「リバティおおさか(大阪人権博物館)を応援する ~市民社会待望論~」
特定非営利活動法人 ネットワーク医療と人権 理事 花井 十伍
はじめに
リバティおおさか(大阪人権博物館)
リバティおおさか(大阪人権博物館)の存続が危ぶまれている。大阪市と大阪府が補助金を打ち切る方針を示したことが直接の理由である。リバティおおさかの「薬害エイズ」に関連する展示については、私も積極的に協力した経緯もあって、存続を強くもとめるものである。私たちを含めてリバティおおさかに展示物を提供した人たちは、リバティおおさかが大阪市や大阪府の補助を受けて運営している半ば公的な施設であることから大切な資料を提供したということもあったはずであり、一方的に補助金を打ち切られ閉館を余儀なくされれば、こうした人たちの信頼を裏切ることになるばかりか、貴重な資料の行く末にも大きな問題が生じることは間違いない。
補助金打ち切りの経緯
どうしてこのような事態に陥っているのか? 補助金の打ち切りに関しては、橋下徹大阪市長が知事時代からリバティおおさかに対して批判的であったことが大きく影響していることは間違いない。橋下氏は大阪府知事在任中に「差別、人権などネガティブな中身」をあらためて「子どもが夢を持てる施設」にすることを求め、リバティおおさか側も知事の意向に添うように展示を見直したが結局、市長として「やはり考えに合わない。チャンスを与えたのに」として打ち切りを決めた。橋下氏の表層言説は一貫性があまりないので、真意を推論してもあまり意味がないと思うが、リバティおおさか側の立場に立ってみると、差別や人権をネガティブと言われてはもうお手上げである。例えるなら戦争や暴力を扱わないで平和記念館がつくれるだろうか。そもそも、人権という観念は人類が長い歴史の中で同胞の血を流しながらやっと獲得した観念であって、それは目に見えるものではなく、世界がこれだけは共有すべきであると言い切れる数少ない歴史的成果物の一つである。こうした、目に見えない観念を展示するにあたり、社会的抑圧や差別にさらされた人々が自ら生の活路を見いだして行く道程、端的に言えば運動の歴史を取り扱う事によって、人権という見えないものを逆照射するかたちで人々に見せようという手法は全く正攻法と言う他ない。
問題の核心
おそらく問題の核心は別のところにあるように思われる。「差別、人権などがネガティブ」という言説に市民が共感してくれるであろうと、橋下氏の政治家としての嗅覚が告げているからこそ、橋下氏はこうした発言をしているはずである。それは一面、東日本大震災・福島第一原子力発電所事故による被災者達の苦しみが全く回復されることなく続いているにもかかわらず、さあ経済成長だ、強いニッポンの復活だ、などと声高な政治家にも通ずるものがある。つまり、市民の多くが悲惨なものを直視したくないと思っているだろうことを橋下氏もその他の政治家も嗅ぎ取っているのである。公害にせよ薬害にせよ市民運動を行う側は、その被害の悲惨な実態=悲劇としての物語性を示すことによって世間の共感を獲得してきた側面がある。しかし、悲劇の物語はゆとりのある人に対して共感あるいは同情を得ることには有効であっても、自らも苦しんでいる人にとってはむしろ避けたい話である場合が多いのではないだろうか。おそらく多くの日本人にとって、東北の被災者に共感や同情する余裕すら失いかけているのではないか。むしろ、リバティおおさかが展示するさまざまな人権問題は、それぞれの問題毎にさまざまな対応が為された=特権を得た人たちの問題であると橋下氏は考えているのかも知れないし、市民もそう考える事を橋下氏は期待しているのではないだろうか、多分に私見だが。
しかし、リバティおおさかが扱っている人権とは、そのような個別の問題の羅列では決してない。本来目に見えない人権は、通常その具体的中身を記述することで共有されてきた。アメリカ合衆国の独立宣言やフランスの人権宣言を嚆矢として各国の憲法典などがそれであり、自由、平等、生命の安全、財産、幸福の追求など自然権的人権に始まり、参政権や圧政に対する抵抗権、信教、教育、結社など個別的中身がそれぞれの国によって成文法として記述されてきた。もちろん、我が国の憲法においても人権に関する条文は重要な位置を占めていることに反論はないと思う。しかし、例えば近年、生活保護制度による受給者に対する批判がメディアによって大きく取り上げられたのは記憶に新しい。言うまでもなく、我が国の生活保護制度は、日本国憲法25条に定められた人権、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障する装置として位置づけられるものである。つまり、生活保護法はある意味、人権の具体的最終防衛線の一つであるわけである。この、最低限度の生活が不当な贅沢として目に映る現状が今日の日本にあるということが大きな問題なのである。こうした文脈に添って考えてみると、ハンセン病の回復者にせよ、被差別部落の人たちにせよ、最低限の権利の剥奪に抗してきた結果が批判の対象になりかねない世相が存在し、基本的な人権の問題として意識されることなく、いわば弱肉弱食の細分化された人権コンテンツ同士の争いの様相が見て取れる。2008年の小林多喜二蟹工船再ブレイクも象徴的であり、1920年代のプロレタリア文学に共感し、また生活保護が贅沢に映る人たちが確実に増えていることは間違いない。これらは、直接的には小泉純一郎内閣の小泉改革の一環として行われた、2003年労働者派遣法改定による、製造業派遣を含む大幅な規制緩和によるものだが、劇場型の政治を行ったという意味では、橋下市長との共通点がないではない。蟹工船の労働者達は自らの人権のために立ち上がった訳だが、現在、非正規雇用の身で長時間労働をしているにもかかわらず、「健康で文化的な」生活のままならない人々が自らの人権を脅かされていることに対する抗議の声はさほど大きくないように見える。
人権というコトバ
考えてみると私たちは、自由のために国をつくったり、王様の首を刎ねたりした歴史をもっていない。移民の国であるアメリカ合衆国では、日本より貧富の差は大きいし人種間の不平等も実体としては少なくない筈であるが、それでも、否、それゆえに立ち返る共通の原理、私たちがアメリカ合衆国を作った理由、平等に生まれ、自由、生命、幸福の追求を守るため政府を持つ!(アメリカ独立宣言1776.7.4)、が国民によって共有されていることが重要なのである。人権とは、全ての人が立ち返ることが出来る普遍的価値なのである。
リバティおおさかを閉館しても大多数の大阪市民から批判されることはない、と踏んでいる橋下市長はある意味正しい。しかし、大阪市民や日本国民が愚かなわけではない、むしろ欧米のようなコトバによる政治が苦手なだけである。原発問題に取り組む市民やさまざまな個別の人権に関する課題に取り組む新たな世代は、確実により良い選択枝を見いだしつつあるし、彼らの未来に向けた歩みに共通する普遍的価値が確かに存在する。その普遍的な価値からすくい取ったものが人権というコトバであり、本当の意味での市民社会への扉でもある。その扉の向こうで語られるコトバは、勇ましいだけで空疎な政治家の言説とは全く異なるものである。そこではリバティおおさかが大阪市民のみならず日本国民の貴重な財産となっているはずである。