「誰とどんな風に暮らしたい?-広がる家族観」
司会:川崎 那恵
パネリスト:新井 智愛、上原 賢子、西山 千都
リバティおおさか(大阪人権博物館)
はじめに -女性から発信する意味
川崎:
皆さん、こんにちは。本日は私たちのイベントにお越しいただきまして、ありがとうございます。今日は「家族って何だろう?」ということを考えていきたいと思います。
皆さんもご存じの通り、今は人と人との関係が多様になってきています。しかし、嫡出子の問題を例に挙げると、非嫡出子の相続差別について最高裁が違憲という判決を出したのに、自民党を中心とする政治家たちからその最高裁の判決について批判の声が上がっていて、そういう声がマスコミで大きく取り上げられたりしています。私たちの生活や生き方はとても多様になっているはずだと思うのですが、そのようなことは新聞やテレビなどのメディアではなかなか取り上げられません。例えば、夫と死別した母、自分の意志で離婚した母、結婚を選ばなかった非婚の母の3パターンのうち、制度面でのいろいろな面での保障がなされていないのが非婚の母であるという差別があることを私は最近知りました。こういった制度面でのいろいろな違いが、今私たちが実際に生きている社会の中で設けられています。こういう制度に乗っかっていかないと、ある種不当な扱いを受けることがあるのではないか。また一方で、今は制度に乗っかると楽、優遇される世の中なのではないか。だから制度に誘導されて、本当はそうしたくないと思っていても、今はそれに乗っかっていれば楽だからそういう選択をすることもあると思います。例えば、結婚という文脈において、それはすごく大きな影響を与えているのではないでしょうか。そういうことも今日はもう少し捉え直してみたいと思います。
今日のパネリストの方々は、見た感じは全員女性なのですが、今の日本は主にオヤジたちが中心になっていろいろなことを決めている社会になっています。ですので、今日だけはジェンダーバランス的に女性たちでいろいろな話をして、いろいろな情報を発信して考えていけたらと思っています。
私なりの生き方
川崎:
まず、パネリストの方々に簡単に自己紹介をしていただきたいと思います。上原さんからお願いします。
上原:
皆さん、こんにちは。上原賢子といいます。35歳です。夫婦別姓の事実婚を選択して暮らしているということで、今日のイベントのパネリストに招いていただきました。私の現状をお話しします。
私は2010年3月に、いわゆる婚姻届を出さない事実婚という形で結婚しました。これを結婚というのかどうかは分かりませんが、一応両家にお互いを紹介し、結婚式などもして、職場や友人の前ではお互いを「夫」と「妻」という形で紹介しているので、自分たちとしては結婚と考えています。今はその年の12月に出産した長男と3人で、大阪市内で暮らしています。
婚姻届を出す法律婚をすると戸籍は一緒になるのですが、私たちは事実婚なので戸籍が別々です。ですので、出産した長男は自動的に私の戸籍に入って私の名字を名乗っていました。その後、子どもには夫の名字を名乗らせようと夫婦で決めて、その手続きをしました。今は、子どもは夫の姓、私は私の姓という形で生活しています。
なぜ事実婚を選んだのかというと、それはすごく単純なことです。「そんなことで大丈夫か」と言われそうなのですが、私たちにはそれぞれ生まれてから30数年間共に暮らしてきた自分の名字を大切にしたいという気持ちがありました。私の方がそういう希望が強くて、結婚にあたって夫に提案したところ同意してくれました。今の民法だと、「夫婦は婚姻の定めるところに従い、夫または妻の氏を称する」と定められています。「氏」とは名字のことですが、どちらか一方の名字に合わせなければいけないということです。私たちはそういう制度に疑問があり、それぞれ生まれてからずっと使ってきた名字をこれからも使いたいということで、婚姻届を出さない事実婚という形を選びました。
家は賃貸なのですが、夫は「アサクラ」という名字で、私は「ウエハラ」ですから、アイウエオ順で夫の名字を先に書いて、私の名字を後に書いたシールを扉に貼って、表札代わりにしています。もし私の夫が「キノシタ」さんだったら「ウエハラ、キノシタ」の順になったのかなと思うのですが、荷物や郵便物は「アサクラ」で届くこともあるし、「ウエハラ」で届くこともあります。2人とも仕事をしているので保育所に子どもを預けています。その上で今のところ特に困ったことはないのですが、今回のお話の中で、おいおいその辺りのこともお話ししていきたいと思っています。よろしくお願いします。
西山:
こんにちは、西山千都といいます。私はレズビアンで、7年ぐらいお付き合いをしている同性のパートナーと、今年2月に出産して今9ヶ月になる子どもと3人で暮らしています。
私は中学生ぐらいの時に「女の人が好きかなぁ」と思い始めました。それから女の人と付き合ったり別れたりして、今32歳です。レズビアンとして生きながら、でも子どもが欲しいと思ったのは結構最初の頃からです。高校生ぐらいの時から、将来は結婚しないで女性のパートナーと暮らしたいと思いつつ、でも子どもとも一緒に暮らせたらいいなと思っていました。そして28歳ぐらいの時に「もう実行するぞ」と思い、ゲイの友人に協力してもらって子どもを授かりました。
今は私と私のパートナーと子どもという構成なので、すごく核家族的な、結婚しているカップルのような形なのですが、最初からそういう意識でいたかというと、あまりそうでもありませんでした。子どもを授かりたいと思った時に、最初はカップルだから二人三脚で、足並みを揃えていかなければいけないと思っていたのですが、私とパートナーとの間にはすごく温度差があったのです。私の方が実際に産む立場なので、毎月の排卵日がどうだとか、産んだ後の法律的なことがどうだとか、すごくヒートアップしていて、パートナーにそこまでついてきてもらうのは難しい感じがしました。二人三脚だと思うと、すごく足の速い人と少し足の遅い人の二人三脚みたいになってしまって、どちらにとってもストレスになるのではないかと思い、二人三脚はやめました。でもパートナーではあるので、パートナーには私が走るのを応援してもらうとか支えてもらうとか、そういう感じにしようと思いました。
私とパートナーの関係によって子どもとパートナーの関係も決まってしまうのはどうなのだろうということが気になりました。だから実際に生まれてきて、会ってみてから2人の関係を作ってもらう方がいいのではないかと思いました。でも妊娠している時からパートナーがお腹に話しかけたりして、お腹の中と外でも少し関係ができているような感じがありました。今はもう生まれて9ヶ月になって結局ずっと一緒に暮らしているのですが、だいぶ私のパートナーと子どもとの関係も何かしらできているのではないかと思っています。
新井:
こんにちは、新井智愛です。30歳で独身です。私は児童養護施設で育ちました。児童養護施設は、社会的養護と言われている6種類の施設のうちの一つです。乳児院、里親、自立援助ホーム、児童自立支援施設など6つの施設があります。私はその中の一つの児童養護施設で育ちました。
児童養護施設は、虐待やネグレクト(育児放棄)、または親が死んでしまったり行方不明になったり精神疾患になってしまったりということが原因で、唐突に親と離れることになってしまった2歳から18歳までの子どもたちが生活するところです。児童自立支援施設は、18歳(場合によっては20歳)までの非行傾向の子どもが入りがちな施設です。自立援助ホームは、15歳から20歳までの学校に行っていない若者が親と離れて住むところです。だから児童養護施設を18歳で出てからの2年間だとか、児童養護施設への入所は学校に行っていることが条件なので、例えば高校受験に失敗したり、留年したり、何らかの形で学校に行けなくなると同時に児童養護施設は出ていかなければならなくなります。そういう場合に自立援助ホームが利用されます。里親制度は皆さんも聞いたことがあると思います。
私の場合は、5歳から14歳まで、2歳年下の弟と児童養護施設で暮らしました。入所理由は、父の母に対するDV(注1)で、親権を争っている間はとりあえず一時的に施設に入れようという話になったからです。その親権争いは父が勝ったので、親権は父に行きました。一応父と母の間では、「父は親権を得る代わりに家庭できちんと過ごすように」という決まり事があったのですが、父は私たちを施設に入れたままどこかに蒸発し、それ以来会っていません。ですので、私は母が見つかるまでの9年間をずっと児童養護施設で弟と2人で過ごしました。
児童養護施設は全国に585ヶ所あり、約3万1000人の子どもたちが生活しています。7割が大舎制で、30人以上から多いところで50人や100人を見ている施設もあります。私は50人規模の施設で、定員ギリギリの50人で生活していました。施設の話となると、いろいろダークな話がたくさん出てくるのですが、それを話すと同情の目で見られたり、「かわいそうに」と思われるのが嫌なので、そういった話は当事者がたくさん集まった時に話しています。
