開催報告 | ネットワーク医療と人権 (MARS)

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リバティイベント
世界と自分を掴みに行こう ~雨宮処凛さんとの対話~

 

世界と自分がつながっていくプロセス

花井:
 こんにちは。本日は、「リバティしてる?プロジェクト実行委員会」と「特定非営利活動法人ネットワーク医療と人権」の共催によりますイベント、「世界と自分を掴みに行こう~雨宮処凛さんとの対話~」にご来場いただきまして、本当にありがとうございます。私は、総合的に司会進行を務めさせていただきます、花井十伍といいます。少しだけ私のことをお話しさせていただきますと、私は血友病患者だったことで、1980年代に血液製剤でHIVに感染しました。それ以降、いろいろな困難に立ち向かったりしているうちに、もう明日をも知れぬ命だと何度も言われつつ、今日まで長々と生きてきました。
 本日の出演者は、世代別で集まっていただきました。私は1962年生まれでいちばん年上ということになりますが、雨宮さんは、私とは一回り下の1970年代生まれです。さらに木脇さんは1990年代生まれ、中崎さんは1980年代後半の生まれ、崔大志さんは1980年代半ばの生まれということで、1960年代から1990年代まで、世代を越えて、お話をしていきたいと思います。
 ここ「リバティおおさか」は、橋下徹・大阪市長に疎まれていまして、補助金を打ち切って「もういらない」という話になっています。リバティおおさかには私どもHIV患者の資料をお預けしている経緯もあるので、「これはいかんな」と思ったのが、このイベントを企画したきっかけです。
 そして、もう一つ「これはいかんな」と思っていることがあります。今は「人権」という言葉を使っても、「何か特殊な人たちのものだ」ということになっていて、その割には日本国中、人権を踏みにじられた人間が溢れていて、そして人権を踏みにじる側の人が結構大きな顔をしているという状況があります。「人権」というものは、本来カジュアルなもの、つまり「自分の生活の中で当たり前のものだ」という概念が欧米ではよく見られるのですが、日本ではなかなか「人権活動をやっている人は特別な人」ということになってしまいがちです。ですので、今日は皆さん「特別な人」ではないということ、身近なこととして話を進めたいと思います。
 本日のメインゲストである雨宮処凛さんですが、私が紹介するまでもなく、もう大変多彩な活動をされております。作家ということで、非常にたくさん本も出しておられるし、書くだけではなくて、フィールドに出て行って、様々な社会的弱者の側に立ち、真っ当な、的を射た発言を歯切れ良くされている方です。今日は最後まで、いろいろ雨宮さんの話を聞きながら、みんなで考えを深めていきたいと思います。
 このイベントは「世界と自分を掴みに行こう」というテーマです。雨宮さんは「ビッグイシュー(注1)」で「世界の当事者になる」という連載をされていますが、先ほど触れた「人権」とは、まさに「みんなが当事者である」ということではないかと思います。ただ、一方で「誰もが簡単に世界の当事者になれるのか」ということもあります。先ほど紹介したように、例えば「エイズの患者だから」、もしくは「ハンセン病の元患者だから」といったことによって、そこから切り開かれていくことはあるかもしれませんが、普通に生活していると、なかなかそういうことは実感できないと思います。雨宮さんも、「今でこそ」と言ったら失礼ですが、華麗な活動を展開されています。

雨宮:
 華麗な・・・(笑)、地べたを這い回るような活動をしております。溝をさらうような(笑)。

花井:
 そんな中で、まさに「世界と自分とがつながっていく契機」というものがあったと思うのですが、その辺のお話を少し聞かせていただけますでしょうか。

雨宮:
 すごくいろいろなきっかけがあるのですが、一つ大きかったのは、北朝鮮が私の初の海外旅行だったのです。そして2回目はイラクという、悪の枢軸と呼ばれる国が海外旅行デビューだったのですが、それがすごく大きいです。40年ぐらい前に、よど号グループがハイジャックして北朝鮮に行って、私はそのよど号グループの子どもたちと同世代なのです。だんだん物騒な話になってきますが、それで元赤軍派議長の塩見孝也さんという人のイベントに行ったら、当時あの人は北朝鮮に若者を連れていくのが大好きだったので、いきなり「平壌に行かないか」と言われました。私は当時24歳だったのですが、断るのは怖いじゃないですか、赤軍派議長の誘いを(笑)。だからなんとなく断れなくて行ったのですが、そこで「日本とは全く違う価値観の国を“初”海外で見た」ということが、すごく大きなきっかけになりました。
 2回目のイラクは、右翼団体の「一水会」というところの木村三浩さんという人に「イラクに行かないか」と言われて、でも右翼の誘いを断るのは怖いじゃないですか(笑)。だからイラクに行って、そこで見たものは「劣化ウラン弾被害」でした。劣化ウラン弾は、原発とか核のゴミです。これは2011年の日本の原発事故ともつながるわけですが、私が初めてイラクに行ったのは1999年で、湾岸戦争から8年後です。湾岸戦争で初めて実戦に劣化ウラン弾が使われて、その当時のイラクではものすごく白血病やがんの子どもが増えていて・・・ということを、全く何の予備知識もなく、突然目の当たりにしたのです。
 私は、学生時代にいじめを受けていて、それから人間不信になってずっとリストカットをしていたので、「表の世界ではなかなか生きていけない」という自覚がすごくありました。「表の世界」の健康的な、「前向きに生きていれば良いことがある」みたいな、「そういう価値観の中では絶対に生きていけないな」と思っていました。それで右翼とか左翼とか、少し裏の方というか、あまり普通には生きられない人と積極的にかかわるようにしていたのが20代前半の頃です。
 そういう流れで、いきなり北朝鮮とかイラクに送り込まれたわけですが、まず強制的に「2つのとても厳しい状況にある国を見た」ということが、すごく自分の視点が変わった一つのきっかけです。それまでは社会問題とかには全然興味がなかったのですが、「自分はまだこんなに知らないことがある」、「自分が生きている日本とは違うところで、こんなことがあるんだ」ということにすごく気付いたきっかけでした。

花井:
 「表の世界では生きられない」ということから、「裏の世界」というか、マイナーな世界に行き、そのことによって意識が変わったと今おっしゃられましたが、他にもきっかけのようなものはあったのでしょうか。

雨宮:
 2005年にもう自殺してしまったのですが、見沢知廉さんという作家が、すごく私をある意味「作家」にした人です。彼は作家というか、右翼活動に打ち込んでいた人で、私が北朝鮮に旅行に行くきっかけにもなった人なのですが、彼との出会いはすごく大きかったです。

花井:
 その「裏の世界」に出会うまでは、いわゆる「表の世界」でリストカットをしていたとおっしゃっていましたが、何が生きづらかったのでしょうか。

雨宮:
 まず、いじめから始まりました。いじめを受けると、受けた本人は自己否定をしてしまい、すごく自信をなくすじゃないですか。その状態がずっと続いてしまって人間不信になり、「自分はどこにいてもダメなんだ」と思っていました。何かずっと「生きづらさをこじらせている状態」というか、もう自信がない。だから、学校でも家でも居場所がない。子どもの頃は、学校や家が世界の全てじゃないですか。そこで否定されてしまっては「もう生きていけない」というような状況に陥るので、そのままなかなか友達もできませんでした。10代の頃は「友達が全て」みたいなところがあるので、友達ができないとなかなか生きづらいじゃないですか。それで、「自分の近い将来に対して、明るいイメージが一切持てない」というか、「ずっと一生日陰でいじめられながら生きていくんだ」とか「いじめに怯えながら生きていくんだ」と思っていました。ですので、普通の生き方をしようとしたらすごく生きづらくて、なかなか人間関係も作れないという状況で、もう苦しくて苦しくて仕方がなかったです。
 何が苦しいのかは分からなかったのですが、ただそこで一つ、教育の問題というものについてすごく考えました。今もそうですが、当時もものすごく競争を煽られる時代でした。私が学生時代に言われたことは、「周りはみんな敵でライバルなんだから、自分が一つでも上に行くために、とにかく出し抜いて、裏切って、蹴落とせ」というような、要約すればそういうことばかりでした。でも、そういう競争社会とか、競争的な価値観の中では「信頼」はなかなか生まれません。あと、今も話題になっていますが、学校でもものすごく体罰が蔓延していましたし、とても管理的な教育で、「そういう中でいじめが蔓延するのは当然だろうな」というようなことは、20歳ぐらいの時からすごく考えるようになっていました。

花井:
 20歳ぐらいということは、ちょうど1995年ですね。

雨宮:
 そうですね。1月に阪神・淡路大震災があって、3月に地下鉄サリン事件があって、すごく「戦後日本の価値観が問い直された」というか、特にオウム事件なんかでは、「戦後日本の教育や価値観として、物質主義と拝金主義だとか、そういうものばかりを求めてきたことが間違っていたんじゃないか」というような議論が当時されていたのです。私自身、学校では「がんばれば報われる」という教育をずっと受けてきたのですが、当時はバブルも崩壊して、その「がんばれば報われる」と言われてきたことが全く通用しない世界が広がりつつありました。そんな中、私は18歳の時に高校卒業と同時に東京に出てきて、そのまま美大の予備校に行きましたが、浪人して、落ち続けて、あきらめてフリーターになったのです。当時は就職氷河期と言われていて、経済成長の右肩上がりが一気に下がり始めた時なので、「今までの日本の価値観とか、今まで自分が教育で言われてきたことが全く通用しない社会が今、到来しつつあるのだな」ということは感じていました。

(注1)ホームレスの社会復帰に貢献することを目指すストリート新聞のこと。

自分は生きていてもいいんだ

花井:
 ちょうど今のお話は雨宮さんが高校生の頃ということなので、1990年代初頭、バブルが終わったあたりの話です。木脇さんは今日の出演者の中で、唯一の1990年代生まれです。今日のイベントのチラシにも書いてありますが、「高校を辞めてしまった」ということで、雨宮さんからは「高校で競争社会を叩き込まれた」というお話がありましたが、木脇さんの高校時代はどうだったのか、自己紹介も含めてお話しいただけますか。

木脇:
 初めまして、木脇嶺といいます。僕は今、大阪教育大学の学生をしています。大学は夜間部で、昼間は箕面の北芝という被差別部落の地域でまちづくりをしているNPO法人で働かせてもらっています。よろしくお願いします。先ほども少し話に出ましたが、僕は高校を中退していまして、その辺の話をその北芝のセミナーで少し話をした時に、今日この企画をしている方がたまたまそのチラシを見てくださっていて、「生きづらさを抱える若者として話をしてください」と言われて、「自分はそんなんだったっけ」と思いながら(笑)、流れ流れてここにおります。今日は、少し自分の話を突っ込んでさせてもらえたらなと思っています。
 僕が自分の話をする時に、絶対に切っても切れないのが母親です。僕の母親は、実はジェンダーの専門家で大学の教員なのです。僕のいちばん古い記憶は、保育所で先生に、「男の子の色は青色で、女の子の色はピンクだ」というふうに習って、それを家で母親に言ったら、「何を根拠にそんなことを言っているんだ」とすごく怒られたことです。

雨宮:
 ちょっと面倒臭い家庭ですね(笑)。

木脇:
 面倒臭いです(笑)。そんな家で育ちました。

花井:
 お母様はフェミニストなんですか?

木脇:
 そうですね。そんなに激しいフェミニストでもないと思っているのですが、フェミニストには当たるのだろうなという感じです。小さい頃は、学校の先生だったり親だったりとかは「絶対」というか、つまり「自分の『正しい』を作ってくれる人」と思うのですが、僕はわりと早い段階で、「大人が全部正しいことを言うわけではない」と、もう小学校に入る前から思っていました。そんな家庭に育ったからか、僕も小さい頃から、いわゆる男の子の好きな「仮面ライダー」とか「ウルトラマン」とかが好きだったことがなくて、「機関車トーマス」とか平和な感じのものが好きだったりとか、「セーラームーン」を見ていたりとか、そんな感じの子どもでした。
 中学校では部活とかもやって、僕は男子バスケットボール部だったのですが、「女に負けるな」みたいなことも結構言われたりして、すごく苦しかったです。学校でも、やはり何でも男女別だったりとかで、いわゆる思春期の時には「ジェンダーなんて知らなければよかったな」と強く思っていました。そんな時に、母親に「実は小さい頃に、嶺が『リカちゃん人形を買ってほしい』と言ったことがあった。だけど、私はその時買ってあげなかった。ごめんな」ということを中学生の時に言われて、「そんなこと知らんやん」と思ったのですが(笑)、そんなこともありました。そんな感じで幼いころからジェンダーとかかわっていて、今ではそれが「当たり前を疑う眼差し」というか、そういうものにつながっていると強く思っています。
 高校生になって、それなりに優等生というか、それなりに勉強もして、友達もいて、幸いいじめとかを受けることもなくきたのですが、高校2年生の時に学校を中退しました。きっかけは、家族で少し大きなケンカがあって、それから眠れなくなって、だんだんと学校に行けなくなって・・・みたいなことでした。今思い返しても、交通事故みたいな、本当に「たまたま起こった」というようなことだったのです。それから17歳の時には、一時期は家から全然出られなくなって、もうひたすらネットで麻雀をしたりだとか、アニメを見たりとかというようなことを、パソコンの前でタバコを吸いながらやっていました。
 そんな17歳だったのですが、それから学校を辞めて、本当にいろいろな人の助けの中で元気になっていきました。元気になったきっかけとして大きかったこととしては、児童館(注2)が近くにあったのですが、そこの人の勧めで、「デイサービスにボランティアに行かないか」みたいなことを言われて行った時に、あるお爺さんと出会ったことでした。その人はすごく麻雀が好きなお爺さんで、好きというか、ルールも全然分かっていなくてめちゃくちゃする人なのですが、僕と一緒にやった時に、何かすごくうれしそうにしてくれていて、「自分でもまだ人を少しでも笑顔にできるようなことがあるんだな」というような、「自分は生きていてもいいんだ」みたいなことを感じさせてもらえました。それが僕の中ではすごく大きな経験でした。

花井:
 「高校を辞めた」というお話がありましたが、「辞める」という選択肢、なかなかそこに踏み出せなくて、いじめられていたりしても、「学校を辞めたら、もう何かから脱落することになる」ということで、そこに踏み止まって結局潰れるというケースも多いと思います。ですので、ある意味「辞められた」ということは幸せにも見えます。辞めるきっかけというか、辞めることにお母様が賛成したとか、そういう経緯はどうだったのですか?

