ディスカッションと質疑 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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ディスカッションと質疑

東京大学 名誉教授 盛山 和夫
東北大学大学院医学系研究科 准教授 大北 全俊
特定非営利活動法人ネットワーク医療と人権 理事 花井 十伍

 

市民社会と科学的知見の関係

花井氏:
 盛山さんのお話の中で、市民社会・公共圏という言葉が出てきまして、何かをアプリオリに正しさを決めるのではなくて、その手続き、熟議が大切と仰ったと思いますが、何かの正しさを暫定的に決めていって、その正しさは、やはり暫定的なので、その仮説に熟議を繰り返すことによって変わる可能性もあるという、プロセスの重要性をお話されたと思います。
 実践的には市民社会や公共圏を日本で目撃した覚えがないのですが、いつも悩ましく感じているのは、その熟議をする空間において、専門家と私たちの関係をどう考えるかということがあります。先ほど、盛山さんは自然領域と社会領域があって、自然領域は経験科学をもちいることで妥当性を検証可能であるものの、社会領域はそうしにくいというようなお話をされておられましたが、コロナ関係の言論空間にみられるように、専門家が一見自然科学的ファクト(事実)の話をしている体で半分以上専門外の価値を伴う社会的な話をしており、そういう専門家集団の中に、一般市民…私たちのような素人が入ってゆくときに、どうしても専門家の言葉のほうが強いというのが実情で、専門家によってはファクトの部分においても一本化されている訳ではありません。エイズにおいても、初期には「抗体陽性で良かったね」といわれることがあり、後に HIV 抗体陽性は持続感染を意味することが明らかになるなど、科学的知見が安定するまでの間は、専門家の主張は、その専門領域ですら大きなブレを生じます。そこで、こうした専門家集団は、公共圏においてどのように理解されるべきなのか、盛山さんと大北さんのご意見を聞いてみたいと思いました。

盛山氏:
 今の問題、難しいですね。まず 1 つ言えることはですね、これまでの社会では、日本に限らないと思いますが、自然科学者の自然科学的な知見というのが、疑われない傾向が強すぎるという印象があります。今のコロナを見ると、今、花井さんが仰ったように専門家の認識がころころ変わってくる。例えば、マスクが効くか・効かないかみたいな話は、1 年前と全然違うわけです。自然科学者といえども、実はベースにしている知見は、それ自身が仮説だったり、絶対的なものではないことも沢山あるわけです。それを踏まえながら社会的な決定の中に持ってこなければならないのです。しかし、どうもその辺りが、良いバランスがうまく取りにくい、バランスが取れない。どうしたらいいか、私には結論があるわけではありません。しかし、少なくとも、そういうふうに間違い得るのだと考えておくことは、医療の問題に限らず、いろんな科学技術についてこれからますます重要になってくると思います。科学技術の社会的な適用という側面では、自然科学者は実は間違え得るのだということを前提に考えていくことが重要だと思います。

大北氏:
 花井さんの問いかけをちゃんと理解できているかどうか怪しいのですが、科学者集団と言われるところの科学的な判断ということ、例えば公衆衛生上の COVID-19 の判断についてというところですかね。

花井氏:
 市民社会、あるいは公共圏でみんなで話し合ってみんなで決めましょうというところに、専門家集団という存在がいた時に、どのくらい信じて良いのか、ある種ファクトの部分というか、事実については前提にならなければいけないし、どんな議論にも前提がなければ議論できません。ですが事実が前提のはずなのに、その事実自体が専門家によって異なるとなれば、市民としては混乱するし、勉強しなければわからないことって山ほどあるし、専門家は一番勉強しているところの中で、例えば核兵器を作るのは科学者で、使うのは政治家になるかもしれませんが、そういった古くて新しいテーマかもしれません。今の日本の医療とか、公衆衛生、もしくは医療政策をご覧になっていて、その辺がどういう関係になっているか、どのような印象として思っているのでしょうか。

大北氏:
 重大なテーマでもあるので、簡単にはまとめにくいのですが、先ほど盛山さんが指摘された通りとも思います。理想的な形とされているのは、科学= science がベースとなった判断が、専門家集団によってある程度となされて、それが基になって、なるべく広く公共的にその知見を共有した上で(議論がなされていく)。ただ科学は、あくまで事実としての科学的知見を提供するというだけで、例えば、こういうペースでいくと感染者が増えますよという予測値を出すだけなので、感染対策として、どういう対策の実践をするのかというと、やはりそこは事実と規範というのか、政治的な判断なり、経済の問題とかいろいろな諸要素をもって判断すると、その辺りを公共的な対話・熟議等で透明性をもって話をすることが理想的なモデルだと思います。そういうモデルが、今のところ広く共有されているのかなと理解しています。
 ただ、そもそもの科学に関しても、これは科学哲学でずっと言われたことだと思いますが、理論負荷性というのか、価値判断なりなんなりから全く自由な判断というのは、科学者コミュニティー内でも出せているのか・出し得るのかというのは難しいことだと思います。なので、そういった形でサイエンスをベースにして、それをもとにして話し合うっていうモデル自体が、実は無理なのかなというと怒られるかもしれませんが、もう少し価値判断的なものをどうしても前面に出した話し合いというのが、実は先立たざるを得ないのではないかという気もします。

