第1部「薬害肝炎訴訟の意味するもの」
福田 衣里子 氏(薬害肝炎九州訴訟原告)
偶然知った「感染」、迫り来る恐怖
はじめまして、福田衣里子です。
私がC型肝炎に感染したのは1980年、生まれてすぐの時のことでした。母の血液型が「Rh-」で、私の血液型が「Rh+」だったために、全身の血液交換をしなければいけないことになりました。その時に、おへそとかかとから血が止まらなくなって、その処置として、石膏で固めたり、おへそを縮めたり、いろいろしたらしいのですが、その中でクリスマシンを投与されたことが原因でC型肝炎ウィルスに感染しました。しかし、本当に生まれてすぐのことなので、もちろん記憶もなくて、分からないまま成長しました。
感染が分かったのは20歳の時のことでした。HIV訴訟の関連で、2001年の3月29日に血液製剤クリスマシンの納入先医療機関名805件が新聞で公表されていました(注1)。まさかC型肝炎に感染しているなんて思ってもいないので、私も母も普段だったらそんなに新聞を見ることもなく、通り過ぎてもおかしくない記事だったのですが、なぜか母がその時新聞を見て、私が生まれた病院の名前も載っていて、生まれた時期も合っていたので、不安に思って「検査を受けてみよう」というふうに言われました。でも本当に元気で「まさか病気なわけがない」というふうに思っていたので、軽い気持ちで「まぁ検査をすれば親も安心するかな」というふうに思って検査を受けることにしました。その時の検査でC型肝炎ということが分かりました。
検査結果は両親が聞きに行ったのですが、院長室に通されて、院長先生と薬剤師長となんとか長と、って4人ぐらい「なんとか長」とつく人たちが集まってきて、「娘さんはC型肝炎に感染していました」ということを告げられたそうです。「娘はなぜC型肝炎に感染したのでしょうか」と父が尋ねると、「母子感染の可能性もあるので、すぐにお母さんも検査を受けてください」ということを言われ、母もすぐに検査を受けたのですが、母は感染していませんでした。
私のカルテはなかったのですが、当時クリスマシンは、納入されている問屋から卸されている常備薬ではなく、私が血が止まらないのを見て急遽納入した、という記録があったりだとか、私のウィルスのタイプが日本人にはないタイプだったので、輸血ではありえないだろう、ということだったり、そういったいろんな因果関係を考えると、クリスマシンによる感染の可能性が高い、ということで投与証明書を書いてくださいました。しかし、だからといって何かできる、というふうには思っていませんでしたし、その当時C型肝炎というものがどういう病気か全く分からなかったので、最初は本当に全く恐怖というのはありませんでした。
両親はその時、お医者さんに「どういった病気なのですか」ということを尋ねたらしく、「放っておけば潜伏期間が15年から20年、25年かけて慢性肝炎になって、放っておけば肝硬変、肝がんに移行して死に至ることもある」ということを聞いていたのですが、「少しでも不安に思わせないように」と思ったようで、私には軽く電話で伝えてきました。「まぁC型肝炎には感染していたけど、治療すれば治るらしいよ」というふうに母が言ってきたので、私も「治療すれば治るんだったらまぁいいか」と思って、「あっ、そう」というふうに言っていました。でもその後、やはりC型肝炎という文字が目に入ってくるので、「あ、私のことだ」と思って、テレビとか本とかを見てみると、「放っておけば死に至る」と、どこを見てもそう書いてあって、それで初めて不安というか恐怖というものを覚えました。
私は生まれてすぐに感染していて、もう潜伏期間は20年を過ぎていました。その時はキャリアだったのですが、「このままだと慢性肝炎に移行して、放っておけば死ぬのかもしれない」というふうな不安もありましたし、「これからどうやって生きていこう」というふうに考えました。
(注1)薬害エイズ事件のいわゆる「第4ルート」問題。血友病の治療ではなく、各種の病気や手術後の出血予防のために非加熱血液製剤を投与されたことによって出たHIV感染被害のこと。
体力に自信のあった学生時代