木脇:
 僕も、もう高校生ぐらいの頃から教育にわりと興味があって、「学校だけが勉強の場ではない」ということは強く思っていたのですが、でも「自分が高校を辞める」ということも全然思っていなかったので、やはりその時はすごく苦しい決断でした。でも、周りにそんなに反対されることもなく、たまたま担任の先生がすごく良い方で、「その先生だったからこそ学校を辞められた」みたいな部分もあったりして、「あの時、学校を辞められなかったら・・・」と思う方が、自分にとっては怖いです。

(注2)児童福祉法第40条に規程されている児童厚生施設の一つで、児童(児童福祉法上0歳~18歳未満の子ども)に健全な遊びを与え、その健康を増進し、または情操を豊かにすることを目的として設置される屋内型児童厚生施設のこと。

女性としても、男性としても認められたい

花井:
 次に、中崎なるみさんのお話に移りたいと思います。中崎さんはレズビアンということで、自分のアイデンティティが形成されるまでにはいろいろなエピソードがあったと思います。そういうことも含めて、いちばん最初に申しあげたような「世界とつながっていくプロセス」みたいなところから何かお話しできることがあればそれも含めて、自己紹介がてらお願いできますでしょうか。

中崎:
 皆さん初めまして、私は女の子と女の子の恋愛を元気づけるフリーマガジンを作っています。これはレズビアンの雑誌になっています。私自身が同性愛者なのですが、この中で同性愛者に会ったことがある人は、もしよろしかったら手を挙げてくれませんか?(会場、多くの人が手を挙げる)皆さん、結構お会いしたことがあるんですね。

花井:
 非常にジェンダーフリーな会場ですね(笑)。

中崎:
 いいですね、うれしいです。私は今24歳で、社会人です。同性愛者なのですが、同性愛とか性自認とかは結構いろいろ複雑なところがありまして、私はいつも「大の女好きです」という話を皆さんに自己紹介でさせてもらっています。今日は、同性愛者の視点から「生きづらさ」について、少しお話しできたらなと思います。よろしくお願いします。
 では、まず性同一性障害と同性愛について、簡単に説明させてもらいます。性同一性障害とは、心と体にギャップを感じる人のことをいいます。例えば、体が女性で心が男性の場合、すごく心と体にギャップがあって、そのギャップを埋めるためにどうするかというと、体の手術をしたりとか、服装を自分の心に近づけたりします。同性愛者とすごく勘違いされてしまうところは、恋愛対象にあります。同性愛の場合、つまり私の場合ですが、女性なら恋愛対象は女性です。しかし、性同一性障害の場合、恋愛対象はまた違うのです。「変わる」というか、「心と体にギャップがある」というだけで、「恋愛対象が誰になるか」ということは分からないのです。そういう違いがあります。
 次に、私の性自認について、お話をさせてもらいます。最初に「私は女だ」と言いましたが、実は少し複雑なのです。私の体にはおっぱいがあって、下には何もついていなくて、周りから見たら「ナイスバディな女性だな」と皆さん思っていると思います(笑)。ですので、体は女性だと受け入れています。心なのですが、私は24年間、女として育てられました。でも、小さい頃はすごく男の子っぽい格好とかをしていて、よく「可愛い男の子だね」とか「ボクちゃん、飴ちゃんあげるよ」みたいな感じで可愛がられたのですが、それを聞いた親がすごく慌てるのです。「いや、この子は女の子ですから」と言って、一生懸命弁解するのです。それを見ていたら、「自分が男の子として間違われるのは、すごく恥ずかしいことなんだ」と思うようになりました。そういったことから「親に申し訳ないな」という気持ちもあったのですが、自分はやはり小さい頃は男の子だと思っていた、もしくは男の子として生きたかったのです。ですので、男の子の友達がその辺で立ちションをしている時に、「自分もできるし」みたいな感じで一緒に立ちションをして、親におもいっきり引っ叩かれたこともありました。そうやって小さい頃は男の子として生きていけても、小学校高学年になったりとか、中学生になったりすると、胸が膨らんできて、生理が来て、そういう時に、「お前は女だぞ」と周りからではなくて自分自身から言われたような感じで、すごく絶望的になりました。中学校に入ると制服でスカートを着させられて、私は制服も嫌いではなかったのですが、やはり学ランも着てみたかったし、いわゆる「強制的に与えられたもの」の中で生きていくようになりました。制服を着てスカートを履くようになると、やはり親がすごく喜ぶのです。「なるみ~、可愛らしいわね~。スカート似合ってるわね~」と言われて、私は全然似合っていなかったと思うのですが(笑)、そういった中で、私は高校生の時に「自分は女として生きないといけないんだ」、もしくは「女として生きる方が楽なんだな」ということを受け入れるようになりました。
 今、社会的に「男性として見られたいのか、女性として見られたいのか」と言われた時に、私は「女性としても認められたいし、男性としても認められたい」と思っています。例えば、すごく可愛らしい格好やセクシーな格好をして街中を歩いている時に、「ちょっとお茶しない?」などと言ってナンパをしてくる人がいたら、私は「私なんかでいいの?」みたいな、「うれしい」という気持ちになります。かと言って、すごくボーイッシュな格好をしてスポーツとかをしている時に、女の子から「カッコいい」、「キャー、素敵」などと言われたとしても、それはそれでうれしいのです。就活の時は、私はスーツとかには抵抗がないので、普通のパンツスーツで就活していたのですが、「面接はスカートの方が受かりやすいよ」と言われたら、「じゃあ、受かるんだったらスカートでも谷間でも見せるわ」という感じで(笑)、スカートを着たりもしていました。しかし、私は大学時代に茶道を習っていたのですが、茶道は男性と女性とでは振る舞いが違うのです。座り方の作法でも、女性はやはり足を閉じて正座をして、美しく見える仕草というものをします。男性の場合は、正座をした時の手の置き方が全然違っていて、「女性の場合は手を組んで膝に置く、男性の場合はカチッと組んで脇に収める」みたいな感じだったのですが、私は男性の作法にすごく憧れて、「私はそっちがしたいのに、なぜ強制させられるのだろう」と思っていました。授業の時も、女性はスカート着用が義務でした。スカートを履くことに抵抗はなかったのですが、「あなたは女性だから、こうしなさい」というふうに義務付けられることがすごく嫌でした。あと、旅館の浴衣でも、男性と女性で着方が違います。女性の場合は、ウェストで帯を締めます。男性の場合は、腰で帯を締めます。その時にも、私はやはりボーイッシュな格好が好きなので、「男性みたいな着方がしたいな」と思っていました。ですので、社会的には、そういう面では「男性にも扱われたい、女性にも扱われたい」と思います。
 恋愛対象ですが、私の恋愛対象は、先ほど言ったように女の子です。それもすごく女の子らしい女の子が好きです(笑)。自分がレズビアンだと気付いたのが、「気付いた」というか、薄々その気は小さい頃からありました。女の子を見て「ドキドキするな」とかはあったのですが、改めて自分がレズで、それを「受け入れよう」と思ったのが高校3年生の時です。その時にインターネットとかでいろいろ調べて、改めて「自分はレズだ」ということを思い知らされました。大学1年生になってから初めて女の子とお付き合いをしたのですが、その前までは男性とお付き合いをしていました。「男性が好きだったかどうか」は今では分からないのですが、周りが異性愛主義というか、それが当たり前だったので、それに流されて、「私も恋愛しないとやばい」、「仲間に入れないのではないか」と思って、「○○君が好きなんだけど」とか、ウソの恋愛話から始まって、話しているうちに「本当にこの人のことが好きかも」となってお付き合いをしたりとかはしていました。でも、やはり男性との体の関係を持った時は、すごく嫌でした。気分が悪くなったというか、やはり受け入れられない自分がいて、その代わり、女性の身体にはすごく魅力を感じるのです。「おっぱい触ってみたいわ」とか、そういうことはいろいろ思います。自分が「レズビアンなんです」とカミングアウトをすると、男性からよく言われることがあります。「男のことをよく分かっていないんじゃないか」とか、「良い経験をしてないからだよ」、「俺が治してあげるよ」みたいなことを言うのです。同性愛は病気ではないので、「治る」「治らない」という問題ではないのですが、そういう人が多くて、そういう人に対しては、私は「じゃあ、あなたは男の人と一緒にセックスできますか?」と聞くようにしています。そうすると、そういう男の人は、たいてい「男同士なんて気持ち悪い」などと言うのですが、その「気持ち悪い」という感覚は、私が男性と体の関係を持つにあたって思う「気持ち悪い」と同じ感覚なのです。そう言うと、皆さんは「あぁ、なるほどな」と納得してくれたりとかもします。そんな感じです。

花井:
 極めて理路整然とお話しされていたように思うのですが、つまり「今の社会の状況だと、主流はこれで、これはマイノリティ」ということを全部知り尽くせば、自分の世界の領域を言わば対象化できるので、それを踏まえて上手く説明したり、コミュニケートしたりすることができるということだと思います。今の中崎さんのお話を聞いていると、そんなに苦しむことなく自覚的になっていったという印象で、もうそういうことができている感じがするのですが、やはり最初からできたわけではないですよね。「男性と付き合って嫌だった」というお話がありましたが、自分がレズビアンだと自覚していく中で、大きなつまづきはなかったのですか?

中崎:
 ありました。高校3年生で「自分はレズビアンだ」と気付いた時には、まずショックを受けて絶望的になりました。中学生の頃から「28歳で結婚して、子どもを持って、素晴らしい家庭を築く」というような夢もあったので、それに気付いた時に、「自分は男性と結婚できないんだ」、「家庭も持てないんだ」、「将来はどうする?」、「一生自分一人かな」ということを考えましたし、やはり同性愛というものは「ものすごくいけないことだ」と思っていました。これは社会に反することで、もし自分が同性愛だと周りにバレた場合、もうたくさんの嫌がらせやいじめとかを受けて、あり得ないようなレッテルを貼られて、「自分はもう生きていけない世界になるんじゃないか」と思っていました。そんな中で、その時にまず親にカミングアウトをしたのです。そうしたら、親にパーンと引っ叩かれました。その時は、親にも理解されなかったし、「やっぱりこれはすごくいけないことなんだ」と思って、自殺とかも考えていました。

花井:
 そういう苦しんだ時期もありながら、今の中崎さんの世界観は非常にバランスが良く聞こえます。そうなった最大の契機は何ですか? 雨宮さんにもその契機があって、木脇さんにも高校を辞めた後の麻雀をやるお爺さんとの出会いによって「自分はこれでいいんだ」と思えるようになったということだったのですが、中崎さんにもそれはありますよね。

中崎:
 やはり同性愛などの仲間が集う場所があったことが大きかったです。最初の入り口は、レズビアンのバーだったりとか、レズビアンのイベントでした。そういったところで友達が増えたりだとか、お付き合いをする人ができて、また「LGBT(注3)」の活動をしている方とかにも会うようになって、それから自分をポジティブに肯定できるようになりました。

(注3)女性同性愛者(レズビアン、Lesbian)、男性同性愛者(ゲイ、Gay)、両性愛者(バイセクシュアル、Bisexuality)、性転換者・異性装同性愛者など( トランスジェンダー、Transgender)の人々をまとめて呼称する頭字語。

一人ひとり、それぞれの違い

花井:
 次は、崔大志さんにお話をお願いしたいと思います。今日の出演者の中では、わりと順風満帆にこられたと思うのですが(笑)、しかしお名前について、今日は「崔大志さん」とお呼びしていますが、普段はずっと「吉原大志さん」と呼ばれて生きてこられました。そういったことも含めて、ご自身のアイデンティティについて、少しお話いただいてよろしいでしょうか。