私たちの時代はいわば暴力がしつけでした。先生からはしつけと称してバシッと手が出るのは当たり前ですし、子ども同士の間でも先生の見ていないところで暴力はありました。もちろん汚い言葉は日常的なものですし、性的暴力も他の子どもから相談されたこともありました。それは先生が知らない範囲で、子どもたち同士の間で行われていました。そういう感じで、私からすると「日常的に暴力と共に生きてきた」というイメージです。今はいろいろな虐待や体罰などのニュースの影響もあったのか、制度を変えていこうということで、先生からの暴力はなくなったようです。ただ、今増えているのが「子どもによる先生に対する暴力」です。先生が子どもに手を出せなくなっているのをいいことに、子どもの方から先生にケンカをふっかけて、先生が我慢できずに手を出してしまい、それを子どもは「児家セン(児童家庭支援センター)」と呼ばれるワーカーさんに「先生に殴られた」と言いつけて先生に謝罪させるということもあったり、立場が逆転しているというようなことが今増えているという話を聞きました。
母が見つかったのは14歳の冬でした。親権は父だったので、私たちはずっと「お父さんがいつか迎えに来てくれて、お母さんがあんたらを捨てたんやで」と思い込んできました。ですので、私も弟もそういう認識でいました。母親が見つかった経緯なのですが、1994年の子どもの権利条約批准の関係で、子ども家庭センターのワーカーさんが施設に来ました。「職員さんは席を外してください。子どもたちの声を直接聞きます」ということで、当時小学校4、5年生ぐらいだった私に「何か困っていることはないか」と聞いてきました。私はそんなことは何も言えるわけもなく、言ったら他の子どもに言いつけられると思って黙っていたところ、同い年の女の子が「智愛のお母さん探しや。あんたのことを捨てたんやから、私が殴ったるわ」みたいなことを言い出しました。みんなも「よっしゃ、探して殴ろうぜ」みたいなことを言い出したのですが、その声を本当にワーカーさんが拾ってくれていて、それから4年の月日が流れた14歳の冬に「お母さんが見つかりました」ということで再びワーカーさんが来たのです。その時に、自分が日本人ではなく在日韓国・朝鮮人だという事実を知って余計にパニックになったのですが、何も分からないままその3、4ヶ月後には母に引き取られることになりました。本来であれば、おそらくもっと母と子どもの関係ができてから家庭引き取りになると思うのですが、たぶん職員側とワーカーさんが「お母さんには安心な家庭を築く能力があり、戻っても何ら影響はない。きちんと寝泊りもできるし、ご飯も食べさせてくれる温かい家庭だ」という判断をし、引き取られていくことになったのだと思います。実際にはその時はまだ親とはそこまでの関係性はなかったのですが、結局そのまま弟と2人で引き取られていきました。その後いろいろあって、高校も出させてもらい、大学にも行かせてもらって、22歳から一人暮らしを始めて現在に至ります。
今は、大阪の箕面市にある北芝という被差別部落地域でまちづくりの仕事をやっています(注2)。あと、今は自立援助ホームが全然足りていないという問題があります。自立援助ホームは15歳から20歳までの若者が入るところですが、20歳という年齢で区切ることのない形のハウスの運営も担当させていただいています。
川崎:
新井さんと私は友人で、共に30 歳で同世代です。被差別部落の問題をご存じの方がどのぐらいいらっしゃるのか分かりませんが、私は大阪の被差別部落の出身です。大学生の時に被差別部落について学んでいく中で、自分のルーツと向き合いました。その結果、家族である父と母の生き方を理解できたという経験があります。
部落問題においては、結婚差別がまだ根強く残っています。子どもの結婚相手が被差別部落の出身だったら反対するという親が、地方では3割、都会では1割ぐらいの割合でいるということがずっと言われ続けています。なぜこういうことが続いているのかというと、結婚制度そのものに、排除していく、選別していくという構造があるからです。私自身の結婚というものについての疑問はそこにあります。私は今、平日は働いているのですが、そこではやはり「結婚する」ということはすごく祝福されることとして扱われます。私自身、もう30歳になっているので、「結婚しないの?」とか「子どもは産んでおいた方がいいよ」というようなことをすごく言われます。なぜ結婚や出産が「良い」ということになるのかということは問題意識としてあって、そういうことを今日のお話の中で深めていけたらと思います。
(注1)domestic violence(ドメスティック・バイオレンス)の略。近親者に暴力的な扱いを行う行為、ないしは暴力によって支配する行為全般を指す。
認めさせたら認められる
川崎:
父と母がいて、その中に子どもがいるという、いわゆる「家族」というものをイメージした時に、今日のパネリストの皆さんにはそれぞれ微妙なズレがあるのではないかと思います。この後は、「父」、「母」、「血のつながりのある子ども」という、一般的にイメージされがちな家族とは少し違う生き方をされている皆さんに、これまでの困ったことや面倒だったことなどをお話しいただきたいと思います。「なぜこんなに面倒なことになっているのだろう」とか、「でもこういうふうに乗り越えられるよ」ということもきっと出てくると思います。その辺りを共有して、今日ここに来てくださった皆さん自身が「こういう生き方もできるのではないか」とか、「こうすれば意外と簡単に乗り越えられるのかな」というような感じで、最終的に自分が囚われていたことから少しでも自由になれるようなイベントになればいいなと思っています。
今日のパネリストの中では、上原さんがいちばん一般的にイメージされる家族に近いと思います。しかし、上原さんは婚姻という形を選ばずに子どもを産んで育てています。上原さんは元々の自分の姓を変えたくなかったから、姓が変わってしまう今の婚姻制度は選択しなかったということでした。その一方で、上原さんは結婚式を挙げたりなどされていて、私は「なぜ結婚式なんか挙げるのだろう」と実は少し不思議に思っています。その辺りのことを聞かせていただけますか。
上原:
私たちが一般的な結婚と違うところは事実婚であるということだけで、あとはすごく古臭いというか、とても普通なのです。私は職業が新聞記者なので、自分自身が新しい家族を作る以前から、婚外子の問題や民法の家族制度の問題などについては、取材の中で勉強したり、それを報道したりするような機会がありました。ですので、そういう問題は元々少し身近にありました。
川崎:
上原さんはそういった問題を取材する前から、自身の生き方の選択について事実婚を選ぼうという考え方があったのですか?それとも取材と同時並行で深めていったのですか?
上原:
説明をすると少し長くなるのですが、取材をした方は元々戸籍上は女性だった性同一性障害の人で、男性に性別を変更して、その後女性と結婚をしました。その人は元々女性で生殖能力がないので、第三者の精子提供を受けて子どもを作ったところ、その子はその夫婦の子どもとして認められなかったという問題をご存知の方もおられると思います。この問題は今裁判にまでなっているのですが、私は元々セクシャル・マイノリティ(性的少数者)の問題に関心があったので、この問題を取材する機会をいただきました。私が結婚したのが2010年の3月なので、その直前の2009年の秋ぐらいからその問題を取材し始めました。その取材の中で初めて民法や婚姻制度などを勉強して、法律婚をしないと子どもは夫婦の共同親権で育てられないことや婚外子という言葉などを知ることができました。また、直接は関係がないのですが、夫婦別姓を訴えてずっと運動してきた人たちが各地にいたり、先日違憲の判断が出ましたが、婚外子の相続が婚内子の半分しかないということに対して「おかしい」と声を上げている人たちがいるとか、そういうことを仕事の中で知り得る機会がありました。それで、結婚したら夫婦どちらかの名字に合わせなければいけないというその婚姻制度自体に疑問を感じるようになっていきました。
川崎:
仕事を通じていろいろな情報を知ったことが、今の自分の「婚姻届を出さない」という選択につながっているということですね。
上原:
少し影響は受けていると思います。
川崎:
上原さんにとっては「姓を変えたくない」ということがやはりいちばん大きなことだと思いますが、その気持ちはずっとあったのですか?
上原:
ずっとありました。これしか理由がないのかという感じですが、やはりこれは本当に大きかったです。ただ、法律婚をして配偶者の名字に変わっても、旧姓を仕事上の通称として名乗っている人たちは会社にたくさんいます。私も結婚後も仕事上では旧姓を通称として使い続ければいいのですが、やはり日常生活で使う名字、生まれながらの名字が変わるということは考えられなかったです。「主婦」という仕事を選んでらっしゃる方は知っていると思うのですが、扶養控除は法律婚をしないと適用されません。ですので、もう一つの大きな理由としては、私が仕事をしているということがあります。仮に私が主婦だったらどうだったかというと何とも言えないのですが、私が仕事をしていることは事実婚を選択する後押しになったとは思います。
川崎:
名前の話が出たので、そのつながりで西山さんにお伺いしたいと思います。西山さんは、今日は「西山千都」というお名前で登壇していただいているのですが、そのお名前は実はペンネームというか仮の名前でいらっしゃいます。それはなぜなのでしょうか?