小さい頃はすごく元気で、13歳、12歳と年の離れた兄が2人いて、母からすれば「女の子がどうしても欲しかった」 そうです。知っている人は少ないかもしれないですけど、「お姫様を産んだつもりが、『じゃりん子チエ』が生まれてきた」と言われるぐらいヤンチャで、いろんなことに好奇心が旺盛で、結構走り回っているようなタイプの子どもで、本当に元気だったのです。
体自体は弱い方だったのですが、小さい子って結構体が弱い人が多いのであまり気にもせず、中学生、高校生になると人よりも元気だというか、高校も走り回っていましたし、空手部に入って黒帯も取りました。その後、広島の大学に進学して心理学を専攻したのですが、「このまま心理学でいいのだろうか」というふうに10代独特の悩みを抱えて、「こんな教科書で人の気持ちなんて分かるわけないじゃないか」というふうに考え出して、「とりあえず体験してみよう」というか、「世界を見てみよう」と思って、大学を休学してヨーロッパに一人で、リュックを背負って旅に出ました。
その時は本当にその日暮しというか、次の都市に移動して、朝から宿を探して、見つからない時は、野宿はあんまりなので寝台列車とか寝台バスを見つけて移動したりして、本当に結構危険なこともあったのですが、今はちょっと自信ないですけど、ちょうど空手もその時やっていたっていうこともあったので、そうはいっても大きなヨーロッパの人たちに勝つわけもないのですが、何か訳の分からない自信がありました。両親も最初は心配していたのかもしれないですけど、「どこにいても死ぬ時は死ぬよ」と言ったら、「そやね」と言って許してくれました。
貧乏旅行だったので、落ちているリンゴを拾って食べたりだとか、ちょっと腐りかけたものも「大丈夫だろう」と思って食べていました。でも、一度もお腹を壊したり、風邪をひいたり、体調を崩すことなく3ヶ月間旅をして帰ることができました。だから「すごく体力には自信がある」というふうに思っていましたし、その旅で「何かこれがやりたい」という職業が見つかったわけではなかったのですが、いろんな人がいて、貧富の差もありますし、いろんな職業があって、それぞれの人たちが誇りを持って仕事をしていて、高校までは定期券を持って家と学校の往復だけだったので、言葉も分からないところで、切符を買うのも初めてだし、宿をとるのも初めてだし、全てが初めてだったので、「やればなんでもできるし、いろんな選択肢があるんだ」というふうに、未来に希望を抱いて帰ることができました。
「これからどうやって生きていこう」
その後すぐに成人式があって、成人式の着物を友達は、1年前から買ってる、という人もいた中、私はあわてて、間に合わないのでその辺に買いに行って、成人式を迎えました。その時は友達とも「誰がいちばん最初に結婚するかなぁ」とか、「何人ぐらい子どもを産むかなぁ」というような、そういう未来の話をしていました。そういう話をしたばかりの、ほんの3ヶ月、4ヶ月後に、「C型肝炎である」ということを知ってしまった時の、やはり落差というかですね、「未来がこれから広がっていく」というふうに思っていた矢先に「感染」ということを知ってしまった、というのがやはり大きなショックでした。 それでも「死ぬ」というふうには思わなかったのですが、「これからどうやって生きていこう」というふうに思うようになっていきました。
暇があれば不安なことばかりが頭によぎってきて、「仕事はできるんだろうか」とか、「結婚とかできるんだろうか」「子どもを産んでもいいんだろうか」「もし結婚できたとしても、相手の両親は祝福してくれないだろうな」とか、「私と結婚しない方が相手は幸せになるだろうな」とか、「子育てできるんだろうか」とか、「家事はできるんだろうか」というふうに考えると、「やはり私と結婚しない方がみんなきっと幸せになるだろうな」というふうに考えてしまったりとか、「仕事でも迷惑をかけてしまうんじゃないか」とか、人と関わることがすごく不安になりだしました。でも頭の中は「早く治療して、もうさっさとなかったことにしてしまいたい。そして、みんなと同じ土俵で生きていきたい」というような、100%の力がどっちにしろ出せない、という段階で何かを始めることがすごく不安でした。「もしかしたら治療をしなければいけない。そうしたら中途半端に辞めなきゃいけなくなるし」というような、そういうことをウダウダウダウダ毎日考えるようになっていました。
早く治療したい!