崔:
 どうも皆さん、アニョハセヨ(笑)。崔大志といいます。今日のイベントのチラシには「崔大志」と書いてありますが、私は普段は「吉原大志」という形で、日本名を名乗っています。チラシには名前が並列されているし、花井さんとのメールのやり取りでも、昨日の実行委員会の方との電話でも、「当日はどちらの名前でお呼びしたらいいですか?」というような形で、いろいろと混乱を招いたかもしれません。
 私は、1984年に神戸市で生まれました。今年で29歳になるのですが、これまで民族名を名乗ったことがなくて、ずっと日本名を、日本式の名前を名乗ってきました。「崔大志」という民族としての名前を初めて名乗る場がここなのですが、なぜ2つの名前を名乗っていて、なぜ今日初めてここで「崔大志」という名前を名乗っているのかということも含めて、順風満帆の人生をお話したいと思います(笑)。
 私は一般的に言うところの在日朝鮮人3世なのですが、父方の祖父母は慶尚道というところからやってきました。韓国で言えば「保守勢力の地盤」みたいなところですが、そこから戦前に日本にやってきました。山口県の方に来たそうです。母方の祖父母は大阪の生野なのですが、こちらも済州島から戦前に日本にやってきたと聞いています。父と母は神戸で知り合って、そのまま神戸に今もずっと住んでいます。
 自分自身が在日朝鮮人3世ということに対する理解はこれまでもしてきているのですが、どういう過程でそういう理解を持っていったのかというところを少しお話します。ぼんやりとしか覚えていないのですが、小学生ぐらいの時に、姉から「うちは韓国人なんだって」というふうに言われたことがあります。どういう文脈で言われたのかは、今となっては全く覚えていないのですが、その時に私は「意味の分からないことを言うな」という形で、何か混乱をしてしまって、なぜか「姉とケンカをした」というようなことだけは覚えています。「姉はどうやってそれを知って、なぜ私にそれを伝えたのか」ということは、今はもう全然分からないのですが、その時はただ混乱して、姉の話を聞いていました。そしてその後、日常の生活の中で、「そうか、うちは在日なのか」ということを知っていくようになりました。学校の歴史の授業とか、そういうところで勉強したということもあるのですが、親戚の家とかに行って、近所のおばちゃんとかが遊びに来た時に、日本語とハングルが混じったような形で話す人がたくさんいたのです。よく覚えているのが、金日成が死んで、その話を親戚同士がしている時に、その知り合いのおばちゃんとかが、「向こうにいる家族が心配で仕方がない」みたいな話をしたりしていました。あと、最も「自分は在日なんだな」と思わされるのが、法事の時です。リバティおおさかにも、在日の法事についての展示が丁寧にされてあります。在日は、法事のことを「チェサ」と言います。「祭祀」と書いて「チェサ」と読むのですが、年に何回もやります。大晦日から正月とか、お盆とか、親族の命日とかに何度もチェサをやるのですが、日本の法事のように、「お坊さんを呼んで念仏をあげてもらう」というような形ではなくて、「自分たちの家に大きなテーブルを置いて、お供えをして、お辞儀をする」というような形なのです。そういうことを何年間もずっと繰り返し繰り返しやっていきますので、どの辺りで「自分は在日なんだ」ということを自覚したかというよりも、そういう過程でなんとなく「そうか、自分は在日なんだな」ということを知って、理解していったような形になります。
 「在日である」ということは自分で分かってはいたのですが、そこまでアイデンティティとして持っていたわけではなくて、特にそういった自覚もせずに、小・中・高とずっと過ごしてきました。両親の間では「民族学校に行かせるかどうか」という話をしたこともあったそうなのですが、それは両親ともに「やめておこう」という話になったそうです。ですので、普通に小・中・高と日本の学校に通っています。これは全然在日云々とは関係ありませんが、中学時代から音楽を聞き出します。パンクミュージックとかを聞き出すようになって、そういう音楽雑誌を買うようになるのですが、ある雑誌で金城一紀さんの「GO」という小説が紹介されていました。窪塚洋介が主演で映画化もされているので、皆さんもご存じの方が多いと思いますが、「こんな在日の小説があるんだ」という形で、高校時代にそれを読んだ記憶があります。私はあまり好きではないのですが、なんとなく「カッコいい小説」なのです。「とことん差別されて、苦難の歴史を歩んできた在日像」というよりも、むしろ「差別する奴がいたら、知識で勝ち、そしてケンカにも勝つ」という形で、「GO」の主人公は「とても強い」という形で描かれています。唯一挫折するのが、「日本人の彼女ができた時に、在日というルーツを否定される」というシーンで、そういう描写も確かあったと思うのですが、「すごくカッコいい小説だな」と思いながら、なんとなくパラパラ見ていたということがありました。また、2002年に行われたサッカーの日韓ワールドカップでは、私の住んでいる神戸も会場の一つになっていたこともあって、その頃が日常的に韓国とのつながりを意識し始めた時期ではあったかなと思います。
 自分が在日であるということは、周りの友達とかには別に隠しているつもりもなく、かといって開けっ広げに「自分は在日です」と伝えるわけでもなくて、長い友達とかには「うちは在日で」という話はするのですが、それを聞いて嫌がる友達は幸い全然いなくて、直接的な差別体験はありませんでした。でも一方で、周囲に在日や韓国、北朝鮮に対して嫌悪感を示していた人たちもいたのは事実です。例えば、先ほど言ったワールドカップの時に、前の日にあったサッカーの試合の結果についてクラスで友達としゃべっている時とかに、あの時は確か韓国の方が日本よりも結構良い成績を残したと思うのですが、韓国が良い成績を残すことに対して、「すごくムカつく」というようなことを言っている人たちはやはりたくさんいました。もちろんうなづきはしませんでしたが、私自身はそういうことを聞いても「普通の対応をしていた」というか、高校生活においては、「自分が在日である」ということはほとんど自覚せずに過ごしていました。1995年は阪神・淡路大震災があり、サリン事件があり・・・という、まさに「日本社会の基礎が崩れていった時期だ」というふうに先ほど雨宮さんもおっしゃっていました。皆さんはどうか分からないですが、私はまだその時期は物心がついていないというか、自分のマイノリティ性については無自覚に過ごしていた部分があるので、私はその2000年前後という時期は、むしろ何か21世紀に向けた昂揚感みたいなものがあったような記憶がなんとなくあります。
 自分のマイノリティ性を自覚する、一つ何か自分の中できっかけがあるとすれば、「強いて言えば」という形にはなりますが、「国籍を変えよう」ということを親が言い出したことです。2002年ぐらい、たぶんワールドカップがあったぐらいの時期だと記憶しているのですが、そのことについて、うちの家でたぶんこれまでで唯一開かれた家族会議を4人でしたことがありました。それまではうちは韓国籍だったのですが、父親と母親は、私たちの就職のことであるとか、選挙にも行った方がいいし・・・ということで「日本籍に変えよう」と決めたらしく、私と姉の意見を聞いてきました。姉はむしろ今も在日であることをひた隠しにしたいような態度なので、進んで「日本の国籍がほしい」と言っていたように覚えているのですが、私はなんとなく「別にそこまでしなくてもいいんじゃないか」というふうに答えました。それは別に「在日としてのアイデンティティがあるから」とかということよりも、「国籍を変えたところで何になるのだろうか」という疑問が自分の中にあったからです。「なぜ、今この時期にわざわざ日本籍に変えなければならないのか」、「私自身はこれまで韓国籍だったけども、別に差別も受けてこなければ、普通に学校にだって通えているじゃないか」ということで、その時にはなんとなく「別に在日のままでもいいのではないか」というような意見を述べたことは覚えています。親としては「そうか」と言いながらも、結局そのまま帰化申請の手続きを進めていくわけなのですが、2003年に確かその帰化申請は下りたと思います。私は2003年に大学に入学したのですが、入学直後ぐらいに帰化申請の許可の通知が来て、どういう経緯だったかは覚えていないのですが、大学の事務に「国籍を変更しました」というような届出をしたという記憶があります。なぜそれを出さなければいけなかったのかはよく分からないのですが、そういう形で、私は大学に入ると同時に日本国籍を取得して、大学生活を続けていました。大学では、私は文学部の歴史学をやっていて、今も大学とかに出入りしながら日本の近現代史の研究を続けています。在日の知り合いとかに「歴史のことを大学でずっと勉強しています」というふうに言ったら、「在日の歴史をやっているのですか」とたまに聞かれることがあるのですが、在日とは全く関係のない、普通の神戸の歴史をずっと調べています。ですので、大学生活でも、在日としてのアイデンティティを強く持っていたわけではありません。ただ、どうしても歴史学をやるので、例えば「従軍慰安婦論争を巡っての歴史認識の問題」とかを勉強することがあります。もちろんそういう問題も深く勉強していくわけなのですが、その時も別に「在日としての立ち位置」からその問題に向き合っていたわけではないと思っています。
 今日も来てくれているのですが、大学の後輩がいまして、去年か一昨年ぐらいに、彼が「一緒に勉強会に行きませんか?」と誘ってくれました。それで連れて行ってもらった先が、在日コリアン青年連合というところでした。略称で「KEY」というのですが、そこでは、だいたい月に1回ぐらい、歴史人権講座という、いわゆる勉強会をやっていたり、あとは毎週ハングル講座もやっていて、そこで韓国語を学んだりすることができます。私が初めて行った時がその歴史人権講座の日で、ちょうど従軍慰安婦のことがテーマになっていました。講師を務めていたのは、たぶん中崎さんや木脇さんと同じ年ぐらいの女の子だったのですが、「私は全然歴史のことが分からないんです」と言いながらも、すごく一生懸命調べていて、そして一生懸命その調べた内容を発表していて、それでまず私は結構ビックリしながら聞いていました。それからKEYのハングル講座や歴史人権講座に出入りしていく中で、一つ驚いたというか、すごく衝撃を受けたことがあります。私は今までそういう在日の集まる場所は、やはり在日としての共通性を確認する場所というか、「私もあなたも在日だよね」とか「私はこんな差別体験を持っている」、あるいは「社会にはこういう現状がある」というような、そういう「在日としてのネガティブな面を共通項として結びついていく場」だと思っていました。しかし、実際に入ってみてビックリしたのは、それが真逆で、みんな同じ在日ではあるのですが、みんながバラバラで全然違うのです。KEYは主に10代から30代ぐらいまでの、いわゆる「青年連合」ということでやっているので、「同世代」という部分があるのですが、例えば従軍慰安婦論争を一つ取ってみても、男性と女性とでは微妙にその問題への向き合い方がやはり異なっていますし、あるいは「日頃、自分がどんな仕事をやっているか」ということに関しても、いろいろな問題に対して、みんな異なった意見を持っています。「在日」と一言で言っても、私の場合は両親ともに在日で今は日本籍ですが、韓国籍の人ももちろんいます。また、韓国籍を持っている人と日本籍を持っている人との間のハーフの人もいます。あるいはクォーターの人ももちろんいるわけで、同じ在日でも、国籍も違えば自らのルーツの持ち方も全然違います。また、差別体験をすごく持っている人もいれば、全然持っていない私のような人間もいます。そういう形で、在日として共通項を持っているはずなのですが、一人ひとり全然違います。そのKEYという場所に集っている同世代の仲間たちが、性であったり仕事であったり国籍であったり出身であったり、「いろいろな属性を持っている」ということを改めて知ったわけです。そういうふうに考えると、私自身にとって在日というのは、「いろいろな人に出会える一つの窓口というか、回路みたいなものだったのかな」と今では思っています。今日は「崔大志」という名前で出させてもらっているのですが、初めてKEYに行った時にいちばんビックリしたのは、「どうも、吉原です」と挨拶すると、「ここでは民族名を名乗ってください」と言われて、「大志」は「テジ」と読むので、「テジ、テジ」とみんなが呼んでくれるのです。民族名で呼ばれることは最初はすごく恥ずかしかったのですが、でもその民族名で呼ばれることで改めて、これまで意識しなかったような性の違い、仕事の違い、国籍の違いという、「同じ在日だけれど、そのそれぞれ違いが見える」場所に出会わせてくれたと思っています。だから、今日も皆さん一人ひとりに、「どういう違いがあるのか」というか、これまで考えなかったことを皆さんとお話できることを楽しみにさせてもらっています。

花井:
 崔大志さんのお話を聞いていると、これまでのお話とは違って、むしろ「自分の中の多様性がポジティブな形でやってきた」という印象をすごく受けました。「多様性が故に少しぶつかった」というお話がこういうイベントではありがちなので、非常に感慨深いお話だったと思います。

まともな命の使い道

花井:
 ここまでは、だいたい皆さんの個人的なところのお話をしていただきました。今の崔大志さんのように「自分のマイノリティ性によって幸福に出会えた人」と、それから「若干ネガティブなんだけど、そこから抜けて、生きる術を獲得した人」がいるということが、ここまでのお話の印象だと思います。しかし、今はそういう生きる術を獲得できない人がたくさんいるということが雨宮さんの著作等でも見受けられます。その大きな違いは何なのでしょうか。「何らかのテーマを持って生きている人」だから生きる術を獲得できたのか、「単なる労働者」だから生きる術を獲得できないのか、そういうことはあるのでしょうか。