西山:
西山千都は仮名です。今まで私はレズビアンとして人前で話をするのにずっと本名を名乗っていたのですが、子どもが生まれる前から、子どもが生まれた後の本名での活動について「どうしようかな」とも思っていました。実際子どもが生まれて、特に子どもが小さい時は、やはり子ども関係の書類には保護者として絶対に私の名前が付いて回るのです。「子ども名」と「保護者名」は「2つで1つ」みたいな感じで扱われていて、それがものすごく強いので、私が自分のことを「レズビアンで、子どもがいて・・・」みたいな話をすると、子どもの家庭の背景についてまでアウティング(注3)してしまうことになります。つまり、子どもの背景のことを勝手に私がバラしてしまうことになりかねないのです。それで「どうしよう」と思って今日は違う名前にしてみました。実験的というか、まだ試行錯誤中な感じです。
川崎:
今は子どもと親はセットで見るということが当たり前になっています。西山さんは、「自分はレズビアンである」ということをカムアウトすれば、それは同時に子どもにとっては「自分の母はレズビアンである」ということを自動的にカムアウトされてしまうことになるとおっしゃいました。つまり、今はまだ自分で「こうしたい」などと言えない幼い子どもに自分の生き方が影響を与えてしまうことになるということです。だから、母が言うことによって「子どももそうだ」とみなされることを避けるために、仮名を使うという選択で西山さんは今日ここに出てくださっています。上原さんは子どもとは名字が違うわけですが、やはりその部分での苦労や、セットに見られない工夫などあれば教えていただけますか?
上原:
一般的なご家庭はどこも、お父さん、お母さん、お子さんとみんな同じ名字だと思います。結婚する時にどちらかの名字に合わせることを「したい」と思うのだったら、私はそうしたらいいと思います。家族が一つの名字であることによって一体感が生まれると考える人たちは、それはそれで私は尊重します。ただ、私はそういうふうには思わないので、そういう選択をしなかったというだけです。
夫と一緒に暮らすようになって最初のお正月だったのですが、年賀状をたくさんいただきました。結婚したのがその前の年の3月だったので、結婚した報告を親しい人たちにハガキで知らせました。わざわざそこに「私たちは事実婚です」とは書かなかったのですが、一応夫の名前と私の名前をそれぞれ書いて出したのです。私の友達や仕事関係の人たちには私の名前を先に書いて出し、夫の関係の人には夫の名前を先に書いて出しました。年賀状でも同じようにしているのですが、その結婚直後のお正月の年賀状には、私の名字を勝手に夫の名字に書きかえて、私のことを「アサクラサトコ様」と書いてきた人たちがいっぱいいたのです。それが結構衝撃でした。民法には「結婚したら夫の名字になる」なんてどこにも書いていません。昔はよくあったと思うのですが、お嬢さんばかりのご家庭で、そのお家の名字を守るために旦那さんが奥さんの名字になるというケースだってあるわけです。そういう背景事情を全部無視して、もしかしたらそういう事情があるのかもしれないのにもかかわらず、突然私が夫の名字になったと思い込んで年賀状を書いてくる人たちがたくさんいました。でもそこに全く悪気はないのです。その「悪気はない」というところに、世間の大多数派の「結婚したら女性は男性の名字になる」という思い込みが表れていて、私には結構ショックでした。それで、そういう人には一人ずつ返信する時に、「事実婚という道を選んだので、私はこれからも上原賢子のままです」ということは説明しました。仕事先の年配の男性などに説明すると、「そんなことは考えもしなかった」「勉強していきたい」と言われるぐらい、知っている人は知っているけど、知らない人は全く知らない、事実婚なんていう言葉は耳にしたこともないという人もいます。それは少しずつ説明していくしかないのかなと感じました。
子どもと私の関係ですが、子どもが生まれる前は結構「かわいそう」みたいなことは言われました。妊娠が分かって母子手帳をもらいに行った時に、保健師さんに「あなたの名字とご主人の名字が違うのはなぜですか」みたいなことを聞かれて説明したのですが、その時に「保護者と子どもの名字が違ったらややこしい」などと言われて驚きました。お役所的にはややこしいのかもしれませんが、私たちにとってはややこしくないのです(笑)。でもそれが本当にすごくショックで、まだ子どもを産んでいないからいろいろなことに対して不安になっていたのか、「こんなことで大丈夫かな」という気持ちになりました。親しい同僚などにも「子どもがかわいそうだ」みたいなことを言われたりして、今だったら「何がかわいそうなの?」と言い返せるのですが、当時は分からないことだらけだったので、本当に不安になりました。ただ、その後出産をして子育てをしている場面の中で、例えば子どもの保育所で、子どもと私の名字が違うことについて何か言われたことはまだ一度もありません。子どもの予防接種などの時には保護者のサインが必要なのですが、一応そのお役所の「ややこしい」という声を受けて、自分の名前の前に「母」と書いてサインをするという工夫はしています。だからといって何か言われたりするようなことは特になかったです。「ファミリー・サポート」という子どもを地域の人に預かってもらう制度があって、それに登録した時の子育てセンターや、子どもに病気があったので、セカンド・オピニオン(注4)を受けに行った時の病院で保護者の欄に私の名前を書いたのですが、その時には「お母さんの名前は上原さんというんですね」と確認されました。そのぐらいです。あと、私の家の扉には夫と私の名前を連名で書いているので、遊びにきたママ友が「えっ、別姓なの?」と驚きますが、それで終わりです。そういう感じで、実際に暮らしてみたら、日常生活でお付き合いのある人たちの中ではそんなに苦労はなかったというのが正直なところです。
川崎:
認めさせたら認められるというか、それが当たり前になっていく様が面白いですね。私も職場で「子どもを産む時にはやはり法律婚をとっておかないと」みたいなことを言われて、「えっ、なんで?」と思ったことがあります。そういうふうに「かわいそうだ」と言われていることは結構見聞きしていたので、「なぜそれが『かわいそう』になるのだろう」と思っていたのですが、実際にやってみると、その在りようを意外と周りは認めてくれるということですね。「母・上原賢子」と書くと、保育所でも「あっ、そうだった。アサクラ君のお母さんは上原さんだったね」と認めていくという感じで、そこは案外乗り越えられるのかなと思いました。
上原:
保育所の先生たちにとっては、子どもを預かっている間はきちんと見て、お迎えに来た親に確実に渡すということが何より重要な仕事なわけです。だから、はっきり言って私の名字なんて別にどちらでもいいのです。大事なのは子どもを安全にきちんと見ることであって、私が上原だろうがアサクラだろうが、保育所の先生たちにとっては何の関係もないのです。
保育所には、毎日先生とやり取りをする連絡帳があって、そこにお迎えに来る人の名前を書きます。必ず「母」とか「父」と書かなければいけないのですが、一度私はあまりに急いでいて「上原」と書いてしまったことがあるのです。そうしたら、帰りに担任の先生に「もうお母さん、上原って書いてあったから、『誰や、誰や』ってなって、『ベビーシッターさんか?』ってなったけど、アサクラ君のお母さんやって気づいた」と言われたのですが、それは私にとってとてもうれしい反応でした。笑い飛ばしてくれたというか、特に何かを聞くわけでもなく、関心を持ってもらったわけでもないのですが、「お母さんが上原さんだったっていうことを忘れていたんです~」という感じでサラッと流してくれたのが、やはり私の中ではすごくうれしかったです。毎日子どもを預けている保育所が、名字が違うとかそういうところとは関係のない、「子どもがいて、親がいて」という当たり前のところをきちんと見てくれているということを実感するような出来事でした。これはすごく心強かったです。
川崎:
今日のようなテーマについて問題意識を共有する友達同士で話していると、本当に私たちが考えていることが社会に受け入れられるのか不安を抱いてしまうこともあります。しかし上原さんのこの経験は、意外と周りも認めてくれているという具体的な事例だったので詳しく話していただきました。
(注3)他人の秘密を暴露すること。他人のセクシュアリティーを暴露する場合に多く用いられる。
(注4)患者が検査や治療を受けるにあたってより良い決断をするために、主治医以外の医師に求めた「意見」、または「意見を求める行為」のこと。
「いろいろな家族がいて、うちもその中の一つだよ」
川崎:
次は西山さんにお伺いしたいのですが、西山さんは今レズビアン同士のカップルで子育てをされています。法律婚をしないで子どもが生まれたという点では、世の中の非婚のお母さんと同じ状況です。その中での経験を聞かせてください。
西山:
私は結構のらりくらりとやり過ごしています。まず、職場ではレズビアンだということはカムアウトしていなくて、「パートナーがいて一緒に暮らしています」みたいなふんわりした感じで伝えています。ですので、たぶん向こうは「男性のパートナーと一緒に暮らしているんだろうな」とぼんやりと思っているような感じです。妊娠した時に「妊娠しました。でも仕事は続けたいです」みたいな話をしたら、「じゃあ結婚するの?」と聞かれたので、「結婚はしません」と言ったら、「あぁ、そうなんだ」みたいな感じで、わりと結構すんなりいきました。
職場でカムアウトしていないのは戦略的な部分もあります。わりと小さな職場なので、産休や育休を取ると、やはり残っている人に結構仕事のしわ寄せが行ったりします。するとどうしても「あの人が休んでいるから・・・」というような、少し黒い感情が浮かんできたりすることもあると思うのです。そこにプラスして「レズビアンなのに産休」などという要素が加わったら、さらに「あんな身勝手な奴のために・・・」という感じになるかもしれません。私が結婚して男の人といようが、結婚せずに女の人といようが、職場の人たちにとっては関係ないはずなのですが、やはり感情の上では少しマイナスに働いてしまうことがあるのではないかと思います。また、私が産休と育休でしばらく職場を留守にしている間にそういう悪い噂や感情が炎上してしまったら、自分がいないだけに火消しに回ることができません。自分がその場にいたら少しはフォローすることもできるかもしれませんが、「自分の知らないところで炎上していて、職場に戻ったらすごく冷たい空気になっていた」ということになるとしんどいです。だから、そこは戦略的にカムアウトしないで、「結婚しないでパートナーと暮らしているんです」みたいな感じで、なんとなく伝えています。
保育園の方は、子どもの背景を私がアウティングしてしまうのはどうかと思ったので、「同性の友人と一緒に暮らしていて、子育てを手伝ってもらっています」みたいな感じで伝えてあります。保育園には、朝は私のパートナーが子どもを送って行って、夕方は私が迎えに行っているのですが、ある日パートナーが子どもを連れて行った時に、先生に「○○ちゃん(西山氏の子ども)にはなんて呼んでもらう予定なのですか?」と聞かれて、「××ちゃんと呼んでもらう予定です」と言ったら、「じゃあ私たちも××ちゃんって呼びますね」と言ってくれて、「×× ちゃんにバイバイしようね」とか「××ちゃんが迎えに来たね」みたいな感じで扱ってもらっています。それで少し気持ちが楽になりました。パートナーについては自分から「友人」と申告していたのですが、ずっと「あの友人の方」みたいな名前のない扱いだとしんどいなと思っていた部分が、「××ちゃん」という固有名詞が与えられたことで、日誌などにも「今日は××ちゃんとお留守番していました」みたいな感じで書けるようになりました。パートナーが保育園の中でそういう名前のある存在になったことで、保育園との関係はすごく楽になりました。
面倒なこととしては、お役所とのやり取りが多いです。母子手帳をもらいに行くと、妊娠届というものを出さなければいけないのですが、そこにお父さんの名前を書く欄があったのです。その時は子どもとお父さんの関係をこれからどうしていくかがあまり定まっていなかったので、空欄で出しました。そうしたら、受付の人が「えっ?」みたいな顔をして、「結婚していなくても、事実婚でもいいので、ここにお父さんの名前を書いてください」と言われました。私は「なぜ書かなければいけないのだろう」と思いました。これは別に婚姻届などではありませんし、これを書いたからといって、例えば養育費で父親ともめたとしても役所が何をしてくれるわけでもありません。ただ単純に情報として向こうが知っておきたいだけで、ただ書かせたいだけなのです。だから、お父さんの名前は断固書かずに「空欄でいいです」みたいな感じのやり取りをしばらくしました。そんな感じで、お役所は「こんな人は初めて見ました」みたいな反応をするのですが、この間「みなし寡婦控除(注5)が適用されるかもしれない」というニュースの中で、大阪市には4900世帯も非婚の親世帯がいると聞きました。非婚の親世帯なんてたくさんあるのに、お役所は慣れていないんだなと思いました。
川崎:
そういう一つの型にはめたがる役所などがこの社会の中にあって、その中で子どもは育っていきます。ですので、子どもに親の在りようを認めてもらえないと、子どもがその社会の側の押し付けに負けてしまって、「なぜお母さんはそんな選択をしたのだろう」と考えて悩んでしまう可能性があるのではないかと思います。そこがいちばん悲しいです。世間では、子どもが小学校から中学、高校と育っていく中で、「父がいて、母がいて」ということはある種当たり前のことですが、自分はそうではないということ、あるいは子どもを育てる中で同性のパートナーがいること、またゲイの友人に精子をもらったとのことですが、その生物学的な父は今一緒にはいないことなど、西山さんは子どもにどう説明していこうと考えておられますか?
西山:
どうにかして伝えていこうとは思っているのですが、嘘はつきたくないので、ありのままを伝えると思います。ただ、発達に応じて、年齢に合わせて分かるように伝えていきたいと思っています。こういうことは「出自に関する告知の問題」などと言いますが、実際に子どもが生まれる前から、子どもが欲しいと思っていた時から、子どもにこれをどう伝えたらいいのかということは結構大きな問題として捉えていて考えていました。ただ、その時に考えていた子どもは「漠然とした子ども」なのです。実際に子どもを産んでからは、子どもといってもみんな同じではないし、結局生まれてきたその人の性格などに合わせないと考えられないと思うようになりました。とりあえず大まかに「嘘はつかない」という方針だけは決めています。また、「これが正しいんだ」と押し付けるのではなくて、「いろいろな在り方があるんだよ」ということを知ってほしいと思っています。「いろいろな家族がいて、うちもそのいろいろな家族の中の一つだよ」という感じです。あとは、「世の中には矛盾もたくさんあるんだよ」と言うと難しいですが(笑)、そういうことも少しずつ伝えていきたいと思っています。
子どもの父親のことですが、元々子どもとお父さんの関係は、イメージとしては「離婚したお父さんとお母さん」、「一緒に暮らしてはいないけどお父さんがいて、たまに会う」みたいな感じになればと思っていました。しかし、向こうの考え方では「それだと子どもが混乱するのではないか」、「あまり中途半端に関わると子どもに良くないのではないか」ということで、私はそうは思っていないのですが、今は少し距離がある状態です。ただ、「会いたい」と言われたら会えるようにはしたいと思っているので、関係が切れないように、まめに子どもの写真をメールで送ったりしています。
川崎:
今の世の女性たちが「旦那はいらないけど子どもは欲しい」という場合に、「精子を選んでいく」ということが現実的になっています。これは好奇心なのですが、西山さんは精子をもらう男性はどうやって選んだのですか? こういう話をしていて協力的な男性が現れたからなのか、「この男性がかっこいいし、この人の子どもなら可愛く生まれそうだな」という感じで選別したのか、その辺りはどうなのでしょうか?
西山:
「結婚はしなくてもいいけど子どもが欲しいゲイの人」を探しました。「子どもが欲しい」という条件でまず知り合って、そこから友達になった感じです。私が「子どもが欲しいけどレズビアンだからどうしようかな」と思ったように、逆の立場で「子どもが欲しいけどゲイだからどうしようかな」と思っている人もいるはずで、一石二鳥じゃないですけど、表裏一体というか、子どもが生まれてくることがその人にとってうれしいことで喜ばしいことの方がいいと思っていたので、子どもが欲しいと思っている人を探しました。あとは「結婚しない」など、そういう条件もあてはまったのが理由です。
川崎:
ネットなどではなくて交友関係の中で見つけられたのですか?
西山:
いや、ネットです。ネットで知り合ったというと、「出会い系」みたいな、何か変な妄想が働いてしまうと思うのですが、ネットで知り合ったこと自体はきっかけでしかなく、その後友達になって一緒に映画を見に行ったりなど、関係は作っていきました。海外の精子バンクなどから精子を取り寄せたりして子どもをもうける人もいるのですが、私の場合は英語があまりできなかったのと(笑)、子どもの背景を考えた時に、会ってもらえる近い関係の人の方がいいと思いました。私はずっと日本で暮らしていて、あまり英語なども話せず、すごく狭い世界で生きているので、海外から精子を取り寄せると、子どもの民族性というか、そういう背景を自分が何も与えてあげられないというところを深く掘り下げる自信がなかったということもあって、海外の精子バンクはやめておこうと思いました。
(注5)結婚歴のあるひとり親家庭に適用される「寡婦控除」を、非婚のひとり親家庭に対しても「みなし適用」すること。
施設 = 不幸? 一般家庭 = 幸せ??