最初は「すぐにでも治療しましょう」と言われていたので、「じゃあ早く治療して、早く治してこの足かせを早く外してしまおう」というふうに思っていたのですが、感染から20年以上経っていて長かったのでウィルスの量がすごく多くて、「今治療したとしても完治する可能性は1%以下です」ということを言われました。「じゃあどうすればいいんですか」ということを聞くと、「今はウィルスと肝臓が仲良くしている状態だからウィルスが減らないけども、戦いだしたらウィルスが少し減るでしょうから、そこが狙い目かもしれないですね。様子を見ましょう」ということを言われました。その「様子を見る」というのが、1ヶ月先とか、または20年先ということが分かっていれば、それまでの人生設計というのが立てられるのですが、例えば20年先であれば「20年間こういうことをしよう」とかできるのですが、「もしかしたら来週『じゃあ治療しましょう』と言われるかもしれない」というふうに思うと、「今何かを始めたとしても中途半端にやめて、人に迷惑をかけるだけかもしれない」とか、そういうことを考えると、全てにおいて躊躇するようになってしまって、「何かやりたいな」と思うことがあっても「でもなぁ・・・」と、そういうことばっかり考えるようになって、とにかく「早く治療したい!」 それだけでした。
そこで、肝臓に悪いと言われる疲労とストレスを与える、という作戦に出ました。朝5時に起きてパン屋で働いて、お昼に1回帰って、夕方から夜までまたパチンコ屋で働いて、また朝5時に起きて、というような毎日を暮らしていたら、まんまと肝機能数値が上がってきて、慢性肝炎の状態になりました。
その時、ちょうどインターフェロンとリバビリンという飲み薬との併用療法に認可が下りて、「これだったら治る可能性が17%あります」ということを言われました。私は「17%もあるんだ」というふうに思って、「治療します」と言ったのですが、両親からすれば、半々ぐらいの可能性だったらまだ「がんばってみなさい」って言えたのでしょうが、もしかしたら、というか、治らない可能性の方が高い治療に、しかも副作用がすごくきつい、ということを知っていたので、「もし治らなかった時に『あんなきつい治療、もう二度とやりたくない』って言い出したら大変だ」というふうに思っていたそうです。「もしかしたら治らないかもしれない。でも治らなくても『もう1回チャレンジする』って約束するなら治療しなさい」ということを言ってくれて、私は「約束する」ということを言いました。17%ってどこから出てきた数字か分からないのですが、私からすれば、治療すれば治る可能性があるけれども、治療しなければ0%、治るか治らないかの「0」か「100」かのどっちかなので、「それに賭けるしかない」というか、「賭けたい」というふうに思って治療に入ることにしました。
辛い副作用と無自覚な副作用
それが22歳の時だったのですが、「若かったら副作用はなんともない人がいる」ということを何かどこかで小耳に挟んだことがあったので、「もしかしたら私もなんともない人に入るかもしれない」という淡い期待を抱いて治療を始めたのですが、1本注射を打っただけで40℃も熱が出てガタガタ震えて。ロキソニンという解熱鎮痛剤を飲めば、熱はその時は下がるのですが、1日おきぐらいに注射を打つので、すぐにまた同じような状況になって、注射1本打つのは一瞬なので慣れるのですが、慢性的な痛みとか痒みというのがだんだんあらゆるところに出てきて、視力も落ちましたし、唾液が出なくなって、最初は「歯磨き粉がやけにしみて痛い」というふうに思っていたら、舌がひび割れてきて、「いつものどが渇くなぁ」と思っていたら、のどじゃなくて口が渇いた状態で、唾液があまり出なくなっていたのですね。なので、唾液で菌を殺せなくて口が真っ白になるぐらい口内炎ができて、それがもう不快というか本当に嫌で、私もそうだったのですが、他の患者さんで、マウスピースをつけている、という人もいらっしゃいました。