雨宮:
 私自身は、「いじめ」というものが、自分の生きづらさの、今の仕事につながる全部の原体験なのです。すごくマイナスの経験なのですが、たぶんそこから離れられないので、ある意味「自分の視点が弱い人、社会的弱者と呼ばれる人の立場に常に固定されている」というか、そこから揺らぐことはありません。それは、いじめもそうだし、その後ずっとリストカットとかもして、自分が生きづらい当事者としてずっと生きてきたからであり、今、プレカリアートの、格差や貧困、不安定労働の問題にかかわっているのは、自分自身が19歳から24歳までフリーターで、その時にいろいろ酷い目に遭ったという、個人的な私怨みたいなものもあります(笑)。
 1990年代の、まだ若者の貧困なんかが話題になっていない頃に、私自身がまさにフリーターの貧困当事者で、今すごく「在特会(在日特権を許さない市民の会)」などの排外主義的な団体がいろいろデモとかをやって話題になっていますが、そういう右翼団体にも2年間入っていました。「がんばれば報われる」という戦後日本の信用が崩れた果てに、「どう生きていけばいいのか分からないから、社会や政治に対して本気で考えなければいけない」と思った時にうっかり右翼に入りました。その頃でも「右翼や左翼の人は、世の中に文句を言っている人だ」という知識ぐらいは漠然とあったのですが、最初に左翼の集会に行ったら、言っていることが専門用語ばかりで難しくて全然意味が分からなくて、それで右翼の集会に行ったら、言っていることがすごく分かりやすかったのであっさり入ってしまいました。「アメリカと戦後民主主義が悪いんだ」と言われて、初めて「お前は悪くない」と言われたのです。私はこれを「右翼療法」と言っているのですが(笑)、リストカットがもう一気に治ったのです。リストカットは治るし、生きづらさも治るし、そしてある意味で役割も与えられます。フリーターとしての私は「使い捨て労働力」で、常に役割はありません。いつでも使い捨てにできるから、必要とされていないわけです。そんな中で、初めて必要とされて、初めて「お前は悪くない」と言ってくれたのが、右翼だったわけです。ちょうど私が右翼団体に入った翌年に小林よしのりの「戦争論」が出てベストセラーになったりだとか、1999年に周辺事態法(注4)とか国旗国歌法(注5)が出てきたりだとか、なんとなくその辺の空気が、自分が右翼団体に入ったこととかと、とても関係があると思っています。
 2000年代に入ってからは、不況によってすごく不安定雇用になって、寄る辺なき人たちが増えて、雇用問題とナショナリズムみたいなものが出てきます。私自身も北海道から上京して一人暮らしをしているフリーターなので、家族もいないし、地域社会もありません。フリーターだから、会社とか属している組織がないわけです。だから、一気に国家にいけてしまうのです。私は1997年から1999年まで右翼団体にいたのですが、まさに2000年代になって、それがもっとたくさんの人に広まるというか、もっとたくさんの人が不安定労働者になって、いきなり国家にいってしまうような「浮遊した個」というか、そういう問題が出てきたように思います。今の私は、「自分で考えてテーマと出会った」というよりは、「自分がぶち当たった壁に対して、自分がどう生きていくか」ということを考えた結果です。しかし、その当時は全く整理ができていなくて、ただただ苦しいだけでした。「なぜ私は右翼に入ってまで・・・」とか、「右翼に入らないとリストカットは治らないのか」とか、そういうことももちろん苦しかったのですが、でも1999年頃に国旗国歌法とかで日本自体が右に行くような流れの中で、「自分は全然右翼向きではないな」と思って辞めました。ですので、「自分がどう生きていけばいいのか分からなくて、右往左往していたら職業に結び付いた」という、よく分からない経緯です。「右翼団体に入ったり、イラクとか北朝鮮に行ったりしたことが、私にとっての就活だったのかな」という感じです(笑)。そんな就活、絶対人には勧めないですけどね。皆さん、真似をしてはいけませんよ。たぶんどこかで死ぬと思うので。

花井:
 1987年か1988年に京都大学の学園祭に行ったら、同じ閉塞感がありました。その時に、ちょうど塩見孝也さんが出ていて、あと麻原(彰晃、本名:松本智津夫・死刑囚)さんが来ていて、それから一水会の鈴木(邦男)さんも来ていました。「京大の学園祭はすごいな」と思いました。

雨宮:
 とんでもない猛獣のような大物ばかり・・・動物園みたいですね(笑)。

花井:
 やはり麻原さんを選んだのは失敗だと思うのですが、塩見さんは当たりだったのかなと思います。今思えば、鈴木さんがいちばん当たりだったのかなとも思いますが、同じ学園祭でこれだけのイベントが重なっているのです。だから、やはり結構当時の京大生も悩んでいたんですね。

雨宮:
 右翼の大物、左翼の大物、宗教の大物と、これだけの人を呼んでいるということは、それだけいろいろ悩んだり迷ったりしていて、世の中的にはバブルで浮かれて、豊かで、「みんな幸せ」みたいな方向に行っているのに、彼らは「これからどうなるんだ」という不安に苛まれていたということでしょうね。

花井:
 だからあの時、一水会の総裁である鈴木さんを見て、「僕も意外とそこにいたかもしれないな」と、私も少しそういうことを思いました。

雨宮:
 私はオウムの修行とかにも行きました。

花井:
 私も京都の道場を訪問したことがあります。ただ、あまりにも閉塞的だったので・・・

雨宮:
 「まともな命の使い道」みたいなものが欲しかったのです。「まともな命の使い道」がないような気がしていたというか、このままいくと、「ただ企業の営利活動だけに、しかもそれにすらかかわれない人生になるんじゃないか」ということはすごく考えていて、でもだいたいの人はそうなってしまうじゃないですか。私たちは「いかに生産性が高く、利益を生み出す、価値のある人間になるか」という教育しか受けていないし、社会的にも「企業の営利活動のためだけに生きろ」というか、そちらの方が尊い生き方とされている気がします。でも、たかが企業の営利活動のためだけに、たかが働くためだけに、私たちは生まれてきたわけではありません。ですので、「まともな命の使い道がほしい」ということと「どう生きていけばいいのか分からない」ということから、おかしな人ばかりに会ったということです。

花井:
 そういう貴重な、稀有な出会いが今の雨宮処凛を作り上げてきたということですね。

(注4)正式名称「周辺事態に際して我が国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律」。そのまま放置すれば、日本に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等、日本周辺の地域における日本の平和及び安全に重要な影響を与える事態(周辺事態)に対応して日本が実施する措置、その実施の手続その他の必要な事項を定め、日米安保条約の効果的な運用に寄与し、日本の平和及び安全の確保に資することを目的としている。

(注5)正式名称「国旗及び国歌に関する法律」。日本の国旗・国歌を定める日本の法律。本法の成立により、国民に対して「国旗」「国歌」を強制する意味合いが強まり、特に教育現場からの批判が強い。

生活保護制度の「使えない」現状

花井:
 ここからは、もう少し社会に広げた視線でお話を進めていきたいと思います。例えば、非正規雇用などで壁に当たってもがいている人たちは、今まさにこの日本にはたくさんいると思うのですが、そういった事情に詳しい雨宮さんに、現状ということについてお話しいただければと思います。

雨宮:
 特に若い人なんかにとっては、ブラック企業とかは酷いですよね。私はプレカリアート運動にかかわって、もう6年ぐらいになります。2008年から2009年にかけて「年越し派遣村」とかがあってすごく社会的に注目されたのですが、状況はずっと悪化しています。政策的にも、労働者保護とか「貧困をなんとかする」というようなことを言ってはいますが、ちゃんとした政策はとられていないので、とても実現はしていないように思えます。それどころか、逆に自民党政権になってから真っ先にやられたのが「生活保護の削減」です。1月29日に決まりましたが、これは96%の受給世帯が生活保護費を引き下げられるという、過去最高の引き下げなのです。これは38ぐらいの制度に関係があって、「人権」ということでいうと、就学援助の基準も下がります。就学援助は生活保護を基準にしています。今は、小・中学生の6人に1人ぐらいの子どもが就学援助を受けていて、特に大阪なんかはすごく高い受給率ですが、生活保護基準が下がることによって、その就学援助の基準も下がるので、就学援助から漏れてしまう子どもが生み出されてしまいます。だから、「修学旅行に行けない」だとか、そういうことにもなってきます。また、今回初めて知ったのですが、ハンセン病だとか中国残留孤児の人への給付金も生活保護を基準にしているので、これも引き下げられてしまったり、あとは非課税の世帯に課税されるようになったりだとか、国民年金保険料の免除の基準も下げられます。要するに、「最後のセーフティネット」と言われているものが下がることになるのです。もちろん最低賃金も生活保護との整合性が言われているので下がるのですが、その生活保護引き下げの一つの理由として、「最低賃金で働くより、生活保護の方が高いから」という理由があります。でも、それだったら最低賃金を上げればいいじゃないですか。明らかに最低賃金は低すぎるし、「これでフルで働くと食べていける」という基準が設定されていないので、もうそのこと自体が人権侵害じゃないですか。それなのに、「最低賃金より生活保護の方が高いとは、けしからん」と言って生活保護を下げてしまったら、最低賃金が上がる根拠がなくなってしまうのです。そういう大決定がなされている真っ最中なのに、やはり生活保護のイメージというか、すごく生活保護に対するバッシングの空気が強いので、あまり世論の反対もなく実現してしまいました。これが、いちばん今、私が取材している現状としては大問題だと思っていることです。これは労働問題だけでなんとかなる問題ではないし、非正規雇用の人だと常に失業を前提としているので、ある意味そういう人たちが生きていくには、生活保護など何らかのセーフティネットとセットで考えなければいけないという次元に来ています。そういう意味で、生活保護は今、とても厳しい状況にあります。
 私は去年、「14歳からわかる生活保護」という本を出したのですが、きっかけは去年、私が把握しているだけでも20数人の人が餓死とか孤立死をしているのです。しかも家族ごとです。孤独死とか孤立死は、単身の高齢者というイメージが強いと思うのですが、去年ぐらいからは、札幌で40代の姉妹が餓死、凍死してしまったり、埼玉では60代の夫婦と30代の長男の親子3人が餓死してしまうというようなことが起こるようになりました。そういう形で、傍から見て支援の対象と思われない人、例えば「あの人は介護してくれる息子さんがいるから大丈夫だろう」とか、「この人は兄弟と一緒に住んでいるから大丈夫だろう」、「お母さんがいるから大丈夫だろう」というような、そういう状況の人までもが家族ごと共倒れしてしまうという、そういう状況にあるということが、すごく今の、ある意味象徴的なことです。

花井:
 生活保護の問題は、明らかに逆ですよね。本来は逆に最低賃金を上げるべきだし、理論からすれば、最低賃金に満たなかった分に生活保護を拡大して補填するということになるのですが、逆に低い方に合わせるという話になっているということですよね。これは言ってみれば人権、憲法25条(注6)の問題だと思うのですが、これは明らかに憲法違反っぽいですし、「人権が弾圧されている」という状況だと思います。そうすると、そういう「踏まれる側に立っている人たち」の声というものは、やはり上がってきているのでしょうか。

雨宮:
 今度デモをする予定です。当事者も含めて、2月には2回、衆議院の議員会館で院内集会をやって、いろいろな国会議員の人たちに来てもらったりはしています。でも、一部声を上げてくれる当事者はいるのですが、生活保護はやはりいちばん声が上げづらいです。労働問題、ワーキングプア問題だったら声を上げられるという人も、なかなか生活保護の当事者になってからだと声を上げられません。だから、政治的にも生活保護がいちばん下げやすかったのでしょう。世間の反発もないし、利権団体もないし、「生活保護受給者組合」みたいなものもないし、政府に対して圧力をかけるような手段が全くありません。当事者は、ある意味自分が生活保護を受けていることをひた隠しにしているし、なかなか横のつながりというものも生まれません。
 ここに来ている方だったら結構知っている人も多いと思いますが、生活保護を受けている人の4割以上が65歳以上の高齢者世帯ですし、3割以上が障害・傷病世帯で、その次が母子世帯です。ですから、生活保護の受給世帯のうち8割が、高齢で働けない人、病気・障害・怪我で働けない人、そして母子世帯なのです。そういうことがあまり知られていないので、「働けるのに怠けている」みたいなことを言う人がいますし、稼働年齢層である18歳から64歳までのその他世代は16%ぐらいで、10年で倍ぐらいに増えてはいるのですが、この人たちの半分以上は50代以上です。若い人ですら仕事が決まらないのに、50代で1回失業してしまうと、今のこの社会ではやはり再就職はなかなか決まりません。派遣とかアルバイトでもなかなか決まらないという中で、そういう人が増えているということは、「雇用が破壊されている」という問題でもあるのに、なかなかそちらには手をつけてくれません。
 あと「不正受給」が引き下げの理由としてよく言われるのですが、これは生活保護を受けている人の1.8%なのです。もちろんあってはいけないことですが、報道を見ていると半分ぐらいが不正受給しているような、そんなイメージで報道しているところもありますし、不正受給に使われている生活保護費は、額にして0.4%だそうです。でも、その中には、高校生の子どもが自分の家庭が生活保護世帯だと知らなくてアルバイトをして、その収入を申告しなかったために不正受給とされているケースがすごく多いのです。ですので、一概に「楽をして、ズルをして、得をしようとしている人たちが酷いことをしている」というわけではありません。もちろんそういうケースも一部あるとは思いますが、それによって全体が語られて、全体が引き下げられてしまうということはあってはならないことです。この問題は、本当にこの制度でギリギリ生きている、「これがなかったら死んでしまう」という214万人もの人たちにとってすごく残酷というか、人権の基本的な問題だと思います。
 また、生活保護という制度自体も詳しく知られていません。本当にどうにもならなくなった時に「これがあると生きていけるよ」という制度なのに、普通の人は「どうしたら受けられるのか」をまず知りません。支援者がいない状態で、自分たちだけで役所に行っても大抵は帰されています。また、「アクセスの仕方が分からない」「制度があっても使い方が分からない」など、「そもそもこの制度は機能していないのではないか」と思うほどです。これは人権にすごくかかわることなのに、生き死ににかかわる問題なのに、「知られていない」ということがいちばんの大問題です。