川崎:
続いて新井さんに伺います。今は親の立場からお二人の経験を聞きました。上原さんも西山さんも、いろいろな自分の考え方に従って、それを簡単に手放すのではなくて、「自分はこうしたい」ということをきちんと大事にして、子どもを産み、そして育てておられます。誰しも生物学的な父と母は必ずいて、それで子どもが生まれるわけですが、新井さんの場合は、親の在りようがまた違っています。これをいろいろな生き方と括ってしまっていいのか分からないのですが、ある種自分たちで子育てをせずに、いろいろな事情があって面倒を見きれなくなって施設に預けられていく子どもの立場です。その立場から見た場合に、そういう親の生き方をどう捉えて納得する、理解するという経験があったのか教えてください。
新井:
子どもの立場から納得というか理解というか、そういうことをしているのか私の中では分かりません。母と再会したのは14歳の冬です。4歳や2歳で別れた子どもがいきなりこんなに大きくなって登場してきたのに、母も母方の親戚も自分と血のつながっている子どもだと思ってくれていることは伝わってきました。でも私の中では「今さら親ヅラするな」という感じですごく仲が悪くて、私は無視していました。
施設職員とは親子のような関係ではありませんでした。私の施設では職員体制が学校の先生のように1年で担当が変わってしまいます。ですので、やっと一定の関係性が築けた先生とも、担当が変わってしまうと、隣にはいるのですが、「もう担当ではないから頼みにくいな」とか「声をかけづらいな」という雰囲気がありました。「親でもないけど、家族でもないけど・・・」というのが職員との関係でした。それでも特別よくしてくれた先生がいて、その先生に出会うことによって私はすごく変わっていくことができました。
家庭に戻った時は、母親に対する「親ヅラするな」という気持ちと、「この人は私たちを捨てたのに、自分の好きな時だけ呼び出しやがって」というすごい葛藤がありました。今はもう帰化して日本人になっているのですが、当時は自分の国籍が違うことを知って混乱している中で、いきなり「家族」だという人たちに出会わされたことに対するものすごい戸惑いが何年もありました。
当時の私は施設の世界しか知りません。ですので、私の「家族」のイメージはテレビで見るような家族でした。朝起きたらエプロンを着けたお母さんがパンを焼いてくれて、ご飯はみんなで団らんで食べる・・・みたいなイメージです。でも、私が戻った家庭はそれとは全く逆でした。夜にお店をやっていたので、3時とか4時に母親が起きてご飯を作って食べて・・・というように本当にグチャグチャでバラバラでした。母も「自分はきちんとした母親ではない」ということをすごく気にしていて、「死にたい」などとよく言う人でした。「それを聞かされる子どもの立場にもなれよ」とも思ったのですが、その時は「私たちのせいで、私たちを産んだから母親は不幸になってしまったんだ」という認識がずっとありました。それが解きほぐれるというか、「違うんだ」と思えるようになったのが、22歳で働き始めて自立し始めた頃でした。同時に母親との関係性も考えるようになって、心の余裕ができてきてから、「お母さん、ごめんね」みたいなことを思えるようになりました。
テレビでよく「家族と子どもの再会」のような番組をやっていましたが、昔はああいうものは虫唾が走るほど気持ち悪かったです。私と母が再会した時も、そういうテレビ番組のように母が泣いていました。でも私はそういう抱きついてくるような感じがすごく嫌だったので、もう体全体で拒否していました。母は「ごめんね」と謝りながらワーッと泣いていたのですが、こっちは「何がごめんやねん、このクソババア」と思っていました。体と心と頭が全然一致していない状態で、本当に嫌でした。
今は母とは非常に関係性が良いのですが、それがもし「血」というのであれば、私は違うと思います。母からしたら「血縁関係にあるのだから言わなくても分かるだろう」という感じで、「察して」みたいなことを言われたことがあるのですが、私は「何か違うな」と思います。母親に育てられたというよりも、母親も子育ての一部をしたという感覚です。私はたぶん母のことは、理解はしていても納得はしていないと思います。関係性は良好ですが、私の心の中にはまだ全部がストンと落ちていない感じです。遠慮してしまいがちなので、ずっと一緒にいるとお互い疲れると思うし、離れている方が良い関係性があるということも気づかせてもらいました。
川崎:
施設の職員と子どもの比率はだいたいどのぐらいなのですか?
新井:
今は子ども6人に職員が1人という状況です。ただ、職員1人がその子ども6人にずっと付きっきりかというとそうではありません。職員も24時間でローテーションしているので、私の感覚で言うと10対1ぐらいの感覚です。職員も休まないといけませんし、通常業務があるのでずっと子どものそばにいられるわけではありません。6対1という数字は一応厚労省が出しているのですが、実際はそれ以上に職員が足りていない状況だと思ってもらっていいと思います。職員は日常的な生活支援をしながら子どものケアもしなければいけないという、非常にキャパオーバーしている(許容量を超えている)状況です。
施設については、「施設で育った子どもたちの語り」という本が出ています。私も施設で育った子どもの一人として書かせていただいたのですが、里親さんのもとで育った子も書いています。施設についてよく言われるのが、入所中と退所後の生活です。入所中はやはり施設の中での生活のしんどさがよく言われます。退所後については、職員は子どもに寮付きの仕事をどうしても勧めます。それはなぜかというと、親がいなくて保証人になる人がいない子は家を借りられないからです。だから無難に目の届く範囲で寮付きの仕事を勧めるのですが、ほぼ大半が1年も持たずに、半年ぐらいで辞めてしまいます。ただ何の計算もなく辞めてしまうので、会社から「何月何日までに寮を出なさい」という通知が来て、それで寮を出されてそのまま野宿している子にこの数年の間に何名か出会いました。こういう事態を避けるために私はCVV(社会的養護当事者エンパワメントチーム)(注6)の活動をやっているのですが、きっと皆さんは家にいたらあまり考えないであろう、施設の子どもたちが直面している課題はたくさんあります。例えば18歳で施設を出ても、保証人がいなければ携帯電話も持てないので、その子と連絡が取れなくなったりします。またなぜかは分からないのですが、子どもが20歳になったということだけは親が覚えていて、「○○さん、20歳になったのでお母さんにお金を送ってください」みたいなハガキが来たりもします。こういうことも数件聞きました。あり得ないから放っておくように言っているのですが、子どもたちはそんな親でもやはり気になるようです。血縁関係にあるとはいえ親として育てられていないのに、こういう時だけ連絡をするなんて本当にあり得ない話なのですが、こんな連絡でもやはり子どもは親のことをすごく考えてしまって、「あぁ、元気なのかな」みたいなことを言います。こういう事は相談ではなく、日常のつぶやきから出てくることで、聞いたときは「やめとき」とストップをかけています。
川崎:
新井さんのように、母親が見つかって戻されるというようなことは結構あるようです。たとえ虐待をした親であっても、それが本当に血のつながりのある親であり、「引き取ります」と言って現れたら、施設に預けられた子どもは「本当の親と暮らすのは良いことだ」という施設の判断のもとで戻されるという話を聞いてびっくりしました。その辺りについてはどうお考えですか?
新井:
親に虐待されたことが原因で施設に入るケースが今非常に増えているのですが、どんなに虐待した親でも子どもからすれば不思議とやはり「親」なので、どうしても会いたがります。そして今の施設の状況でいうと、子どもが望めば親にはわりと会えます。これもよくあることなのですが、どんなに酷い目に遭って施設に来た子でも、小学生ぐらいまでの子は家に帰りたがります。中学生ぐらいになってくると現実が分かってきて「あんな親のところへは戻らない」みたいなことを言います。
施設では、金、土、日の連休や夏季休暇、お正月などの長期休暇などに親が迎えに来れば家に帰れます。その時に子どもが「帰りたくない」と言っても、先生からは「帰れる家があるのは幸せなことだから」などと言われて、極力帰る方向で話が進んでいきます。私の母が見つかった時も「帰れるところがあるのは幸せなことで、どんな親でもお母さんはお母さんなんだから」と言われました。私はその時「はぁ?」と思ったのですが、結局そういう理由で引き取られることになりました。そういうことが未だにあるのは実感しています。ある小学生の男の子がネグレクトされているのに「やっぱり帰りたい」と言って帰っていきました。でも結局家庭の中で食事を与えられずに、すごく痩せて2日後にまた施設に戻ってきたということがありました。それでもその子はまだ帰りたいようで、たまに親が買ってくれるものを「お母さんに買ってもらった」と言って見せにきたりします。そういう様子を見ると切なくなります。このように、虐待が原因で施設に入ってきたのに先生から「帰るところがあって幸せなんだよ」と言われて帰されてしまうという話は、昔ほどではなくなりましたが、今でもたまに子どもから聞きます。昔はそれでよく帰らされたという話をよく聞きました。「帰りたくない」と泣き叫んでも、それでも「帰れ」と言われるので、「○○先生は私の事を分かってくれない。恨むわ」という子どもにも出会いました。
川崎:
子どもの状況一つひとつを考えないで、「血のつながりのある親の元に帰るのが幸せ」と考える人が施設の中には多いということですね。新井さんは、自分の体験から「そうではないのではないか」と思うようになったのですか?
