「注意のはたらきと正義」
東北大学大学院医学系研究科 准教授 大北 全俊
はじめに
今、盛山さんの方からアカデミックに裏打ちされた体系的な話をされた後で、私の方では、花井さんからのシモーヌ・ヴェイユの話を聞きたいというオーダーにお応えしてお話させていただきます。私はシモーヌ・ヴェイユの研究者ではありませんが、シモーヌ・ヴェイユは、20 年位前に博士論文を書くときに大きく影響を受けた人物です。現在は東北大学の医学系研究科で医療倫理や生命倫理を中心に研究をしていますので、むしろ盛山さんが取りあげられたロールズであるとか、配分、あるいは分配的正義と呼ばれるような議論をベースにして、最近の COVID-19でいえば、人工呼吸器が足りない場合、どのように配分したらいいのか、あとは医療者のケアの義務はどこまであるのかという研究や教育に携わっています。
ヴェイユの話は、自分の思考のふるさとのようなところを掘り起こしながら、紹介していくことになります。私よりもシモーヌ・ヴェイユに詳しい方が視聴されているのではないかと思うので、「違うよ」と思うところがあれば、遠慮なくコメント等上げていただければ視聴されている全員の利益になるのではないかと思います。
「シモーヌ・ヴェイユの研究者ではない」と申しましたが、私自身が影響を受け、今でもどこか心のよりどころにしているところをお話ししていく内容になっています。どうしてシモーヌ・ヴェイユに影響を受けたのかという経緯を抜きにしては話しにくく、回り道にはなりますが、ナイチンゲールの話から入っていきたいと思います。
私は大学院生の時にナイチンゲールの『看護覚え書』という書籍をテーマにして博士論文を書きました。臨床哲学という研究室にいて、哲学というのは書籍だけでなく、実際の社会の現場に出向いて、そこで思考するという考えの研究室でした。論文を書くにあたり、当時1年ちょっとボランティアとして釜ヶ崎に出入りしていました。支援者たちを側で見ながら「支援とは何か?」を考えるうえで『看護覚え書』というのは非常におもしろい書籍だと思って、影響を受けて論文にまとめました。
『看護覚え書』の冒頭というのは、病気の定義から始まりますが、『すべての病気は、その経過のどの時期においても、程度の差こそあれ、回復過程 reparative process だ』と位置づけて、『病を癒すものというのは、医療者とか医療技術とか、そういうものではなくて自然だ』と考えます。この考え自体はナイチンゲールが特殊なわけではな
くて、19 世紀半ば以前の自然治癒という考え方で言うと主流を占めた発想ではあります。あくまで病というものは、発症したという段階というのはもうすでに自然によってなされる回復過程であって、医療者やナイチンゲールが展開する看護というのは、プラスでケアして、足して何とかしていくという発想よりも、自然が行う回復過程、自然の導き・自然の働きを見つけて、目を向けて、理解して、邪魔をしないようにするという発想がナイチンゲールの看護論・看護観だと思います。ナイチンゲールが主軸としているのは、いかに注意深い観察 (careful observation) ができるかどうかというところに、看護者や医療者の徳というか、アレティ(αρετή―ギリシャ語の『徳』という意味)が凝縮していると考えられ、シモーヌ・ヴェイユの思想のコンセプトやコアな部分と通じるものがあると私は考えています。
賛助会員登録をお願いします
賛助会員の申し込みはこちら