば……”という非常に限定的な見聞に基づいて、「“ヒトラーが、遺伝的に欠陥ある者たちやジプシー(注3)を全部処理しておいてくれたためである」として功績を認めるドイツ人も少なからず居ることを知った”という、これまた非常に遠回りな言い方をしています。つまり、“ヒトラーの政策は、建前では非常に批判されてきたけれども、現実には、それを『良かった』と思っている人が結構居るんだよ”と言いたいのです。そして、“自分はもちろんヒトラーには反対ですよ”というフリをしながら、今度は「ヒトラーとは逆の立場の人であるが……」という言い方で、アレキシス・カレルの話を持ち出してきます。これについては、後に大西巨人も“カレルという人は、ヒトラーと反対では全くなく、むしろヒトラーと非常に近い考え方の人間である”ということを指摘しています。
今日の資料の中にも、カレルの文章を見ることができますが、とんでもない内容です。むしろ、ある意味、渡部昇一などよりも、はるかに過激な優生思想を展開した学者です。カレルは、第二次世界大戦前から存在していた人で、ヒトラーがフランスを占領した時期に、自らの優生思想を推進するための研究所などを作っていました。それはやはり発展せずに終わってしまったようですが、思想としては、極めて過激な優生思想の持ち主で、決してヒトラーと反対の立場の人間などではないということが言えます。
渡部昇一のこのような書き方は、最近話題になった曽野綾子のアパルトヘイトに関する文章と非常に論理展開が似ています。つまり、“世間では、それ(優性思想やアパルトヘイト)を悪く言う人がいるけれども、自分が外国に行った時の小さな経験によれば……”と見聞を持ち出し、かつ“私はもちろん反対ですけどね”と逃げ場を設けておく論理です。曽野綾子の場合は、その文章の中で、直接にではありませんが、問題になった後のインタビューなどでそう言っています。“私はもちろんアパルトヘイトには反対だ。だけど、実際には居住地は分けられていた方が、人にとっては良いことがある。同時に、移民の人たちの権利は認めてあげないといけない”という調子で、部分部分にキチンと逃げ道というか、エクスキューズ(弁解)を入れつつ、しかし、明らかに言っていることは、優生思想やアパルトヘイトの擁護です。つまり、言葉の表面的な部分では、いくらでも逃げられるということです。
(注3)北インド起源の移動型民族のこと。移動生活者の印象があるが、現在では定住生活をする者も多い。「ジプシー」という呼び方は、長い間の偏見、差別などの為に、最近では彼らを指す言葉として、「ロマ」の名称が用いられることが多い。(コトバンク:https://kotobank.jp/より)
判断を歪ませる社会の圧力
こういう考え方の何が問題なのか、いろいろあるわけですが、一つは「自助」、「自ら助ける」という言葉です。別の言葉で言うと、最近流行りの「自己責任」です。「自助」や「自己責任」というのは、「ある個人が何かを決定していくこと」であって、言葉だけを取れば、決して悪いことではありません。例えば、病気の子どもを生む可能性がある親にとって、「その子どもを生むか、生まないか」という判断を迫られる時は、当然あると思います。そして、その人が自分の判断で生んだり生まなかったりすることは当然あるべきもので、「最終的には親が決定することだ」というのも事実だと思います。
血友病についても、基本的には遺伝する体質ですので、血友病の患者、あるいは家族にとっては、自分の子ども、あるいは孫、兄弟に、血友病の患者が生まれてくる可能性が出てきます。これは、非常に大きな選択を要する問題です。その場合に、例えば、ある人が「自分の子孫、後の世代に対して、血友病を伝えたくないから、自分は子どもを作らない」という判断をした時に、「いや、お前は間違っているよ。どうして作らないんだ」ということは、おそらく言えないだろうと思います。それと同様に、「いや、血友病になるかもしれないけれども、自分は子どもを作ろうと思っている」という人に対しても、文句を言えることではありません。つまり、そういう意味では、自己の判断、親の判断というものが、どうしても必要になってくることでしょう。ただ、それを左右する要素として、社会が親の選択に対して圧力をもたらす、つまり「アンタが子どもを生むことで、社会に迷惑をかけると思わないのか」という形でのプレッシャーをかけていくとしたら、やはり物事が歪んでくると思います。
実証的な反論