全員同じような症状が出るわけではないのですが、弱いところに出やすかったりとかして、体質とかもあるのでしょうが、その人も唾液が出なくて滑らないからですね、舌で口の中をケガしたりするのです。そういった症状だったり、あとは私の場合は全身痒くて、頭の先から指の先まで本当に痒くて、気が狂うほど痒くて、本当に「殺してくれ」と思うぐらい痒くて、目も開けているのか、つぶっているのか分からないぐらい腫れあがって、皮がむけてヒリヒリして、ちょっと痒みが治まったら今度はヒリヒリして痛くて、ちょっと動かしても皮がむけてるからですね、突っ張って痛いんですね。もう顔も化け物みたいになっているので人にも会いたくないし、「こんな顔で誰とも会いたくない」というふうな思いで、お化粧しても余計汚くなるだけで、乾燥して突っ張るし痛いし、というので本当にそれがいちばん辛かったですね。シャンプーやリンスもしみたりしますし、あとは頭痛がしたり熱を出したりという、インフルエンザに毎日罹っているようなものだと思ってもらえれば分かりやすいと思うのですが、1日、2日風邪をひいたり、インフルエンザに罹るだけでも辛いのに、それが半年、1年、1年半続くと思うと本当にぐったりするような治療でした。
あとは髪の毛もたくさん抜けて、私の場合すごく、ちょっと悩みっていうぐらい髪の毛が多すぎて困っていたので、「人並みに減ってちょうどいいな」ってその時は思っていたんですけど、本当にもう毎日コロコロコロコロ布団だったりとか、お風呂に入っても排水溝のところにいっぱい溜まるんですよね。だから白い詰まり止めを付けても、1回お風呂に入っただけでそれが真っ黒になるぐらいに抜けて、頭を触ったらまたさらにいっぱい抜けるので、それが面白くなってきて、いっぱい抜いて丸めると、なぜか知らないけど綺麗な丸になるんですよね。それを「リアル毛玉」とか言って親に投げたりとかして、私としては面白いつもりでやっていたのですが、親は本当に気持ち悪がっていて、やっぱり躁鬱というのも出るからですね、「鬱にだけはいちばん気をつけてくれ」ということをお医者さんも言っていたのですが、自分では分からないですよね、そんなの。だから入院している時も「イライラしませんか」とか、よく毎日聞かれたのですが、「この若さでこんなところに1日中いたらイライラもするよね」とか思いながら、それが副作用なのか何なのか分からなかったので、「まぁ大丈夫です」とは言っていたのですが、両親から見たら、ちょっとしたことで急に怒り出したり、逆に面白くないことを言って一人で大爆笑したりとかしていたそうで、「そのテンションの差が気持ち悪かった」というふうに言っていました。
「ただ生きているだけ」の毎日
入院している時は、注射を1本朝に打つだけなので、特にやることもなくてすごく暇なんですね。だから毎日献立を1日に何度も見に行って、さっき見に行ったのに「何だったっけなぁ、今日の昼」とか思いながら、やることがないので何度も献立を見に行ったりとかしました。また、「暇だから誰か遊びに来ないかなぁ、お見舞いに来ないかなぁ」とか思うのですが、実際に誰か来ても、だんだん「早く帰ってくれないかなぁ」というふうに思い出して、人としゃべることがおっくうになっていって、たまに外泊とかすると、両親はもう60を過ぎているのですが、一緒に歩いていたら、親の歩く速度についていけないのですね。両親も、まさか20代の娘が自分たちの歩く速度についてこられていない、というふうには本当に思っていなかったみたいで、たぶんショックだったんじゃないかなぁ、と思います。ちょっと歩くだけで動悸がしたり、歩道橋も一気には歩いて登れなかったりという、20代だったのですが、「人ってこんなに簡単に弱るんだなぁ」ということを感じました。それでも、「もしこれに耐えることができれば治るかもしれない。そうしたら、また人生を始められる」というふうに思っていたので、がんばって治療を受けていました。