花井:
 日本には、意外に使える、壁に突き当たった苦しみを助けられる制度がたくさんあるのにもかかわらず、いわゆる「申請主義(注7)」と言われるものですが、それによって分かりにくく、使いにくくなっているというところがあります。

雨宮:
 札幌で餓死した姉妹も、42歳のお姉さんは3回も生活保護申請に行っているのです。2回目なんかは残金が1000円で、家賃もライフラインも滞納している状態だったのに、「若いんだから、もっとがんばって仕事を探せ」と追い返されて、役所はその時に乾パンの缶詰を14缶支給しているのです。その根拠は、知的障害の妹さんがいたので、2人分の1週間の食事として乾パンの缶詰を14缶という、そもそも「1日乾パン1缶というのはどうなんだ」という話なのですが、それを渡すということは、「この人たちは食料にも事欠いていて、放置すると餓死する」と分かっているのです。分かっているけど申請は受理しなかったのです。3回目はその半年後に行くのですが、また追い返されて、その半年後に2人は遺体で発見されました。それが去年の1月なのですが、そういう状況で、制度はあるのに普通に行ったら使えない。支援団体とつながるだとか、申請同行してもらうだとか、そういうテクニックを持っていないと、「本当に死ぬかもしれない」という時に使えない制度になっていて、実際に死者が出ているということは、すごく今の深刻な状況を表しています。政権交代以降、これからも生活保護関係に関しては、また厳しくなっていくと思います。これだけの引き下げがあるということは、現場でのいわゆる「水際作戦」、つまり「申請させない」ということがより厳しく行われていくでしょうし、それを跳ね返す世論的なものも作られていなくて、逆に今はバッシングの方が作られています。ですので、やはり景気が悪い、厳しい状況が長引けば長引くほど、もう生活保護を受けている人は既得権益というか、そういうものとみなされてしまって、「自分はこんなにも酷い労働条件で、こんな低賃金で働いているのに、あの人たちは何もしないで自分と大して変わらない額をもらっている」という憎しみがどんどん増幅され、時間が経てば経つほど、厳しい状況が長く続けば続くほど、さらに視点が冷たくなっているということを感じます。だから、本当にこの20年間、「金に余裕がなくなると、心にも余裕がなくなる」ということを、ある意味みんなが証明しているような、そんな状況にも見えています。そして、それは政治的に利用される可能性がすごくあるので、とても危ないことだと思います。

(注6)「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」として、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。

(注7)当事者の申請があるときに限り、手続を開始するとの原則のこと。

無条件の生存の肯定

花井:
 この問題に対しては、私たちでもそうなのだから、「そろそろ堪忍袋の緒が切れる」という感じの人がたくさんいるはずです。今日は映像を用意していただいていますので、その映像を見ながら、少し解説などをしていただけますでしょうか。

雨宮:
 まずはメーデーの映像からご覧いただきたいと思います。私は「フリーター労働」という労働組合の組合員でもあるのですが、そこで「自由と生存のメーデー」というものを毎年やっています。これは「生きさせろ」ということを訴えて、フリーターやプレカリアートなど、そういう不安定層の人たちのデモです。

(映像が流れる)

雨宮:
 この映像は、3.11以前のデモなので、少し貴重かもしれないです。貧困の状況にいたり、失業していたりすると、みんな「自分が悪い」と自分を責めてしまっている人が多いと思うのです。でも、実はそれは派遣法(注8)の問題だとか、雇用を破壊するようないろいろな政策がとられてきたことが原因なんだという認識がこの数年形成されてきて、こういうデモも起こるようになってきました。

映像:
 「プレカリアートは言うことを聞かないぞー!」

花井:
 雨宮さんのシュプレヒコール(注9)ですね。

雨宮:
 「言うことを聞かない」ということがいちばん重要かなと思っていて、「貧乏人が人の言うことを聞いたら、ろくでもない目に遭うに決まっている」ということです。

花井:
 参加されている方は、だいたい当事者の方という感じですか?

雨宮:
 そうですね。お金持ちはいないです(笑)。

花井:
 結構ファッショナブルですね。

雨宮:
 そうなんですよ。これは渋谷です。

(映像が終わる)

雨宮:
 これが毎年やっている貧乏人の貧乏人による貧乏人のためのメーデー、「自由と生存のメーデー」です。

花井:
 これに参加されている方々は、やはりある程度自覚的になっていて、「現状を打開しよう」という力が出てきた人ということですか?

雨宮:
 そうですね。だから、ある意味「そうなれたら、もうOK」という側面もあります。この問題は、やはり労働問題だけでは語れません。すごく精神的に病んでしまっているような人の中には、実は「労働現場で酷い目に遭う」だとか、「就活で100社落ちる」だとか、そういう体験によって、すごく自己否定の気持ちになってしまっている方が多いのです。ですから、「自分のせいではなくて、労働問題などいろいろな原因があって、自分が貧困状態だったり、生きづらい状態だったり、将来に対して明確なビジョンが持てない状況になっているんだ」と気付き、外に出てきて「怒れている」人は、もう大丈夫だと思います。でも、「怒る」ことは、すごく自己肯定感が必要なことじゃないですか。本当に厳しい状況に置かれている、例えば過労死寸前まで働いているにもかかわらず、上司から「ノルマを達成できていない」と暴力まで振るわれているのに仕事を辞めないような人もいるわけですが、そういう人に「なぜ辞めないのか」と聞くと、「自分のようなダメ人間を雇ってくれるのは、もうこの会社しかない」と言うのです。「だから、もう感謝している」とまで言います。暴力を振るわれて、死にそうな長時間労働をさせられているのに「感謝している」のです。なぜそこまで自己否定を持ってしまうのかというと、職場で毎日のように「ダメだ、ダメだ」とダメ出しをされ、さらにその前の就活の段階で何十社と落ちているから、「やっと拾ってくれた」、「もう自分のような人間は、ここにしかいられないんだ」と思ってしまっているからです。それでは、もはや「怒る」という回路にすらなりません。
 私はこういう運動とか活動にかかわっていると、「こんな酷い労働環境で、なぜみんなもっと怒らないんだ」とよく言われます。怒っている人もたくさんいるのですが、怒る前提すら用意されていない人がいるのです。「自分はこんな酷いことをされていい人間ではない」というプライドというか、怒るための自己肯定感、そういうものすら職場で奪われているのです。でも考えてみれば、そういうものは教育現場からも奪われている気がします。何をどんなにがんばっても「足りない、足りない」と言われ続け、人が当たり前に持っている自己肯定感を奪っていくような教育課程になっていると思います。私自身もそれを奪われてきたと思うし、今もそうだと思うので、「社会全体が普通に、無条件にその人の存在を肯定するような環境にない」ということも大きな理由だと思います。「無条件の生存の肯定」というものが、プレカリアート運動の一つの大きなスローガンなのです。私はその言葉に、ある意味すごく救われました。

花井:
 その意味で言えば、そこがかつての労働運動が基本としたマルクス主義(注10)とは決定的に違うところですね。

雨宮:
 私はマルクスとかは読んでいないので、たまに読んでいないことをすごく怒られるのです。「マルクスも読んでいないくせに、労働を語るな」とか、意味が分からないのですが(笑)、そう言われたら逆に「絶対読まねーよ」とか思ってしまいます。そうですよね。だから、そういうふうに言ってはいけないんですよ。人権とか社会問題に興味がない人に、そういう言い方はダメだと思います。私は常々その「マルクスおじさん」にずっといじめられてきたので(笑)、自分はそういうふうに言わないように気を付けています。

(注8)正式名称「労働者派遣事業の適正な運営の確保及び派遣労働者の保護等に関する法律」。1986年施行。派遣労働者の権利を守り、常用代替(正社員の代わりとすること)を防止するため、労働者派遣の活用を制限することを目的としている。2012年10月より改正法が施行されたが、様々な点で問題が指摘されている。

(注9)デモや集会などで、参加者らが訴えやスローガンを繰り返し唱和すること。

(注10)カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって展開された思想をベースとして確立された社会主義思想体系の一つ。資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている。

脱原発の動き

花井:
 映像がもう1本あるということで、ご覧いただきたいと思います。

(映像が流れる)

雨宮:
 これは原発が全部止まった日に、官邸前でやった祝賀パレードです。オープンカーに乗って、「めでたいから」ということで、私はウェディングドレスを着ました。

花井:
 すごくファッショナブルですね。

雨宮:
 これは杉並で、「脱原発杉並」という団体がやっているデモなのですが、このデモは地域住民がやっているのです。今、原発のデモでは5000人ぐらい集まるのですが、5000人も集まったら、その日の居酒屋は朝まで満員です。これはすごい経済効果を生み出します。そこに目をつけて、「デモ割」という制度を自分たちで作って、「居酒屋で『デモに来ました』と言ったらビールが1杯無料」みたいな、そういうことを地元の商店街のお店を口説いてやったりしています。これはデモでカラオケをやった映像です。これは高齢者用のサウンドカーなので、お年寄りもスナックで鳴らした喉を披露できるようにしています(笑)。いきなり路上がスナックに変わるという・・・

(映像が終わる)

雨宮:
 こんな形で、これは「脱原発杉並」という地域住民の、その辺のおじさん、おばさんから、お母さんたちから、フリーターから、本当に有象無象のいろいろな人がいる団体がやっているデモなのですが、こういうふうに人をたくさん集める人気デモになっています。先ほど言ったような「デモ割」を作ったりして、デモではその「デモ割」がきくお店が載った「デモ割マップ」というものが配られるのですが、デモが終わった後にみんなでその地図を頼りにそのお店に行って飲んだりできます。「800円で生ビールとおつまみ2品」みたいな「デモセット」みたいなものもあったり、あとデモって疲れるじゃないですか(笑)。だから、鍼灸院が「デモ灸」という、お灸とかマッサージをしてくれるというようなものもあって、「デモ割」のお店は飲食店だけではありません。
 デモは「迷惑だ」とよく言われるじゃないですか。でも、この杉並のデモは、その地域の人が、顔の見える範囲で、自分の知り合いの店を「自分たちで脱原発デモをやるんだよ」と口説いてやっていくので、すごく快く受け入れてくれる人がいて、すごく地域に愛されるデモになっています。「デモで町おこし」みたいな感じです。でも、それはすごく良いことだと思っています。原発は、いろいろお金をバラ撒いたり雇用の問題を出してきたりとかして、まず地域住民を「賛成派」と「反対派」に分断するところから始まるじゃないですか。でも、この杉並のやり方は、「地域住民が結束して、地域の人と町を盛り上げながらデモをやっていく」という感じで、「原発ができる前にこういうやり方で運動をしていれば、日本には全然原発なんてできなかったのではないか」と思うほど、この杉並のデモは一つの地域ができる最大限の抵抗をやっているという印象です。カラオケあり、サウンドカーあり、ウェディングドレスありと、もうむちゃくちゃなのですが、そういう感じで「ごった煮」だけれども、実は地域の人ができるすごく重要なことをやっていて、しかもいろいろな人を巻き込んでいきます。「デモ割」のお店なんかも、最初は全くそういうことは考えていなかったかもしれませんが、そうやって脱原発のデモ帰りの人がワッと押し寄せて常連になっていったらすごく考えも変わるでしょうし、何かすごく有機的な連鎖ができているのです。こういう形で、私は3.11以降は脱原発デモの主催の立場にもかかわっています。

花井:
 もう少し原発の話をすると、民主党政権時代は一応「脱原発の方向で勝った」みたいなムードがあったと思います。しかし、自民党政権になった瞬間に、さっそく脱原発派の委員が全部消えて、どうもすぐにも原発を動かすような雰囲気になっています。そういった中で、そういう市民の活動やデモ、官邸前の動きなど、そういうところで変化はありますでしょうか。

雨宮:
 すごく焦っています。でも、「より具体的に、やることは明確になった」とも言えると思います。原発事故からもうそろそろ2年になりますが、ずっと変わらずデモは続けていますし、その気勢が衰えていないということが、私は一つの希望だなと思っています。そして、デモに参加した人が、自分の地域でもどんどんデモをやるようになっていたりだとか、いろいろな放射能の検査や食品の検査だったり、デモ以外の活動もたくさんやっています。そういう人が当たり前に増えてきました。官邸前行動も20万人とか、去年の6月は毎週のように10万人単位で集まっていましたが、「デモデビュー」をした人は3.11以降の2年弱で数百万人に上ります。官邸前行動には、去年の3月から9月ぐらいまでの半年間だけで100万人が集まっていますし、さらに日本全国いろいろなところでデモをやっています。官邸前行動的なものは関西電力の本店前でもやっているし、北海道だったら北海道庁前でもやっています。「初めて直接行動をとる」、「路上に出て直接民主主義を行使する」、「自分たちの声が届けられないのなら、直接ものを申すぞ」という人たちが、戦後これだけの規模のものは初めてなんじゃないかというぐらい大量に出てきたということが、3.11以降の脱原発デモなり官邸前の動きだと思います。でも、それがあったのにあの選挙結果になったということは、私はやはりショックでした。「二極化しているのかな」という印象です。ただ、特に若い世代で官邸前行動などを担っている人なんかだと、国会議員とのいろいろな交渉の仕方だとか、デモの仕方だとか、そういうものを本当に現場で一から学んでいて、そういうことを今リアルタイムでやっている人たちはすごくたくさんいるのです。そういう人たちの存在は、5年後とか10年後の日本に与える影響を考えると、すごく私は希望が持てるし、すごく貴重なことだと思います。

生きさせろ!