渡部昇一の「血友病の子どもを持つということは、大変に不幸なことである。今のところ不治の病気だという。しかし、遺伝性であることが分かったら、第二子はあきらめるというのが、多くの人のとっている道である。大西氏は敢えて、次の子どもを持ったのである」という論理に対する反論の一つの骨子として、大西巨人は“それは分からないことだったんだ”と述べました。「分からない」というか、“二人目も血友病であるという確率は、むしろ低かったんだ”と反論をしました。
ご存知の方も多いと思いますが、母親が血友病の保因者だった場合、その子どもに血友病の男の子が生まれる確率は、男女の比率の全体で言えば4分の1です。その他、健康な男の子が生まれる確率が4分の1、保因者の女の子が生まれる確率が4分の1、健康な女の子が生まれる確率が4分の1となりますので、一人目の大西赤人が血友病だった時に二人目を持った場合、血友病の男の子になる確率は25%です。この25%という確率を多いと見るか少ないと見るかは、個々によって違うと思います。「結構確率的に高いね」と思う人も居るだろうし、「なんだ、4分の3は違うんだね」と思う人も居ると思います。もちろん、保因者の女の子の場合は、その先にも血友病の子どもが生まれる可能性があるので、そこまで考えれば、確率はもう少し上がるかもしれません。
これについては、“血友病で何が悪いんだ”あるいは“血友病の男の子が生まれたとしても、何の問題もないじゃないか”という主旨の反論をどうしてしなかったのか、また、そういう反論をしなかったところに、大西巨人側の言い分にも脆弱な部分があるのではないかという指摘が、渡部昇一を批判する人たちの中にも、後年に到るまで見られました。私は、“こういう意見も出ているよ”と、大西巨人に直接伝えたこともあります。その時には、“何を言っているんだ、フフン”という感じで、気にも留めない様子でした。
それは、「二人目も血友病で生まれると分かっていたら、未然に防ぐべきだ」という相手の批判に対して、大西巨人は、実証的な反論として、「いや、そうではないんだ」と言っているのです。つまり、「血友病で生まれることが100%分かっている・決まっているわけではなく、医師に相談して、『こういう確率である』ということを聞いていたんだ」という事実関係を説明というか提示しているわけであって、それは決して「血友病が生まれたら嫌だから」、あるいは「血友病が生まれてはいけないと思っていた」ということを意味しているわけではありません。「いや、実際に血友病が生まれる確率はこうだったんだ」という事実関係を説明しているに過ぎないということです。
例えば、こんなケースに似ているのではないかと思います。最近は誰に対してもそうですけれども、特に左翼的というか反保守的な人々に対して、「あいつは在日だ」というようなことを、ネットにすぐ書きます。何の論拠もないのですが、「あいつは実は在日朝鮮人、在日韓国人であり、本名は○○で、通名は××で……」というような話が、ネットに山のように流れます。おそらく、相当多くはデタラメだと思うものの、もしかしたら本当のこともあるかもしれません。
亡くなった土井たか子さんが、やはりそういう「本名は○○で、在日で……」というような中傷的な書き込みを散々されていて、ある雑誌を名誉毀損で訴えました。つまり、「自分はそうではないのに、『土井たか子は在日だ』というインターネット上の情報をそのまま載せている」ということで、損害賠償を求めたのです(最高裁で土井の勝訴が確定)。この時、訴訟をしたことに関して、土井たか子さんはネットでものすごく叩かれていました。その趣旨は、「土井たか子は在日朝鮮人と書かれたら訴えたが、在日スウェーデン人と書かれていたら訴訟をしただろうか。在日朝鮮人と書かれて名誉が傷つくということは、土井自身も実は在日朝鮮人を差別しているからではないのか」という調子で、揚げ足取りのような批判でした。一見すると理屈に合っているかにも見えますが、事実関係として、明らかに「在日朝鮮人だ」という言い方が一定の誹謗として使われている以上、「いや、自分は在日朝鮮人ではない」という否定をすることには、何の問題もありません。しかし、感情的にあげつらうと、「アイツは、自分がそう見られるのが嫌だから言っているんだね」ということになるわけです。
前述した大西巨人の反論に関しても、“コイツは、血友病の子どもが生まれることについては忸怩たる、やましい気持ちがあるからこそ、『いや、そうではない。生まれないと思ったから生んだんだ』と弁解している」というような言い方をされた嫌いがありますが、そういう批判には当たらないと考えています。