あとは、すごく眠たいんですよね。痒み止めに精神安定剤と似た成分が入っているから、というのもあるのかもしれないですけど、すごく眠たくて、寝ても寝ても眠い。1日中、もう1日の半分以上寝て、ご飯食べては寝て、ご飯食べては寝て、という状況で、また寝てしまった、という罪悪感があって、なんかもったいないですもんね、寝てしまったっていうのが。それでも「起きてたら痛かったり痒かったりするから、寝てる方がマシなのかな」と思いながら、それでもやっぱり当時22歳ぐらいだったので、ちょうど友達は就職活動をしたり、仕事を始めたり、結婚したり、というような時期で、「友達はそうやって自分の能力を生かして社会の役に立っているのに、自分はただこんなところで寝てるだけ、ただ生きているだけじゃないか」っていうのがすごく辛かった、というかコンプレックスに感じていて、「年を取った両親の年金で治療を受けさせてもらいながら生かされている」というような、やはり悔しい思いがずっとありました。それで治療に耐えたのですが、その時は結局すぐにウィルスが出てきて、「今回は無効でした」ということを言われました。「すごいショックを受けるかな」と思っていたのですが、精一杯努力ができたので、「またがんばろう」というふうに思うことができました。
実名を公表することの意義
治療が終わったのが23歳の時だったのですが、そうこうしている時に、長崎で医療講演会というのがある、ということで、今思うと「あの時治っていたら、行かなかっただろうな」と思うのですが、治っていなかったので、「ちょっと行ってみようかな」と思って、軽い気持ちで医療講演会に参加してみて、そこで弁護士の先生に出会いました。私はたまたま投薬証明書を持っていたので、「原告になれますよ」ということを言われて、そういった裁判が行われていることもそもそも知らなかったのですが、いきなり「原告になれますよ」と言われても、「なんで裁判なんてやらなきゃいけないんだ」と最初は思って、怖いイメージですし、普通裁判なんてしないですからね。「嫌です」と最初は思ったのですが、「原告になりたくてもなれない人がほとんどなんですよ」ということを聞いて、「なれるのにならないというのは間違ってるのかな」というふうに思って、「じゃあ、加わります」ということを両親にも相談せずに勝手に決めて帰りました。
その後、「次の裁判を傍聴に来てください。ご両親と」ということで、初めて裁判を恐る恐る傍聴に行ったのですが、その時若い人たちがやけにたくさん集まっていて、「この若い人たちはいったい何なんだろう」というふうに不思議に思って弁護団に聞いてみると、「この訴訟を支える学生の会の皆さんで、傍聴席を埋めるために集まってくれたりとか、街頭でビラを配ったりしてくれています」ということをおっしゃっていて、「この人たちは友達でも家族でも親戚でも恋人でもない赤の他人のために、面白くもない裁判を傍聴しに来て、バイトしたりデートしたり遊んだりしたい、そういった自分の時間を使って、楽しいサークルでもなんでもないのにこうやって活動してくれているんだ」ということを知った時に、私は当事者なのに何もせずに、何もできないと決め付けて何もしてこなかった、ということをすごく恥ずかしく思いました。なので、その時にもうその場で実名公表を決意しました。「別に名前を隠さなきゃいけないような悪いことは何もしていない」というふうに思いましたし、「匿名裁判ということで、逆に『名前を隠さなきゃいけないような病気なのかな』って思われるかもしれない」とも思いましたし、その当時は今以上にやっぱり差別や偏見が酷くて、C型肝炎だというだけで仕事を辞めさせられたりだとか、離婚したり、破談になったり、内定を取り消されたりとか、本当にいろんなことがあったので、基本的に匿名裁判だったのですが、「患者本人から『こういう病気です』ということを訴えることで、そういった差別とか偏見というのがなくなっていくんじゃないか」と思ったのです。