新井:
私は今CVVの活動をライフワークとしてやっているのですが、その活動と出会ったのがきっかけの一つです。職場は北芝という被差別部落地域でまちづくりの仕事をしているのですが、そこの人たちは常に「帰ってこいよ」と言ってくれて、私のもやもやを全て解消してくれました。「家族にはこんな形があってもいいんだ」と思いました。「北芝の母」や「北芝の父」みたいな人がたくさんいて、「失敗しても帰ってこい」みたいなことを言ってくれます。でも施設には「失敗したから帰る」というわけにはいきません。
私は今、施設からすれば超エリートらしいです(笑)。働いていて、税金を納めているかららしいのですが、そんな中でよく言われるのが「結婚しないの?」です。「女の幸せは結婚すること」と言われてきました。ですので、未だに「結婚しないのか」ということはすごく言われます。また、「子どもを持つことが幸せなんだよ」ということも言われていて、「この先生たちは古いなぁ」みたいなことを思っていました。先生たちも40歳ぐらいで若いのにすごく古い考え方だと思うのですが、そういう価値観の中でずっと育ってきた施設時代でした。「男はこう、女はこう」、「お兄ちゃんはこうしなさい」、「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」、「男の子なんだから泣いたらダメ」、「男の子は黒いランドセル、女の子は赤いランドセル」というような、そういう固定観念の塊の中で大きくなっていった末に私の場合は家庭引き取りがあって、先ほど申し上げたように生活がグチャグチャになったのですが、CVVの活動や北芝の人たちと出会うことで、「こういう多様な家族があってもいいんだ」と思えるようになりました。それで私自身がすごく楽になったというか、人前でこうやって話をしても全然しんどくならないし、「ある程度大丈夫になった」という感じです。
川崎:
「親がいて、子どもを育てて」という、ある種「それが当たり前」と語られてしまう形から外れたところにいる子どもたちに対しても、同じように「結婚が良し」とか「家庭を作ることが良し」という価値観の押し付けが起こっていることはすごく罪深く感じています。他の皆さんもこのことについて何か質問などあればお願いします。
上原:
施設でも「血のつながった親の元に帰るのは良いことだ」という考え方が昔ほどではないにせよ根強いとのことでしたが、世界的に言うと日本は養子縁組の数が少なかったり、施設で育っている子どもたちが多いことが国会などでもよく取り上げられています。実際には里親制度などがあるわけですが、施設で育った子どもたちにとって、そういう週末里親や休日里親などの制度で迎えてくれる家庭に行くことは、成長面ではどういう影響があるのでしょうか? 施設で育つより、そういうところで育った方がやはり子どもにとっては良いのですか?
新井:
私は施設で育つことが不幸だとは思わないですし、一般家庭や里親で育つことが必ずしも幸せではないと思っています。施設の中でいうと、里親の元に行ける子どもは結構限られています。なぜなら実親の承諾を得ないとまず無理だからです。どれだけ虐待をしていたとしても親権は実親にあるという問題がありますし、子どもはどれだけ酷い親でも実親には懐いてしまいます。それに施設側も、子どもに対して「里親の元に行ったらどう?」という提案すらあまりしないと思います。週末里親は私や川崎さんのような独身女性でもできます。週末や夏休みなどにだけ迎えに来て、子どもと遊んで泊まってまた施設に帰ります。これは子どもが希望したり、里親になる側が施設に申し込んで、施設側に「この子はどうですか?」と提案されて了解するとその子どもと面談して、そしてその子どもの了解を得られれば始めることができます。
今は一般家庭で育っているのに三食をきちんと食べていない子どもが非常に多いです。小学5年生なのに2年生ぐらいの体格の子もいたりします。そして孤食もすごく多いので、それだったら施設でみんなと一緒にきちんとモリモリご飯を食べられる方がいいと思ってしまいます。だから家庭がいいのか施設がいいのか、私も分からなくなってきています。昔は私も「施設で育った」ということを人に話すのはすごく嫌でした。「かわいそう」と思われるのも嫌ですし、「逆境を乗り越えてたくましく生きている女性」みたいに色眼鏡をかけて見られることも嫌だったからです。ただ、今はもうこんな時代ですので、家庭で育つことが必ずしも良いことではないとすごく思います。
また、施設には愛情に飢えている子がすごく多いと感じます。女子だと依存性の高い子が多いので、すぐに妊娠して子どもを産んで離婚して、結局育てられないからその子どもをまた施設に入れるという負のループが発生している事も感じました。男子だとチンピラになってしまったり、負にひっぱられやすい状況だと思います。
今お話をしている中で思ったのですが、私は自分でこうなろうとしてなったわけではなくて、全部社会的に措置されて生きてきた子どもだと思います。ですから、私から見ると、西山さんと上原さんは自分で選んだ生き方をされているので、すごくかっこいいなと思います。
西山:
レズビアンという側面から考えると、私の場合、「レズビアンを選んだのか」というと、それはすごくややこしい問題になります。また、「選んでレズビアンになったのか」ということと「レズビアンとして生きていくと決めるのか」ということも微妙に違ったりしてそこもややこしいのですが、そういう意味で言うと、たぶん私に対してすごく「自分で選んで生きている」感じがするのかもしれません。でも、レズビアンとは別の側面で、私が育った家庭というものも存在します。私は母と父が離婚して母子家庭で育ったのですが、そういう部分で気持ちがゴチャゴチャしたこともあります。その側面ではすごく「家族を選べなかった子ども」の気持ちも自分の中にはあります。
上原:
結局どういう家族を作るかという以前に、私自身がどう生きていくのかということがすごく大きくて、それはやはり育った環境にすごく影響されています。私は今、大阪で仕事をしていますが、元々は長野県の田舎の出身です。小・中・高と普通の公立の学校に行っていました。父は学校の教員で、母は専業主婦です。私の母は夫の名字になりました。私の母は働いていなくて、生計は父が立てて母は主婦で子育てをしているという生き方でした。母はそういう自分の生き方に少し疑問を持っていたような節があったので、私は小さい頃から「結婚や出産はしなくてもいいけど、とにかく働いて生きていってほしい。自分で仕事を持って生きていってほしい」ということを実は刷り込まれていました。だから「経済的自立なきところに精神的自立はない」みたいな感じで思っていたので、「ともかく仕事に就く、仕事をし続ける」ということがいちばんの人生の目標みたいなところがありました。私は今35歳なので、就職活動の頃は超氷河期でした。だから就職にも苦労してきたのですが、今振り返ればそういうところの延長に今の「自分の生まれながらの名字のままで働き続ける」という発想があったと思います。やはり育った環境と無関係ではないということは強く思います。
川崎:
自分が生まれて育っていく中で、この父と母との間には少しおかしなことが起こっているということを子どもながらに感じることがあると思います。西山さんはご両親が離婚されたとおっしゃいましたが、私の家では父は泥酔して夜中に帰ってきて翌朝仕事に行かず、母と喧嘩をしていることがよくあり、私が小学生の頃は「なぜこの二人は別れないのか」と思っていました。実際に小学6年生の時に、母に「もう離婚したらいいのに。なんでこんな人と一緒にいるの?」と言った経験があります。自分の中で「なぜ父と母はこうなんだ」という疑問がずっとあったのですが、大学に入ってから部落問題について学び、必ずしもそれが全てではありませんが、いろいろな社会の差別を受けながら父と母は育ってきて、今の父の在りようがあり、母も女性としてそうした社会の流れの中で生きざるを得なかったのではないかと思えた時に、自分が生まれ育った家族を客観視できるようになりました。新井さんは、自分が自立した生活を始めてお母さんの気持ちが少し分かったということでしたが、新井さんが今働いている箕面の北芝というコミュニティの中で、言わば「父」的な、「母」的な温かい目で見て自分を育ててくれる人々に、「自分はどう生きようか」ということを決める中できちんと出会えていることが大きいと思います。自分が「こう生きよう、こう生きたい」と決めるには、自分の生まれ育った家族だけではなく、いろいろな人たちの視点が入ってきた方が子どもは自由に決められるのではないかと思います。
(注6)詳細は「CVVのブログ」参照。
名字と親権
川崎:
ここからは、会場の皆さんから寄せていただいた質問に答える形でお話を進めていきたいと思います。まずは上原さんからお願いします。
上原:
「上原さんや西山さんのご両親や親戚の方は、どのように理解されていったのですか?」というご質問です。私の母は、先ほど申し上げた通り「結婚して主婦になった」という人生に少し疑問を持っているような節があったので、私が仕事を持っていることや別姓を選択することについて、「やめろ」などということは言わなかったです。言わないと予想されたので、事実婚することは「相談」ではなく、「報告」しただけです。夫も同郷なのですが、夫の両親は心配しました。もちろん私たちが婚姻届を出さずに結婚することは知っていたのですが、妊娠した時に夫の母から「夫婦の間では良くても、孫の社会的な面での不安はないのか心配だ」といったことが書かれた手紙をもらいました。その時は、事実婚について法律的に詳しく書いてある本をコピーして返信に同封したり、事実婚と法律婚では夫婦の間に相続や扶養控除について違いがあるのは事実なのですが、事実婚の夫婦の子だからといって、子どもが社会生活上の不利益、例えば保険証がもらえないとか、保育所に入れないとか、そういう不利益を被ることはないと説明しました。
今日のイベントの準備をしている時に、当時私が夫の両親へあてて書いた手紙の下書きが残っているのを見つけました。それを読み返して、当時の私はこんなことを考えていたのかと思ったのですが、その手紙には「今の時代、婚外子というだけで差別されることはないと自分は思っている」と書いてありました。私たちは法律婚ではないので、子どもは婚外子になります。婚内子は法律婚をしている夫婦の子ども、婚外子は法律婚をしていない人の子どもです。だから西山さんのお子さんも非婚の子なので婚外子になり、私の子どもも婚外子です。そしてその手紙には、さらに「差別があるのではないかと恐れて、婚外子を避けるために法律婚をするとすれば、それは婚外子を不当に差別する側に自らが回ってしまうのではないか」と書いてあって、「そんなに深刻に考えていたんだ」とびっくりしました。相続差別の問題もそうですが、当時「親の結婚の形で子どもに不利益があるべきではない」という考え方に仕事の中で出くわすことが多くありました。だから、「差別があったらどうしよう」と思うのはやはりおかしいと当時考えたのだと思います。それは今も思っていますが、そういうことを丁寧に一つずつ説明していって、最終的に夫のお母さんは「応援する」と言ってくれるまでになりました。
今、実際に子どもを2人で協力して育てている中で、別姓について夫の両親と詳しく話し合ったことはないので、夫の両親も「大丈夫だ」とまでは思っていないかもしれませんが、少なくともその後「大丈夫か?」などと言われたことはありません。結局今こうやって暮らしていると、名字とは「外から呼ばれる符号」みたいなものという感じがします。家族関係の中ではあまり出てこないというか、夫のお母さんは私のことを「上原さん」とは呼ばないじゃないですか(笑)。そんな他人行儀な言い方はしませんよね。
私と同じように夫婦別姓で子育てをしている方が質問をしてくださっています。「事実婚で夫婦別姓にすると『子どもの名字をどうするのか』『親権をどうするのか』という問題が出てきます。事実婚を選んだ人たちはどういう選択をしているのですか?」というご質問です。先ほどは詳しく話さなかったのですが、実は「これだけは勉強不足だったな」という反省があります。最初にご説明しました通り、子どもは生まれると同時に私の戸籍に入ります。私の名字は「上原」ですから、子どもの最初の名字は「上原」でした。うちは夫の希望を尊重して、子どもには夫の名字を名乗らせることになったので、家庭裁判所に行って「子の氏の変更許可申立て」をしました。書類を書いて家庭裁判所に申請して、裁判官に認めてもらったらその書類を役所に持って行って子どもの戸籍を私の戸籍から夫の戸籍に移すという手続きをします。その時に、家庭裁判所の受付の事務の女性に「親権がない人の戸籍に入れる場合、裁判官が認めないケースがある」と言われて、「親権を移してから手続きしてください」と言われました。親権とは、子どもを監護して、子どもについてのいろいろなことを決める権利です。親権は法律婚をしていると両親にあるのですが、婚姻していないとどちらかにしかありません。要するに、元々私の戸籍に子どもが入っているので親権は私なのですが、わざわざ夫に親権を移してから子の氏の変更手続きをしろということです。当時は私も勉強不足だったので言われた通りにしました。親権は役所で書類を出せば簡単に移せるので、夫に親権を移して、その親権を移したことの証明と同時に子の氏の変更の申し立てをしました。だから今、うちは子どもの親権は夫にあって名字も夫の名字です。子どもの戸籍には私の名前が記載されていますが、日常生活の中でパッと示せるような「私は親だ」という証明がないのです。子どもが1歳になった時に、長野の実家で子どもがお年玉をもらったことがありました。それを貯金してあげようと思って、郵便局で子どもの通帳を作ろうとしました。保険証の名前が私は「上原」で子どもは「アサクラ」なので、郵便局の人に「どういうご関係ですか?」と聞かれたら困るなと思って、私はわざわざ戸籍を持っていきました。子どもの戸籍には「父:アサクラ○○」と夫の名前が書いてあって、「母:上原賢子」とも書いてあるので、これを見れば私がこの子を生んだ母だということが分かるわけです。だから私はわざわざ子どもの戸籍を持って行ったのですが、実はそこに「親権者は父」と書いてあり、それが仇になりました。郵便局の人が中央のセンターみたいなところに問い合わせた後、「お母さん、申し訳ないのですが、親権者でないと子どもさんの通帳は作れません」と言われたのです。私からしたら「えっ?」という感じなのですが、郵便局の人も私と子どものやり取りを見ていたら「この人が育ての親だ」ということは明らかなので、「中央のセンターにはそう言っているのですが、やはり親権者でないとダメと言われて・・・」と言われました。「あぁ、こんなことに遭遇するんだな」と思ったのですが、実は後から人に話を聞くと、親権と名字は元々別のものであり、家庭裁判所の窓口のお姉さんは別に裁判官でも何でもないので、別にそんな人の言う通りにしなくてもよかったのです(笑)。当時の私は本当に勉強不足で、言われた通りにしてしまいました。夫は子どもと同じ名字で、保険証も同じ名字ですから、双方の保険証を提示すれば親権がなくても誰も「親権者ですか?」なんて聞きません。でも私は名字が違うので、実は私の方にこそ親権があった方が日常生活の上では良かったと思っています。それだけが少し失敗したなと思うことです。皆さんもこういうことを実践しようとされる場合はご注意ください(笑)。
もう一つご質問をいただきました。保育所などでの保護者のサインのことで、「どうして『母・上原』を選んだのですか?『父・上原』でも『親・上原』でもよかったのではありませんか?」というご質問です。このご質問は、法律婚をして夫が私の名字になってもよかったのではないかという意味だと思うのですが、確かにそういう選択もあったと思います。別姓を選んだ理由の一つは、私は私の名字が大事だったと同時に、やはり私も夫の名字が大事だったからです。だから別に私の名字に合わせてほしいとは思っていなくて、「私の名字も大事だけど、あなたの名字も大事です」という考えが基本的なスタンスとしてありました。
私への質問は以上ですが、他のパネリストの方から、「どうして上原さんは子どもの名字を夫に譲ってもいいと思ったのか」、逆に言えば「どうして夫は子どもの名字を自分の名字に合わせたいと思ったのか」ということを聞かれました。今日は会場に私の夫が来ているので、「なぜ事実婚に賛成したのか」ということも併せて答えてもらおうと思います。
アサクラ氏:
上原の夫のアサクラです。まず、なぜ私が事実婚を選んだかというと、自分が「誰とどうやって生きていくか」という時に、彼女の「事実婚をしたい」という考えを尊重したことが唯一の理由です。私はあまりそういうことは考えたことがなかったのですが、名字を捨てなければいけない、結婚をしたらどちらかが相手の名字に合わせなければいけないということに対して、自分が逆の立場だったら、もし「明日から上原になれ」と言われたら、私もやはりそこに引っ掛かりは感じるだろうと思いました。それで彼女の気持ちが分かり、それを解決する方法として事実婚を選びました。
なぜ子どもの名字を「アサクラ」にしたのかということについては、私も今考えれば「上原」でもよかったのかなと思います。しかし、やはり世の中そんなに簡単に理解してくれるわけではありません。私の親が心配していたこともありますので、とりあえず1人目の子どもは私の名字にしてもらうということで「アサクラ」にしました。その方がなんとなく周りにも「事実婚ですけど、子どもの名字は『アサクラ』なので僕の子どもです」と説明しやすいですし、やはり田舎なのでそこまで全部押し通していくのもどうかと思いました。だから2人目ができたとして、その子の名字が「上原」になっても、私自身はそれでいいと今は思っています。ただ、そうするときょうだいで名字が違うことになり、それについて子どもたちがどう考えるのかという問題はあるので、そこはまた話し合っていけばいいと思っています。
上原:
ありがとうございました(笑)。皆さんからいただいた質問の中で、親権と名字について聞いてくださった方がおられました。「うちは夫婦別姓で子ども同士も別姓です。上の子が小学校に上がりました。今のところ妻の扶養控除が外れたこと以外は快適です」と書いてくださっています。これは夫婦別姓の事実婚をして、子どもさんが複数いらっしゃってそれぞれの親の名字を名乗っているということなのでしょうか? 特に差し支えなければ、せっかくなのでどんな感じで生活していらっしゃるのか少しお話を伺えたらと思うのですが、いかがでしょうか?