花井:
 他の出演者のお三方で、何か雨宮さんに質問やお話がある方はおられますか?

崔:
 デモの映像はすごく面白くて、本当に希望の持てる映像だなと思って見させていただきましたが、先ほどの生活保護の問題のお話の中で、花井さんから、そもそも論として「憲法の蹂躙がなされている」、「基本的人権自体が否定されているという深刻な状況がある」というお話がありました。私は今日は一応在日としてこの場に立たせていただいているのでお伺いしますが、例えば、在日外国人の中でも国籍がまだ外国籍のままの人たちは、そもそも憲法の中で基本的人権が認められていないという問題があります。日本国憲法においては、「基本的人権は国民に認める」という書き方をしています。そうすると、「国民とは誰なのか」ということが問題になると思いますが、それは「国籍法が定めているから」ということで、結局文章上では「在日外国人は、憲法で定められている基本的人権から疎外されている」という現状が、実際問題としてあるわけです。そんな中で、雨宮さんがかかわっているプレカリアート運動は、それを是正する可能性を持っていると僕は期待しています。そういう意味で「生きさせろ!」(雨宮氏の著書)とかも読ませていただいたのですが、その「無条件の生存の肯定」という言葉には、やはりとても勇気づけられる部分がありました。労働は、誰しもがかかわっていく、生活の中での一つの領域だと思うので、そこから運動を立ち上げていくということは、可能性がある一方で、やはり物足りなさがあるというか、「生きられたらそれでいいわけではないし、働けたらそれでいいわけでもない」ということがあると思います。在日の側からすると、「自分が在日として、日本の植民地支配という歴史的な経緯の結果として、今、日本社会で生きている、生活をして働いている」という中で、その部分も含めて、「ではどうやって働いていくのか、どうやって生きていくのか」ということだと思うのです。ですので、「生きさせろ!」という本は、僕には本当にすごくインパクトがあったのですが、なぜそこでもう一言、「もっとより良く生きさせろ!」と言ってくれなかったのだろうかということを少し聞いてみたいと思っています。

雨宮:
 まず、最低限の要求として、「まともに生きさせろ!」とか「人間らしく生きさせろ!」ということがあると思うのです。そこに付け加えるとしたら、「安いものじゃなくて、もっと高いものを食わせろ!」とか(笑)、やはり貧乏人は「高カロリーで低栄養なものしかなかなか食べられない」という現実があるので、付け加えるとしたらそういうこととか、本当にたくさんあると思います。プレカリアート運動のすごく良いところは、外国人の方とか、もちろん在日の方とか、あとは難民の方とかがすごくたくさん絡んでくれて、一緒にやってくれているところです。その中で、私自身も全く気付かなかった難民の人の日本での労働条件の厳しさだとか、やはり本当に酷い、違法な働かされ方がまかり通っていたりだとか、そういうことを知っていったので、「生きさせろ!」だけでは当然足りないし、「死なない程度でかろうじて心臓が動いている、息はしている」というのは「生きている」状態とは言えないと思います。今の労働条件を見ても、死なない程度の餌で、本当に死なない程度の最低賃金でむちゃくちゃに働かされたりとか、そういうことがとても多いので、「もっと条件をより良く」だとか、そういうことを本当は求めていきたいと思っています。でも、生活保護の引き下げなんかがまさに象徴的ですが、世の中の状況は「もっと生きさせない」方向になっているので、「生きさせろ!」ともっとさらにシンプルに言わなければいけない状況になっているような気がします。状況が少しでも良くなっているのだったら、もっと「こうしてほしい」などと言えると思うのですが、状況はどんどん悪くなっているので、要求のレベルもそれに合わせてどんどん下がっているような気がするのです。そこが問題だと思います。
 土屋トカチさんという映画監督の「フツーの仕事がしたい」というドキュメンタリー映画を見たことがある人はいますか? 少しいらっしゃいますね。この映画は、すごく酷い労働条件で働くトラックの運転手の話なのですが、「普通の仕事がしたい」なんて、1980年代とかには言われなかったですよね。1980年代とか1990年代は、「特別な、スペシャルな仕事がしたい」、「カッコいい仕事がしたい」、「横文字の仕事がしたい」みたいな、そんな感じだったと思うのですが、今は要求が「本当に普通の仕事がしたい」となってしまっています。ですので、すごく景気が良かった頃の「特別に生きたい」みたいな、そういう考えが通用しなくなっているのが、すごく切ないなと思います。

花井:
 そんな贅沢を言っていられない状況になったということですね。

雨宮:
 例えば、女性だったら専業主婦願望がより高まっていたり、もちろんこういう状況だからですが、若い人だと「正社員になりたい」という人がとても増えていたりします。これは当然のことだと思うのですが、国によってはすごく自由度が高い国もありますよね。「20代の頃にはボランティアとか留学とかで海外経験をして、それからでも就職できるからいい」と思えている国と、「就活で自殺」ということが社会問題になるような国とでは、やはり人生の選択肢が違いすぎるし、こういう状況になると、「何かに挑戦しよう」という、その可能性すら阻害されるので、やはりとても厳しいなと思います。そういうことは「多様な生き方を認めるか認めないか」だとか、そういう問題にも絡んでくると思うので、「学校を卒業して正社員になれなければ、いつかホームレスかネットカフェ難民か、とにかく大変なことになって、結婚もできずに家庭も持てない」みたいな今のそういう状況は、いろいろな可能性を奪っていると思います。

花井:
 「無条件の生存」という概念を言葉にして表現すると、その中身は、まず「命」、2つ目が「自由」、3つ目が「幸福追求」ということだと思います。この3つをセットと考えると、今雨宮さんがおっしゃられたことは、その最初の「命」の部分で、もうすでにギリギリに責められているということです。まず「生きる」、その後に「自由に生きる」、そして「幸福が追求できる」という段階になると思いますが、それは本来保障されているはずのものなのに、我々は現在、その中のいちばんレベルの低いところで戦わされているという状況にあるのだと思います。

雨宮:
 私がプレカリアート運動を始めたのは2006年です。2006年にこういう問題に出会って、それからずっと取材と活動を続けているのですが、最初は単なる労働問題だったのです。「特に若年層の労働問題が厳しい」、「場合によってはネットカフェ難民とかになってしまう」とか、そういう問題だったのが、ちょうど2007年、2008年頃から、生活保護の「水際作戦」によって餓死したり、自殺したりする人がどんどん出てくるようになりました。それから2012年になって、今度は単身の餓死ではなくて、家族ごとの餓死という問題になってきています。労働問題に出会った頃は、「若者が生きづらい背景には、競争社会なり、市場原理主義的な価値観しかない労働現場の破壊のようなものがあるのではないか」ということで取材を始めてみたのですが、どんどん状況が厳しくなって、途中からはホームレス取材になり、今は餓死、しかも家族ごとの餓死が起こって、問題がどんどん深刻化していて、私自身「どうしたものだろう」と感じています。いろいろな活動をしている人たちはずっと居続けていますが、なかなかそれが改善されていかないので「無条件で生きられる社会」にならないし、政策も追いつかない中で、「どうすればいいのだろう」といつも考えています。

世の中の矛盾を「可視化」させる

花井:
 若者の代表にするのは申し訳ないのですが、世代的にはいちばん若いと思うので、木脇さんはこの問題に対して、どうお考えになっていますか?

木脇:
 先ほどのデモの映像ですが、僕はああいうデモとかにはすごく違和感があります。自分だったら正直、あの中には入りたくないし、歩きたくないです。

雨宮:
 なんでなんで?

木脇:
 なぜなんでしょうね。性に合わないんじゃないでしょうか(笑)。生活保護の引き下げの話とかに対しては「それは違うだろう」と思ってはいますが、じゃあ映像にあったように「路上を一緒に練り歩きたいか」と言われたら、「それはちょっと違うな」と思います。

花井:
 訴えていることに対しては「その通りだ」と思っているけれども、「デモはちょっと自分には合わないな」ということですね。そうすると、どういうアプローチだったら参加しようと思えるのでしょうか。

木脇:
 今の職場でいうと、「相談」みたいな形で、そういう窓口のような仕事もやっているのですが、やはり「対人」でやりたいという気持ちがあります。「人と話すだけでも、少しは違うのではないか」と思っていて、そういう話を自然にできるような形で、例えば生活保護の問題だったら、「こういう現状があるよ」などという話ができたらいいのになと思います。なぜ仮装をして町を練り歩かなければいけないのか、僕には分からないのですが(笑)、インパクトはあるし、その地域を巻き込むのも面白いなとは思います。でも、柄に合わないからか、やはりやりたくないです(笑)。

雨宮:
 これは人によっていろいろセンスが分かれるところなので、全員を誘う気は全くありませんが、「ただ騒いでいるだけ」とか「何の意味があるんだ」とはよく言われます。でも、まずフリーターとかプレカリアートの問題で言うと、やはり彼らは「存在しないもの」とされてきた期間が長く、そういう「誰かがやらなくてはいけない必要な仕事を低賃金で文句も言わずに担って、でもすぐ使い捨てられる」というような人が一定数は世の中にいるわけです。非正規労働者で言うと、4割弱の人がそういう状況に陥っているのに、なぜか「自己責任」と言われて、「怠けている」だとか「働く気がない」とかバッシングされたりして、本人も本人で、自分が貧しかったり、なかなか先が見通せないことを全部自分のせいだと思っていて、窮状はすごくきついと思うのです。ですので、デモは、まずそういう人たちの出会いの場という役割があります。やはり、デモに参加して初めて自分と同じ境遇の人と出会う人もいるので、これは一つの場の設定なのです。デモの後には朝までずっと語り合うような場もありますし、あとは路上に出ることによって、世間に「自分たちはここにいて、存在している、怒っている」ということを見せるだけでも、すごく意味があると思います。繁華街を歩いている人に強制的にこういった問題を考えさせることができるということは、デモの一つの大きな強みだと思っています。興味のある人だけが来るのではなくて、直接関係のない人に「自分たちは怒っているぞ」ということを無理やり見せつけることに意味があると思っています。
 我々のデモの特徴としては、例えば500人ぐらいで始めると、終わるころには倍の1000人ぐらいになっていることがあります。それは、路上の人が共感してくれて、「初めて自分のことを言っているデモを見た」というような形で、ガンガン飛び入り参加をしてくれるからです。新宿や渋谷はやはりフリーターの人とかが多いですから、そういう人たちが、我々が「生きさせろ」とか「時給を上げろ」とか言いながら歩いているのを見て興奮して入ってくるという、そういう化学変化みたいなものが面白いので、あえてゲリラ的にやっています。もちろんデモ申請はしていますが、町を歩いている人にとっては「いきなり怒った貧乏人集団が現れる」ということになるのです。そして、格差社会などと言われている昨今、「何か矛盾がある」ということはみんな感じていると思うのです。それを可視化させて、「自分たちがその矛盾の象徴なんだ」という形で出て行くと、町の人にも「メディアとかではうっすら聞いているけど、自分の働き方もおかしいし、自分の周りの人の働かされ方もおかしいけれど、本当にそういうことがあるんだ。この人たちのことだったんだ」という感じで思ってもらえるので、顔が見えて、実際に言葉を発しながら出て行くということは、すごく大きなことだなと思ってやっています。

花井:
 私は、「可視化する」ということはすごく大きなことだと思っています。政治家はそういうものに意外に敏感だということもあるので、何かを実現するための方法論としては十分あり得ると思うし、コミュニケーションという点でもまた非常に重要だと思います。

家族のカタチ

花井:
 一つ、今日はぜひ話したいことがあります。それは「家族」です。人が「自分を肯定できない」とか「苦しい」という時にシェルターになるのは普通、家族だと思います。「ママ、いじめられちゃったよ~」と帰ってきて、「何があったの?」と聞いてもらって・・・というところで救われていく装置として、家族は機能している部分があると思います。コミュニケーションというものは「人の多様性を認める」ということだし、一方で家族というものは、例えば「パパ、ママ、僕」という定型であれば、ある種の保守的とも言える部分と、両方の側面があると思うのですが、雨宮さんにとって「家族」というものはどういったものだったのですか?