また、その時実名を公表していたのがお母さん世代、40代、50代の方で、私が客観的にテレビで見たりとかしても、「『お母さん大丈夫かなぁ』というふうに思ったとしても、『自分は大丈夫かなぁ』とは決して思わないだろうな」というふうに思ったのです。でももちろん記憶がないうちに投与されて、20代とかで若いと、少しだるいとかイライラするぐらいが病気だとは思わないと思うんですね。自分の精神力の問題なのか、キレやすい性格なのか、とかそういうふうに思ったとしても、病気だというふうには思わないんじゃないかって。でも、この病気は本当に早期発見、早期治療が大事な病気だけれども、自覚症状がない。気付かないうちに肝硬変、肝がんに移行して、手遅れになっては困る。私は最初、「運悪く感染したんだ」と思っていたのですが、「運良く感染の事実を知れたんだ」というふうに思った時に、知らない人たちはこのまま20代後半、30代になると潜伏期間も長いはずなので、「どうなっていくんだろう」とすごく心配になって、「これは本当に20代でも感染している人がいるということを訴えなきゃいけない」と思いました。そういった意味でも、実名公表をすることに意義があるんじゃないか、というふうに考えました。
「知らない」ことは「なかった」ことと一緒
実名公表したからどうなる、というふうなビジョンがあったわけじゃないので、軽い気持ちでできたところはあったのかもしれません。実名公表している人が少ないので、その後やっぱり取材とかが集中するんですね。その時に、治っていなかったのでもう1回、今度はペグインターフェロンとリバビリンの併用療法、ちょっと一歩先を行った薬ができたので、それにチャレンジすることにしました。それが1年半の投与だったのですが、その時に裁判活動と治療と、そして取材を毎日受けなければいけないというのは本当に辛くて、別にC型肝炎の話なんて面白い話でも自慢できる話でもないのに、それを毎日、「昨日も肝炎、今日も肝炎、明日も肝炎の話をしないといけない」と、いつもブーブー言いながら、体がきついけど帰ってもくれないし、もう断りたいのはやまやまだったのですが、それでもやはり私自身、新聞記事1枚がきっかけで感染を知れたので、「そういった記事というのは1つでも増やさなきゃいけないな」と思っていましたし、やっぱり今こうやって418リストの問題(注2)とかの浮上によって、年末年始にかけてすごく報道されるようにはなったのですが、5年続く裁判のうち、最初の4年以上はC型肝炎という言葉も知らなければ薬害という言葉もよく知られていなくて、ビラを配ってもなかなか受け取ってもらえない、という状況が長く続いていました。だから、「少しでも知ってもらわなければいけない」という思いで、きつい取材だったんですけども受け続けていきました。治療中なので顔もボロボロだし、「こんな汚い顔を全国で放送してほしくないな」と思いながら、「まだ嫁入り前なのに」と思いつつ、「それでも、まぁ仕方ないかな」というふうに思ってやってきました。
やはりこの裁判の目的というのが、350万人の肝炎患者救済、そして薬害根絶。私たち自身、ひとりひとりは折り合いをつけているというか、「そんなに裁判までしなくてもいい」という思いがあるかもしれないですけども、ここで訴えなかったらこの問題はなかったことになってしまう。「知らない」ということは「なかった」ことと一緒なので、そういうわけには、なかったことにはできないので訴えていかなければいけない、というふうに思いました。
2007年12月10日、首相官邸前にて全面解決を訴える福田氏
(注2)旧三菱ウェルファーマ社(現田辺三菱製薬)が2002年に厚生労働省に提出した、薬害によるC型肝炎感染者である疑いが強い418人の症例リスト。2007年10月、このリストの中に薬害肝炎訴訟の原告が含まれていることが明らかになったことによって、同社や厚生労働省が個人を特定できる情報を持っていながら放置し続けていたことに批判が集まり、薬害肝炎訴訟が解決に向かい大きく動き出すきっかけになった。
声を上げないと何も変わらない