障害者は「炭鉱のカナリア」
このように、障害というものには、非常に難しい問題があります。特に、自分自身を振り返ってみても、児玉さんが書かれている本にも出ていますが、「知育偏重」というか、「知性」というものに、やはり引きずられてしまう部分を感じます。
大西家に関しては、もう一つ「浦和高校問題」というものがありました。私が埼玉県立浦和高校を受験した際、血友病による身体障害を理由に、入学を拒否されたのです。やはり、この時も非常にいろいろな意見が出ていて、その中には「浦和高校という“いい” 学校について、何かガタガタ言っている」、「世の中には、例えば小学校や中学校の義務教育さえ受けられない障害児がいるのだから、それに比べたら、まぁ結構なものだね」というような言い方がありました。今のようなネット社会だったら、もっと出ていたかもしれませんが、「上を向いたらキリがない、下を向いたらキリがない」という、内側での足の引っ張り合いが起きやすいのは、障害者の問題だと思います。
この「神聖な義務」に則して言えば、私の弟は、脳内出血を起こして知的な問題がありました。渡部昇一は、血友病の場合、「第二子はあきらめるというのが、多くの人のとっている道である」に続けて、弟についても「そのお子さんも血友病で、てんかん症状があると報じられている」と触れています。しかし、逆だったらどうだったでしょうか。兄が知的な障害も持つ人間で、弟が物を書く人間であったという場合に、渡部昇一は同じことを書いただろうか。つまり、“第二子は大西赤人という物書きになっているが、これは生むべきではなかった”と書けただろうかと考えると、やはり渡部昇一にも、“第二子は知的障害を持っている”という部分に「書きやすい」、「取り上げやすい」という意識があったのではないかという気がします。
知的障害が絡んでくると、障害の問題は一層複雑になってきます。個人的に言うと、知的障害は、昔から興味というか関心のあるところです。もちろん、人間の社会の中には、自分自身も含めて「知性を求める」――「知性」というと言い方が変ですが――「知的能力を、何かしら人間として求めたい」という思いは当然あると思います。でも一方で、ビートルズに『フール・オン・ザ・ヒル』という歌があります。丘の上で一人でじっとしていて何も分からないかのような人間が、実は、回る地球の光景を大きな視点で眺めているという歌です。私は、よくその歌を思い出すのですが、「知性がない」、あるいは「劣っている」ということによって、その人間の存在を否定してしまう、「その人間は価値がない」という位置づけを推し進めていくことに対する非常な違和感、警戒心を強く抱くことがあります。
私たちの社会は、「障害者」と「健常者」という二項を対立させることにより、どこかにセンターラインがあって、「ここからこっちは健常者で、ここからこっちは障害者」という線引きがあるかのような幻想を持たされています。そして、「何か悪いものが障害者で、健常者は障害者の面倒を見てあげないといけない」、「社会はお荷物を抱えさせられている」というような図式が作られ、かつ「障害者の中でも、知的に劣っていて何もできない奴は、もっと価値がないんだ」というような階層を作っていきたいという考え方があるのだろうと思います。
社会にとって、障害者とは、リトマス試験紙というか、「炭鉱のカナリア(注4)」のように、行列の前の方に居させられて、有毒ガスが出てきたら真っ先に倒れてしまう、そういう存在なのではないか。そもそも人間は「障害者」と「健常者」とに二分されるものではなく、「障害者が痛めつけられる、冷遇される」ということは、それを延長していった時に、「健常者」もいずれそういう目に遭わされることが確実なのです。その流れの中で、「障害者」は最初に犠牲になる、いちばん分かりやすくその現象が降りかかってくる存在なのではないかと思っています。ですから、障害者とは、突出した一部の存在ではなく、実は、人間全体の中の分かりやすい事例として、みんなの目の前に登場しているということではないかと考えています。
(注4)炭鉱においてしばしば発生する窒息ガスや毒ガスの早期発見のための警報として、カナリアが使用されていた。本種はつねにさえずっているので、異常発生に先駆け、まずは鳴き声が止む。つまり危険の察知を目と耳で確認できる所が重宝され、毒ガス検知に用いられた。(参考:Wikipedia)