雨宮:
 先ほど楽屋で「あまり家族のことを書いていませんね」と言われて、「その通りだな」と思ったのですが、私が「無条件の生存の肯定」という言葉に感動したのは、やはり自分が家族の中で、すごく「条件付きの存在の肯定」だったからです。つまり、愛情は「取引の道具」、「交換条件」だったのです。「テストで良い成績を取る」、「優等生である」、「学校では良い子でいる」という条件を出されて、「これができたら愛してあげる」みたいな感じだったので、私は中学時代まではものすごく優等生だったのです。いじめを受けると普通は成績がすごく下がるのですが、私は学校で否定されているので、「これで親にまで否定されてしまったら、もう生きていけない」と思って、いじめが始まってからの方が、逆にほとんど寝ないでものすごい猛勉強をしました。今思うとかなり病的だったのですが、とにかく「家でまで否定されてしまったら、もう生きていけない」という理由で、すごく成績上位の優等生をキープし続けました。でも、それはすごくきつい経験でした。まず、自分の基盤としては、「親の望む、家族の望む『良い子ども』でなければ愛されないし、存在してはいけないんだ」ということが、どこかですごく刷り込まれていたというか、見捨てられてしまうことにものすごい恐怖を感じていました。

花井:
 中崎さんは「女性同士の結婚」ということをおっしゃっています。それを「他者と共に生きる」ことであると考えると、共に生きようとした時に、「一緒に暮らしていく」ということで家族というものができていって、多くの場合、一対の性というものが定型化して今の家族の形があると思うのですが、家族というものに対する中崎さんのスタンスというか、感じ方はどうなのですか?

中崎:
 今はものすごく仲が良いのですが、私も結構、大学を出るまでは親と仲が悪かったです。私も小・中といじめに遭っていました。そんな中で、やはり親は助けてくれなかったし、「親にいじめられているのがバレたらやばい」みたいな感じがあったので、一生懸命隠すようにはしていたのですが、やはりいじめへの反発から、ストレスというか、発散する場所がないので、結構親に当たることが多かったです。中学生ぐらいの時とかには、親を殴るわ、物は壊すわで、もう家庭は崩壊していました。毎晩親は泣くし、「お前は狂っている」とか暴言を吐かれるし・・・というような感じで上手くいかなくて、「私は親に愛されていないんだな」と思って、家でも学校でも自分の居場所はないという状態でした。高校生になるといじめはなくなったので私も落ち着くようになって、あまり親とは話はしなかったのですが、ぼちぼち仲良くなりつつはありました。それでも「私は親に愛されていない」と思っていたし、自分にとって親は必要な存在と思っていませんでした。でも、大学に入って親元を離れてから、自分を今まで育ててくれた親が実の親ではないことを知ったのです。その時に、「赤の他人が育ててくれた」という、その愛情深さを改めて意識しました。そして、今まで自分がしてきたことがものすごく申し訳ないことだと思って、それでも私を愛してくれていたことにすごいなと思って、それからは親を大切にするようになりました。「本当にありがとう」という気持ちで今はいます。

花井:
 これから結婚ということを考えておられると思いますが、それはやはり「女性同士で家庭を作っていきたい」という意味として捉えてよろしいですか?

中崎:
 そうですね。私が「同性婚をしたいな」と思う根本的な理由は、日本の法整備です。やはり「同性同士が一緒に暮らしていく」のは、「異性が一緒になって暮らしていく」のと比べて、状況がものすごく不利なのです。例えば、異性同士が結婚をしたら、家族手当だったりとか、配偶者手当だったりとか、結構お金の部分でもプラスになることが多いのですが、同性同士がどれだけ一緒にいて愛し合っていても、そういう手当とかはありません。法的には「赤の他人」なので、絆はもう心持ちだけでしかつなげないのです。ですから、同性婚は、同性同士のカップルに対するそういった法整備を整えるためのツールになると思います。今の状況に対しては、「なぜ同性同士には、誰でもできるはずの結婚という平等な権利が与えられないのだろう」という疑問があります。

花井:
 今、「絆」という言葉が出てきて、良い言葉だなと思ったのですが、「自分が絆を結んでいる人と共に生きるにあたって、それをちゃんと制度がオフィシャライズしてくれる社会になってほしい」ということですね。

中崎:
 そうですね。

花井:
 「その通り!」としか、もう膝を打つしかないですね。他に「家族」ということで、何か追加発言はありますか?

雨宮:
 「家族が政治的に利用される」という話は、すごくよく聞きます。生活保護の問題でもそうですが、いろいろなことが変えられようとしている中で、「扶養義務の強化」ということが今、盛んに言われています。要するに「家族なんだから助け合え!」ということです。「親がとても貧しいから、子どもがそれを助ける」ということは、一見すごく美しいことに思えますが、これが法的にもっと強化されると、「どんなに厳しくても、自分は置いてでも家族を助けなさい」ということになってしまいます。これは貧困の問題だけではなくて、介護の問題でも、「一家心中するまで介護しろ」というように、家族にその負担を全部押し付けていく。「絆が大切だ」、「家族は助け合うものだ」というような美しい話にしながら、家族にものすごい負担を強いるというような方向に今後行きそうで、こういうやり方はいろいろな分野で使われていると思います。

花井:
 在宅医療の分野でもそうだったのですが、まさにそういう流れで進んでいて、結局「個人」というものを中心にケアを考える思想でできていない。介護についても実は民法に扶養義務が書いてあるのですが、それが社会保障の貧弱化を正当化する理由とされるなら、もう憲法違反の疑いがあるのではないかと思います。要するに、「家族」という国家が決める一つの形に全部強制されていて、それをスタンダードにして、「家族で助け合え」ということで福祉を削るという構造ですよね。だから、根本的なところを考えると、やはり「一人ひとり」ということを中心に制度を作らないとダメなのです。日本の制度は全部そうなっていないですよね。医療から、介護保険もそうだし、そこが非常に問題だと思います。

雨宮:
 川口有美子さんという、「逝かない身体-ALS的日常を生きる」という本を書いた方がおられるのですが、この方はお母さんの介護を14年間してきた方で、尊厳死の法制化に反対しています。私は尊厳死の法制化ということは全然知らなかったのですが、今それが進んでいるらしいのです。「尊厳死そのものについての是非」というものももちろんあると思うのですが、それが法制化された場合に、結局「家族に迷惑がかかるから、尊厳死を選ばざるを得ない」というような、あるいはそれが強制されるような状況になるのではないかと危惧されているのです。「家族に迷惑をかけたくない」という善意を持っている人が死ななければいけなくなる、あるいはまともな医療が受けられなくなるような形での法制化というふうに聞いています。家族の問題は、すごくいろいろな問題にかかわっているなと思いました。

越えてはならない「一線」

花井:
 ここで、会場の皆さんからお集めした質問にお答えしたいと思います。まずは在特会についてです。鶴橋駅の近くでの、在特会所属の若い女性による「在日皆殺し発言」に関する見解ですが、これは先ほど雨宮さんが少し触れていました。見解は明らかですが、一応伺いたいと思います。

雨宮:
 これは最近のことですよね。私は怖くて、これの動画は見ていません。私はこういう動画を見ると、本当にざわざわするというか、しばらく立ち直れなくなるので、ネットやツイッターでいろいろとみんなが発言している「字」しか読んでいないのですが、字だけ読んでいても酷いことが分かります。私自身も1990年代に右翼団体に2年間いたことがありましたが、いちばんの違いは、右翼は反米だったのです。だから、在特会的な反中国とか反韓国ではないのです。しかし今はそうなっているという、すごく象徴的なことだと思います。これによって、日本の立ち位置も分かりますよね。ですので、酷いと思うけれども、それ以前に「どうして在特会とかはそういうことを言わなければいけないのだろう」と思います。言わなければいけないほど、その人は何かにつかえているんですよね。だから、そこをまず聞かないといけないと思います。「頭ごなしには否定したくない」というか、頭ごなしに否定すると、たぶん対話が始まらないので、「どうしてですか?」ということを聞きたいです。「なぜそういうことを言うのか」、「なぜそういう考えに惹かれるのか」が知りたいです。自分自身も右翼だった時に、頭ごなしに否定されたら意地になるだけだったし、「そこに行かない限り、自分は肯定されない」というか、私自身はある意味「日本人である」ということでしか自分を肯定する要素がなかったということもあるし、バブルが崩壊して「がんばれば報われる」的な神話が崩れた後に、すごく「教育にウソをつかれた」みたいなことを感じました。そして、「その教育に、いじめなどという形ですごく傷つけられてきた」という変な被害者意識もあったと思うのです。だから、教科書が教えてくれない「靖国史観」的なものがスッと入る下地ができていたのだと思います。ですから、いろいろな時代背景とか本人の生い立ちとかもあってそうなっているはずなので、一概に否定しても話は始まらないと思います。逆に、「なぜそこに行かなければいけないのか」というところからしか、もう始まらないと思います。

花井:
 たぶんその発言をしている人は、「誇らしい」という気分になっているということが想像できますよね。

雨宮:
 切ないですよ。そんなことでしか尊厳を保てない、誇らしい気分になれないなんて、本当に切なくて仕方がないことです。

崔:
 在特会の話なので、ぜひ発言させていただきたいと思ったのですが、ちょうどたぶんその日はKEYのイベントで、岸和田の方にみんなでフィールドワークに行っていました。それで家に帰ると、うちの母と姉がちょうど鶴橋のコリアンタウンに買い物に行っていたらしく、そこで出くわしたという話をしていました。今までは在特会の話とかを聞いても、うちの家族は「そんな人たちがいるんだ」ぐらいの感じだったのですが、その時に「初めて見た」、「ビックリした」という話をしていました。「このイベントでも議論になるかもしれないから」ということで、実行委員会の方からも「動画を見てみた方がいいんじゃないか」と言われたのですが、私もああいう動画を見るのは本当に嫌で、別に「自分が在日だから嫌だ」と言っているのではなくて、もう完全にあの人たちは「一線を越えたな」というふうに思っています。そもそも論として、これは人の倫理や道徳のレベルの話で、路上で言ってはいけないことを言っていると思います。先ほどの映像にあったようなメーデーのデモのように、「みんなで楽しくワイワイ」というようなものを見るのは楽しいと思いますが、あれはもうその部分の一線を越えていると思います。
 雨宮さんは「『なぜその道に入っていってしまったのですか?』という対話から作っていかなければいけない」というお話をされました。それは「確かにそうだろうな」と思うのですが、一方で「それを本当にあの人たちに対してできるのか」ということを僕は思っていて、むしろ向こうはその一線を越えてしまっているような気がしています。「なぜそういう道に入ってしまったのだろうか」ということを知る必要は絶対にあると思うのですが、14歳の中学生とかも一緒になって歩いているとかという話も聞きますし、やはりいろいろな人がいると思います。その一方で、逆に差別反対を訴えるカウンター行動も同時に展開している状況が実際にあります。そういう形で何かしらの対話、もうそれ自体が対話なのかもしれませんが、それは別に民族云々というよりも、単に「そういう言葉はもう私たちは聞きたくない」というアピールを、それこそ「可視化させていく」というか、そういった取り組み自体が求められているのではないかと個人的に私は思っています。これは「在日だから」というような話とは、全然レベルが変わってきているのではないかと思います。

花井:
 確かにその通りだと思います。「そんな言葉はもう聞きたくない」ということについては、もう立場は関係ないんだということですね。

崔:
 「普通の」というか、そう言ってしまうと何が普通なのかなんて分からないのですが、一般的な感覚を持っていれば、ああいう言葉を喜んで口に出したり、喜んで聞きたい人は、私はあまりいないと思うので、そういうレベルの話だと私は思います。

「大きな組織」の役割

花井:
 雨宮さんへの質問ですが、「連合(注11)」という組織についてお伺いしたいと思います。

雨宮:
 連合って労働組合とかのことですよね。私は「連合とは何なのか」とか、労働運動をやっているわりには全然知らないのです。あまり興味がないというか、あまり大きい組織は関係ないじゃないですか。連合って言われても、最初は「国際連合?」とか思っていました(笑)。やたらみんな「連合が、連合が」と言うので、「なんで国連の話をしているんだろう」みたいな、それぐらい知らないです。今、例えば私ぐらいの世代以下の人で、連合が何だか知っている人はいますか? 分からないですよね。

花井:
 私は連合の推薦で厚労省の委員をやっています。それは、推薦される段階で初めて、「さすがにどこにも関係のない人は出せないから」ということで、連合さんが、お世話になっているのでここでは「連合さん」と言いますが(笑)、連合さんが一応連合のメンバーの委員会を作ってくれて、そこから厚労省の委員に入っています。連合は大きな組織であり、歴史があります。一般的には、民主党の最大の支持団体と言われています。私も連合の幹部の方とお話をする機会はあって、ただその多くは連合に所属していない非正規な方が多いのですが、「今ほど労働問題が大事な時代はないんじゃないか」とか「連合としての取り組みはいかがですか」というような話をしたことが何度かあります。連合の方もやはり非常に問題意識を持っているのですが、「古い組織で、大きな組織だ」というところでのやはりある種の苦しさがあるようで、どこの組織でも、役人でも、解放同盟でもそうだと思うし、別にそれがどうこうというわけではありませんが、やはり老舗の大きな組織は、長い歴史のしがらみで、今起きていることに最善のことを「さぁ、やろうぜ」というような形ではなかなかできないということがあります。「タイタニック」のようなことがあるのではないのかなという印象は持っています。決して「無自覚」というわけではないのですが・・・