やはりこの問題というのは、「製薬会社と厚生省が結託して利益を追求した結果、分かって防げたはずだけれども、多くの人たちが犠牲になってしまった」というところがあると思うのですが、厚労省の人間だって企業の人間だって、薬剤師だったりお医者さんだったり、またそういったいろんな人たちがどこかで気付いたかもしれない、声を上げようと思ったかもしれないですけど、上げても潰されていた可能性もありますし、やはり自分たちの保身だったり、家族を守らないといけない、という思いがあって声を上げることができなかったというか、口をつぐんでしまった、というところに被害を拡大させた原因のひとつがあるんじゃないか、というふうに思いました。そう思った時に、「被害者も同じじゃないか」というふうに思って、別に「自分は病気です」ってみんなに言いふらして回る必要もなければしたいわけでもないですけれども、「言いたくない」「隠したい」という、それは被害を拡大させる一端を担うことになるんじゃないか、というふうに思ったので、「被害者もやはり声を上げていかなければいけない」と思ってきました。
また、私個人としては20代の多くの時間を寝て過ごしてきました。「ただ生きているだけじゃないか」って。みんなはちゃんと生きていて、明日いなくなったら困るかもしれない。職場で働いている人は、「あぁ、この人いなくなったら困る」という存在になっているかもしれないですし、お母さんだったり、一家の大黒柱になって、そういう人生を送っている中、私は「明日いなくなっても誰か困るだろうか」と考えた時に、「いやぁ、特に誰も困らないな」と思ってすごく空しくなったというか、生きている意味というのがよく分からなくなった時期もあったのですが、この裁判で「本当に350万人の命の救済に繋がるかもしれないんだ」というふうに思った時に、「こんな自分でも社会の役に立つのかもしれない」と本当に自分自身救われた気持ちでしたし、そういった思いがやはり最後まで突き動かしてくれた、という思いがあります。
原告、弁護士、みんなで闘った
私はその1年半に及ぶ2度目の治療で陰性になることができて、その時はすごくきつかったですし、1年半の治療が終わって、注射を打つのをやめたからといってすぐに回復していくわけではないのですが、徐々に元気になっていって、最後の東京での活動の頃はすいぶんと体が動くようになったので、今までは肝炎になった体だけが武器で闘ってきたのですが、ちょうどその時は、新たな武器として体が動く状況というのが本当にタイミング良くできた、というふうに思います。やはり原告というのはみんな病気ですし、動ける人が動かなきゃいけない、家庭もあるからですね。なので、私はそういった「できる環境」にいたので、「やらなきゃいけない」というふうに思ってがんばってきました。
本当に長い闘いで、去年の年末年始は本当に、月の25日ぐらい東京に詰めていることもあって、誕生日もクリスマスも国会にいなきゃいけない、というのが、「何やってるんだろう」と思いながら、それでも本当に私だけじゃなくて、原告とか弁護士とか政治家の先生もみんな激ヤセしながら、弁護団もずっと家に帰れないからですね、パンツとかシャツとかコンビニで買いながらずっと闘ってきて、「今週が勝負、今週が勝負」と毎週言いながらやってきました。それでもやはり、「みんながんばっているから自分もがんばらなきゃ」という思いになりましたし、こういうことをしていなかったら人間の醜さというのもここまで見なくてよかったかもしれないけれども、こういうことをやっていたおかげで、本当に熱い人たち、涙もろくて熱い人間というものにたくさん会うことができた、というのは本当に財産だった、というふうに思いますし、一緒に闘ってきた同志というのは本当にかけがえのない人たちだな、というふうに思っています。
2007年12月10日、記者会見より。涙を流すことも多かった訴訟活動
残された課題