花井氏:
 なんか順番が入れ替わるみたいなところがありますよね。僕らの関わっている、医薬品とかに近いので、基本的にはある医薬品の有効性は、統計学に依存した形で評価するのですが、評価したところで、その医薬品を欲する人は、例えば、がん患者さんは目の前にある生命の危険にかかわるものであれば、かなりのリスクがあっても欲しいと思うのです。薬害をなくすためには「安全性を確認しろ」と言うのですけど、安全性を確認するためには膨大な臨床試験が必要になると、いつまでたっても薬が承認されないということになります。そうすると社会の欲しさ加減で、そのしきい値が揺れ動くことになります。それがもう一つはよく言われるのは、メーカーが薬を売りたいという動機付けがあるから、良い結果(有効性や安全性など)を出すために研究費を支出する訳です。それは大きな期待を忖度(そんたく)して研究デザインが作られて、結果的にメーカーに有利なものだけが論文化されるという現状もある訳です。科学より先に価値が来た上で、科学されてるという部分があると思います。医療の世界では現に改ざんまで起こっています。改ざんしないにしても、そういう論文が多くでることがあって、いつも悩ましいと思います。盛山さんとしては、こういうことは経済的な圧力なのでしょうか。どのように理解したらいいですか?

盛山氏:
 それは医療の問題だけではなくて、すべての現象に関して、基本的には経済的な利害関係が世の中を動かしていくのは否めないと思います。他の観点から、これは経済的にペイしないけれども、非常に重要なことであるみたいなことは世の中いっぱいあるわけです。そういうことを発見した人は、それなりに声を上げて、それは経済的なものとは別の観点から公共的な政策の中に入れるというルート、それは実際に社会保障だとか、その他さまざまな側面であるわけですから、医療、特に製薬という面に関しても、当然そういうルートがうまく確立されるといいと思います。場合によっては、できているのかもしれませんけれど、どうしても実際、薬を作るのは製薬会社だという側面があるので、どうしても下部構造に規定されてしまうことが大きいのはやむを得ないかもしれません。そういったことを打ち破ることも、いわば理念的市民社会になる力というか、基盤になると思います。

花井氏:
 研究倫理的な部分ではいかがですか。

盛山氏:
 研究倫理までいってしまうと可哀想だと思います。研究者の中で出てくるとは限らないと思います。研究者の態度に期待するのではない形で考える方がいいでしょう。

花井氏:
 今、日本でも臨床研究法という法律が出来たのですが、かなり研究者に評判が悪くて見直しを開始しているようなのですが、あの法律はメーカーからお金をもらったら、特段厳しくすることになっています。大北さんとしては、臨床研究法の法律自体の評価ではなくて、日本において制度でどのようにうまくコントロールしていくのか、それとも、まだ難しいと見ているのか、どうですか?

大北氏:
 研究倫理といっても、研究倫理の成り立ち、レギュレーションの成り立ちって、過去に何かイベントがあってできてくるという経緯があると思います。特に臨床研究法はディオバン事件 1)を契機に出てきたわけですから、この問題を片付けようと思ってそれに重点を置いたレギュレーションにするとこうなってみたいな形で。しかし、研究はそれなりに多様な営みでもあるので、ある 1 つの事件にフォーカスを当ててモデルを作るとなると、のちに調整も必要になってくるだろうと思います。私も医学系の研究倫理に携わるようになって、まだ日が浅いので、まだまだ勉強が足りてないところがあります。けれども、ちょっと見てるだけでも(研究倫理のレギュレーションは)継ぎ接(は)
ぎで成り立ってきた、何か問題があって、問題化して成り立ってきたところがあって、不必要と思うようなレギュレーションもやはりあるし、そこまで厳密にしなくてもいいのではないかということもいっぱいあります。レギュレーション上は必要ないというような手続きも、やはり研究者としては置かれている状態がだんだん脆弱になってきているので、過度にレギュレーション以上に従順になろうとして首を絞めている、という印象もあります。
 難しいとは思いますが、本来どこを保護すべきだったのかとか、どこにリスクがあったのかという整理をし直した上で、最小限というのか、必要な規制を一遍見直してみることは、いつか必要なのだと思います。

1)ディオバン事件:高血圧治療薬ディオバンをめぐる 5 つの臨床研究論文の不正事件。製薬会社元社員が
論文作成に不正に関わり、薬事法違反で裁判となった。

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