雨宮:
 私も連合の方に会ったことはたくさんあって、「非正規労働の問題とかにも取り組む」とかは言っているし、もちろん問題意識を持っているということも知っているのですが、やはり作法とか振る舞いが違うじゃないですか。大きい労働組合のおじさんが、フリーターで労働運動をやっている人と飲み会とかに行くと、割り勘で3000円とか要求するわけですが、フリーター側はそんなに払えるわけがないのです。フリーターで労働運動をやっている人は、まず居酒屋なんて行かないでいつも路上で飲んでいるし、でもたぶん連合の人は路上で飲まないというか、「路上で発泡酒」なんて怒ると思うのです。でも、コミュニケーションを取るためには、一緒に飲んだりとかは重要なことじゃないですか。そのハードルが貧乏だと越えられないし、向こうはそのハードルを越えさせるために「おごらないといけない」ということになるので、まずそこから違うのです。あと、私がかかわっているようなフリーターの人とかからすると、やはりこれは労働運動であり生存運動なのです。ですので、やはり連合のようなすごく大きな組織がいろいろなことをやるということは、とても重要なことだと思います。それでずっとメーデーとかもやってきて、そこでそういう大きな組織がもっと強くたくさんのことを言ってくれるということは、非正規労働者全体にとって絶対に良いに決まっています。こちらとしては最低限の要求というか、そういうところである意味いっぱいいっぱいなので、「連合に対して、どう思いますか?」という質問に対しては、「もっといろいろ要求して、がんばってほしい」と答えます。結局、大きいところがどんどん要求してくれると、非正規労働の人の権利も守られる方向にあると思うので、「よろしくお願いします」ということです(笑)。

花井:
 その通りですね。

雨宮:
 あと、できればフリーターの活動家にはおごってほしいと思います(笑)。

(注11)正式名称「日本労働組合総連合会」。日本の労働組合におけるナショナル・センターであり、すべての働く人たちのために、雇用と暮らしを守る取り組みを進めている。(参考:連合ホームページ

ファッションへのこだわり

花井:
 次の質問ですが、雨宮さんのファッションへのこだわりを聞かせてください。

雨宮:
 今日はそうでもないですが、基本的にゴスロリ(注12)の格好をしています。ゴスロリの格好を始めたきっかけは、セクハラ対策でした。私は25歳で1冊目を出してデビューしたのですが、中小出版社の社長とかにセクハラをされることが多くて、それが私はすごく嫌で嫌で、絶対にセクハラをされない方法を考えたら、「変な格好をすればいいんだ」と思い付いたのです。軍服とかだと絶対にセクハラされないですよね(笑)。だから、そういうことをいろいろと考えて、変な格好だけど自分との折り合いもつく格好、つまり自分も好きでセクハラをされない格好、それがゴスロリだったのです。ゴスロリの格好になった途端、一切セクハラもされなくなりましたが、「好きな男にも相手にされなくなる」という重大な副作用も生み出しました(笑)。だから、「なぜ私がゴスロリの格好をしなければならなかったのか」という、これも一つの私の重要な人権問題です。

花井:
 初めて知りました。

雨宮:
 絶対にセクハラされないので、もしセクハラに悩んでいる人がいたら、ゴスロリの格好をお勧めします。一部マニアはいるのですが(笑)、でもマニアの人は気が弱いから絶対にセクハラしてきません。ですから、セクハラ対策にゴスロリの格好はある意味適していると思います。

(注12)ゴシック・アンド・ロリータ(Gothic & Lolita)の略称。本来異なるゴシックとロリータの要素を結びつけた日本独自のファッションスタイル。またそのようなサブカルチャーを指して言う語。

居場所を作る

花井:
 先ほど「右翼が救いになった」というお話があった一方で、今は「ネット右翼」などと言われていますが、アパートのパソコンの前の狭いところからいきなり大上段に構えて、「国家が・・・」とか「朝鮮が・・・」などというところに一気にいってしまうという負の部分もあると思います。そういう「いきなり国家」ということは防げるのでしょうか。今日の出演者の方々は、仲間と出会うことによって防げたと思うのですが、いわゆるそういうふうな方向に行ってしまわないうちに仲間と出会うということの大事さがあると思います。でも、そういう機会はなかなかないですよね。先ほど木脇さんがおっしゃっていたことは「そういうことをやりたい」という話にも聞こえたのですが、そういう労働者が立ち上がっていくために仲間と出会って救われる場というものがあれば、どちらかというと助かる部分もあると思います。そういう出会いの場というものは、今はどうですか? やはり増えていると思いますか? それとも減っていると思いますか?

雨宮:
 もちろん、小規模ですがそういうフリーターなりプレカリアート当事者の労働組合みたいなものは、前は全くなかったわけですから、微妙に増えてはいます。でも、やはり個人の受け皿になるようなものでは全くないし、もちろんそれ以外にも引きこもりやニートなどを支援するいろいろな場所はありますが、やはり「居場所を作る」ということはすごく難しいと思います。なぜなら、長くなると「主」みたいな人が現れて、逆に「居場所」なのに「常連以外は入れない」みたいな感じになってしまうし、そんな「100人の居場所」とかなんて成立しないじゃないですか。せいぜい10数人ですよね。それでそこにさらに「誰でも入りやすく」だとか、そういうものを作って運営していくのは、実はすごく大変なことです。
 私は「こわれ者の祭典」という、心身障害者のイベントの名誉会長をやっているのですが、そのイベントなんかは、それ自体が一つの場として成立していて、そこで初めて自分と同じリストカットだとか自殺未遂、生きづらさを抱えている人たちと出会う場にもなっています。ですので、そういう「場」というのは、イベントであったり、デモであったり、そういう意味では結構あるのですが、それは「自分で調べなければ出てこない」というか、普通に生きていていきなりそういう場に入っていけるということはなかなかありません。
 みんなが個々で苦しんでいるのは、例えば「派遣で、これからどうしていいのか分からない」とか「そういう話をできる人がいない」ということです。友達とかでも、その人が正社員だったりすると、「いつまでも甘えてないで・・・」とか説教をされるし、親にも説教をされるし、親戚もよく分かっていない状況で説教をするし・・・というように、決して自分が悪いわけではないのに、みんなから否定されている。だから、そういう人が「そうじゃないよね」という話ができる場は必要です。もちろん友達とそんな話ができれば、そこも一つの場になるわけですし、でもそういう人がいなければ、そういう問題を扱っているイベントとか、何らかのスペースとか、団体なりネットワークなどに行くとか、そういう意味では昔よりは多いと思います。あと、田舎だとさらに難しいです。こういう運動が成立するのは、ある意味都会だからであって、本当に田舎だと、若者自体があまりいないし、田舎で引きこもっていたり、田舎で非正規労働者だったりすると、本当に近所の人の目とか、そういうものとの闘いになってしまいます。ですので、結構「田舎で暮らしている厳しさ」みたいなことはよく聞きます。

私たち一人ひとりが問われている

花井:
 出演者の皆さんに、「これだけは言わずに帰れない」ということがあれば、一言ずつお話いただきたいと思います。

木脇:
 学校だったり家族だったり仕事だったり、それを「当たり前のことだ」とずっと思っていると、自分を責めてしまったりとか、そういうことがたくさんあるのだろうなと思います。そうではなくて、いろいろと疑いながら、みんなが自分の納得できる選択をしていけるような環境作りに、これからも携わりたいなと思っています。

花井:
 言ってみれば、木脇さんがやっている今の仕事が、その「場」作りの仕事だということですね。これからも「場」作りをやっていただいて、またいろいろなところに出てきて発言をしていただきたいなと思います。

中崎:
 今日は、社会なり生きづらさとか、人権についてお話をしてきました。私は勝手に「3M」という言葉を使っていて、「3M」とは、「無知」、「無関心」、「無責任」という言葉の頭文字なのですが、結構今の日本の国民は、実は自分は当事者なのに、それを知らなかったり、気づいていなかったり、知らないふりをしていたりなどということがあるので、一人ひとりがそういうことを、人権についてのことなども、いろいろと考えてもらいたいなと思いました。

崔:
 私も、最初このパネリストの依頼を受けた時に「在日としての生きづらさを語ってほしい」と言われたのですが、最初に自己紹介をしたように、私は特に生きづらさはなかったので(笑)、「そのテーマではすごく困ります」という話をしていました。でも生きづらさというものは、みんなたぶん何かしら絶対に抱えていて、それこそ仕事の話であったり、性の話であったりとか、あと原発の問題などもそうだと思うのですが、必ずしもその生きづらさは、自分がマイノリティの当事者だから、マイノリティという自分の性格からくる生きづらさだけではないと思うのです。例えば、在日でも十分な収入がある人もいれば、もう明日生きるだけでも精一杯という人もいるという形で、生きづらさの源泉みたいなものはたぶんいろいろな形であって、「マイノリティだから生きづらいんだ」という形ではたぶんないのだろうということを、今日お話していて思いました。今回は、一つのテーマとして「当事者」という言葉が出てきていると思うのですが、僕だったら今日は「在日としての当事者」という形だと思います。そういうふうに、労働だとか恋愛だとか民族だとか、それぞれがいろいろな形の当事者だと思うので、そういういろいろな当事者性を抱えた人たちの間で連帯しながら、楽しい世の中を作っていければいいなと思います。

花井:
 雨宮さんはやられていることが広く、いろいろと突き詰められなかった部分も多いのですが、今日は若い人もたくさん来てくれていますし、これから希望もたくさんあると思います。その未来の希望に向けて、今これを自覚してやろうということがあれば教えてください。

雨宮:
 私は貧困や労働の問題をやっていますが、いじめの問題などにも前にかかわっていたり、自殺の問題にもかかわっています。その中で、やはりいちばん気になるのが、なかなか人に「助けて」と言えない、「助けを求められない」という状況です。札幌で餓死した姉妹は、3回生活保護の申請に行っていたのですが、先ほどお話しした埼玉で親子3人が餓死したケースでは、1回も、どこにも助けを求めていないのです。「親子3人が餓死」といっても、一気に餓死するわけではなく、結構日数が違って死んでいくと思うのです。一人が亡くなって、また一人が亡くなって、一人が残されて・・・という状況は、ものすごい恐怖です。食べ物もお金もなくて、2人の遺体があって、それでも助けを求めないというのは、「いったいどういうことなのだろう」と思います。そういう助けを求めないで餓死する人、自殺する人がいるという、そちらの問題がすごく気になっています。
 まだ助けを求めてくれれば、こちらは対応のしようがあるのですが、でも「人にSOSを発信する」ということは、すごくいろいろな条件というか、前提が必要だと思っています。まず「自分は助けられるに値する、生きる価値のある人間である」と自分が思えていないと、人に「助けて」なんて言えないのです。貧困の当事者だとか、生きづらい当事者は、「自分なんか生きていてはいけない」、「自分が生きていて、人に助けを求めるなんて、本当に迷惑だから、絶対にしてはいけない」とすごく思っているのです。あともう一つ、人に「助けて」と言える条件は、他人とか社会に対して、欠片でも信頼感があるかどうかです。やはり、信頼感がもう全くなくなっている人が多いです。例えば、労働なんかの問題でも、貧困でホームレス状態になってしまっていると、それまでに人に裏切られて騙されて酷い目に遭って、場合によっては貧困ビジネスに引っかかったりして、本当に酷い目に遭っているから、逆に自分の窮状を知られたくないわけです。「自分の窮状がバレると、もっと酷い目に遭ってしまう」という不信感しかないから、とてもじゃないけど「助けて」なんて言えないのです。私が支援の現場で会った人の中にも、明らかに大変だと分かるのに、「本当に大丈夫です」とすごく拒絶する人がいるのです。それは、その人が今までの経験上、「そんなふうに言ってくる人は危ない。自分を酷い目に遭わす人間だ」と思っているからです。やはりそのようなSOSを発信できない人が多い社会は、すごく病んでいると思います。
 あと、「自分がちゃんと『助けて』と言ってもらえるのかどうか」ということも重要なことです。人に対して「そんなこともできないのか」とか「いつもそんなことをやっているのか」みたいなことを言い続けている人は、絶対に人に「助けて」と言ってもらえないというか、人に対して一つの壁を作ってしまっていると思います。そういう意味では、社会だけでなく、私たち一人ひとりが問われていると思います。結構自分が人に「悩みとかぶつけてよ」としつこく言っていると、向こうも「もしかしたら良い奴なんじゃないか」と思ってくれるので、もっと普通に助け合える関係というか、「プチ迷惑」だったらかけられる関係というものを作っていくことが、みんなにとって良いような気がします。ですので、最終的にはもっと「迷惑をかけろ」ということです。私はいろいろ迷惑をかけています。その方が、いろいろ言ってもらえるのかなと思っています。

花井:
 人は「プチ迷惑」ぐらいならかけてほしいものなのです。人は「自分のキャパシティを侵されない程度には、誰かを助けたい」と、実は思っていると思います。

雨宮:
 健全な人間関係ですよね。でも、今はすごく不健全で、「1ミリも迷惑をかけてはいけない」みたいな関係がすごく多いと思います。私は自分が率先して迷惑をかけることによって、人にSOSを発信させやすくしているので、「酔っぱらって暴れる」ぐらいはちょうどいいんじゃないかと思います(笑)。もう少し迷惑をかける練習をした方がいいでしょうね。それが少し生きやすくなるコツかもしれません。

花井:
 いろいろなお話が出ましたが、皆さん「あれをもっと聞いてほしかった」とか、「あれをもっと突き詰めてほしかった」ということだらけだということは十分承知しつつ、次へつなげていくということで、本日はこれで終わりたいと思います。皆さん、本当にありがとうございました。