ようやく救済法(注3)というのが成立したのですが、そこに至るまでの闘いというのは本当に壮絶なものがあって、最終的な詰めの段階ではやはり官僚との闘いでした。上の政治家をいくら代えても中身が変わらない限りどうしようもないな、というふうに思いましたし、それは薬害に限った話ではなくて、そういったものを根源とする問題というのは本当にたくさん社会に溢れている、というふうに思います。やはり、一部の人間が一部の利益のために動くというのは本当に良いことひとつもないな、というふうに感じました。最終的には、官僚達は本当に「人間の命、国民の命を救おう」というふうな方向には、なかなかというか、今でもどうか分からないですけど、目を向けずに、結局自分たちの組織を守る、自分たちの保身ばかり、「どうやって言い逃れようか」という姿勢をずっと貫いていたので、私たちはそういった人たちの対極に居続けることで抵抗し続けよう、というふうに思いました。なので、原告だけの救済ではいけないと思いましたし、今でも結局救済法が成立しましたけど、それでも救済されるのはごくわずかなので、原告団の歩みは止めることなく、それでも救済されない被害者だったり、医療費助成が始まっても不十分なために治療ができない人たちがたくさんいらっしゃるので、これからの闘いというのはまだまだ続いていく、これからが始まりだ、というふうに思っています。
また、薬害というのを二度と起こさせないためには真相を究明しなければいけませんし、企業が利益を追求するのは、ある程度そういうところはあるとは思いますけど、薬害を二度と起こさせない、起こしたくないと思うようなシステムというのを作っていかなければいけないんじゃないか、というふうに思っています。
(注3)正式名称:特定フィブリノゲン製剤及び特定血液凝固第IX因子製剤によるC型肝炎感染被害者を救済するための給付金の支給に関する特別措置法
救える命を救うために
救済法は、総理が決断をした、という形ですけれども、最終的にはやはり国民が、世論が成立に導いたというか、本当に日に日に世論が高まっていくのを感じました。かつては「結局、政治というのは遠くで偉いおじさんたちが勝手にやっていることなんだろうな」というふうに思っていたのですが、「動けば本当に変わるんだな」ということを感じました。「『社会が良くなればいいな』というふうに願っているだけじゃ変わらない、変えなければいけないんだな」ということも感じました。
何年か前に、菅直人・元厚生大臣が、「世論の高まりがいちばん大事だ」ということをおっしゃっていました。「厚生大臣という立場にあっても、自分ひとりじゃ何もできない。『周りが全員敵』な状態になってしまう。世論が高まらないと何もできない」ということをおっしゃっていたのですが、その時はピンとこなかったんですね。「『世論が高まらないと』って、大臣が『やる』と言えば『やる』で、そういうもんなんじゃないのか」と最初は思っていたのですが、「あぁ、本当にそうなんだ」ということを感じました。なので、結局今回の救済法成立は、原告団ががんばったから、とかそういうわけではなく、世論全体が高まって後押しをしてくれたからだ、と感じています。それは本当に国民のすごさというかですね、力というのを感じました。
やはり、それでも今どれだけの人たちが救済されて、どれだけの人たちが治療に至れているか、というのはほんのわずかだと思います。医療費助成に関しても、「肝硬変、肝がんに至る前に、慢性肝炎の段階で治療することで、結果的に肝硬変、肝がんになって治療するよりも3兆円の医療費削減になる」ということを厚労省の研究で2年前ぐらいに言っているので、できない話ではない、と思うのですね。なので、一刻も早く行ってほしいですし、「60人に1人が肝炎で、1日に約120人が亡くなっている」という現実があるので、1日でも、1分でも早く対策をとってもらいたい。そして、これは国に責任があることなので、もちろん当然やるべきことなのですが、何かもう忘れてしまったかのような状況というのが恐ろしく感じます。「救える命が救えていない」というのが本当にもどかしく思います。「今なら救える命があるし、今しか救えない命があるはず」というふうに思うので、私たち原告団、弁護団としては、支援は変わらずずっと活動を続けていこう、と思っています。
今日はご清聴ありがとうございました。