会場(夫):
うちは上の子が妻の名字を名乗っていて、下の子が私の名字を名乗っています。私たちの場合は元々法律婚をしていまして、子どもが生まれた後、昨年の夏に離婚しました。その時から子どもの名字をどうするのかということは考えていました。結論から言うと、上の子は妻の姓を、下の子は私の姓を名乗ることになったのですが、元々は私の戸籍に全員入っていたので、上の子が妻の名字を名乗るにあたっては、やはり家庭裁判所に申し立てないといけませんでした。私たちの場合は、幼稚園の時から上の子にはいずれ妻の姓を名乗らせるということで、元々通称名として妻の姓で届けていました。戸籍上の名前は違うのですが、幼稚園の入園届は子どもの名前とそれを届け出る保護者の名前を書けばいいので、保護者として妻が妻の名字で書いておけばいいのです。幼稚園は3回転園しましたが、それで全て何ら問題はありませんでした。そういう実績もあったので、家庭裁判所に申し立てる時も全く問題なく認められました。ちなみに、私たちの場合は名字と親権を逆にしています。
上原:
なるほど。
会場(妻):
私たちも家庭裁判所に申し立てる前に、窓口の人に「親権が違うと名字を同じにしづらい」と言われました。
上原:
やっぱり言われたんだ(笑)。
会場(妻):
そう言われたのですが、名字も違うし親権もないとなると、その後の親子関係の証明がしづらくなります。また、子どもに対しても、愛情がなくなったから親権も名字も手放したわけではなくて、「気持ちはあるんだよ」ということを伝えたいこともあって、私と名字が同じ子どもに対しては夫の親権で、夫と名字が同じ子どもに対しては私が親権を持つということで申し立てました。でも、やはりすんなりとはいかなくて、何回か裁判所と書面のやり取りをしました。私たちは社会的に別姓が法律化されていないので仕方なくペーパー離婚(注7)を選んだだけであって、2人で共同して愛情を持って子どもを育てることには間違いがないこと、そしてそれを証明するための親権であることを何度かやり取りして認められたという経緯があります。
上原:
ありがとうございます。一つ質問をさせていただきます。例えば1996年に国会で議論されたまま止まっている選択的夫婦別姓制度は、「子どもの名字はどちらかの名字に統一する」と法制審議会が確か答申していると思います。そんな中で、今それぞれのお子さん自身は名字が違うということをどう受け止めているのですか?
会場(妻):
特に普通に・・・(笑)、何も疑問は持っていない様子です。友達もそのように思っているようです。最近の子どもたちはお互いのことをフルネームで呼ぶみたいですね(笑)。名字と名前で一つの名前みたいな感じです。
会場(夫):
先日、下の子と一緒に上の子のお迎えに行った時に、たまたま他の子どもたちと一緒になることがあって、上の子が同級生の友達に下の子のことを聞かれていました。「これ弟なの? 名前はなんていうの?」って聞かれて、「△△っていいます」と上の子が答えると、「じゃあ□□(妻の名字)△△君なんだ」と言われたのですが、上の子は何の躊躇もなく「いや、●●(夫の名字)△△です」と答えて、お友達も「あっ、そうなんだ」という反応をしていました。子どもたちの方がむしろニュートラルに受け止めているような印象はあります。
上原:
ありがとうございました。今後の参考にさせていただきたいと思います。
(注7)いったん婚姻届を出した夫婦が何らかの理由により離婚届を出すものの、その後、今までと何ら変わることなく生活していくこと。
血縁がなくても生活できる
西山:
私の方にも「ご両親や親戚の方はどんな反応をされたのですか」というご質問がありました。私は元々同性のパートナーがいることは話してあって、私の方の親戚の集まりなどにもパートナーと一緒に出掛けたりしていました。ですので「同性のパートナーだ」という認識は親や親戚の中にあったようです。ただ子どもを持ちたいと思っている話は全然していなかったので、ある日突然「実は子どもができました」と話をして大変びっくりされました。でも、それはそれとして受け止められています。「一人で育てていくとか言えば心配だけれど、パートナーもいるし、まぁ安心」という感じで言ってくれていました。私の80歳の祖父が反対するのではないかと思っていたのですが、意外と全く反対はされず、すごく気にしてくれています。パートナーのことも「相棒」と認識しているようです。だからそんなに困ったことはありませんでした。
パートナーが自分の親に「西山さんに子どもができた」という話をしたら、最初は「えっ?!」という反応をされました。それは多分、私とパートナーは恋人同士なのに、私に男の彼氏ができて自分の子どもは捨てられるのではないかと一瞬にして想像したのだと思います(笑)。それで「子どもはゲイの友達に協力してもらって、西山さんと私はこれからも一緒に暮らして、子どもは一緒に育てていきます」と説明したら納得してくれたようで、今も遊びに来てくれたりします。
また質問の中で、パートナーの気持ちを聞いてきた方が何人かいらっしゃいます。「パートナーの方も同意してのことだと思うのですが、西山さんが子どもを持ちたいと思っていることをパートナーの方にはどういうふうにお話ししたのですか?」、あるいは「子どもとパートナーの間には血のつながりがないと思うのですが、そこに関して複雑な気持ちはないのですか?」という質問をいただきました。元々パートナーと私は付き合う前からすごく長い友だちだったのです。私が子どもを産みたいと思っていることも「きっとこの人は一人でも産むぐらい本気だ」とパートナーは思っていたので、お付き合いを始める時から私がいつか子どもを持って、パートナーはそこに関わっていくのだなという気持ちでいたようです。
血がつながっていないということに関しては、たぶん私もパートナーもあまり何とも思ってないんですよね。血縁というものをそんなに重視していなくて、血のつながった遠い人よりも、日々の生活を共にしていることの方が大事だと思っています。私とパートナーは(同性婚が認められていないために)結婚できないので、世間の人がよく言う「ちゃんと籍を入れて・・・」みたいなものとは元々無縁なのですけど、「別に“きちんと籍を入れて”なんかいなくても生きていけるよなぁ」とか「別に血のつながりがなくても生活していけるよなぁ」という辺りの感覚がかなり近くて、血のつながりに関してはあまり重要視していません。ですので、複雑な気持ちということは、ほとんどないです。元々そういうものというか、同性同士なので2人の間に2人の血を分けた子どもができるという前提がありません。だから「誰かの協力を得て子どもを持つ」という頭で初めからいるので、そこに関して複雑な気持ちはなく、「まぁそういうものだ」と思っています。
「保育園の保育士さん達はパートナーさんを一緒に暮らしている友人として見ているのですか? もしかしてレズビアンのパートナーの可能性もあると思っているのではないでしょうか?」という質問をいただきました。これはどうでしょうね(笑)。私が思うに、今はまだ世の中にレズビアンという人がいるという認識が甘いというか、あまり可視化されていないと思うのです。テレビにレズビアンの人が出てくることはそんなにないし、ドラマの中にレズビアンの人が出てくるわけでもなく、そんな人が周りにいるとはあまり思っていない方がたぶん多いです。だから、保育士さんの雰囲気からすると、たぶん本当に単に友人だと思っているようです。今はまだ通いだして2ヶ月ぐらいなので、私とパートナーと子どもがどういう生活をしているのかということを共有する場面はそんなにありません。今後、日誌のやり取りをしたり話したりする中で、パートナーも養育者としてがっつり子どもに関わっていることをじわじわと分かって、感じてもらえたらいいなと思っています。ちなみに、パートナーは職場ではカムアウトしていません。職場でも保育園と同じように「友人と暮らしていて、友人に子どもがいるので一緒に協力しています」みたいな感じで言っているのですが、そこでも誰もレズビアンだとは思っていないみたいです(笑)。たぶん同性パートナーや同性婚などが政治の重大な要素になるような社会だったら、その人たちも私たちを見て「もしかしてレズビアンじゃない?」と思うと思うのですが、最初から「そういう人がいる」ということを知らないと気づかれないのだと思います。それは、私としては楽な気持ちと複雑な気持ちと半々ぐらいです。もっと可視化されている世の中だったら、「私たちは同性カップルで一緒に子どもを育てているんです」と言っていくかもしれませんが、今はのらりくらりと、隠れたり少し出たりして、試行錯誤しながら生活しています。
何があっても、ずっと関わり続ける
新井:
私には施設に関する質問が多かったです。児童養護施設の職員に求めることや職員との関係性、どういった施設がいいのかといったことや施設の改善点などについてのご質問をいただきました。これらのご質問に対する私のお答えは、あくまで私が個人的に思うことであって、施設の子どもが全員そう思っているとは一概には言えないと思って聞いていただきたいと思います。
施設の職員に求めることや職員との関係性についてですが、私たちの時代は家に帰れない子どもたちを先生が特別に自分の家に連れて帰ってくれることがありました。例えばお正月などは私は弟と2人で過ごすことがあったので、そういう時は先生が自分の家に連れて帰ってくれました。あとは身銭を切ってご飯を奢ってくれたりもしました。しかし、今は子どもたちがあまりにも多すぎて、夏休みもお正月もずっと施設にいるという状況が続いています。そんな中で先生が自分の家に連れて帰ったりということを一人ひとりにはなかなかできません。すごく失礼な言い方にはなるのですが、「職員としての関わり」しかできないということは施設の職員の方が言っていました。「あなたたちにやってあげられたようなことは、申し訳ないけど今はできない。やってあげたい気持ちはあるけど、先生たちにも子どもがいるし、体力の限界もあるからできない」と言っていました。
また、子どもたちがすごく甘えてきても、方針的に「抱っこはダメ」という施設もあります。2、3歳の子はやはり抱っこをせがんできます。でも「一人を抱っこしてしまうと、みんなを抱っこしなければいけなくなる」という理由で「抱っこはしない」という方針の施設もあります。私は個人的に関わっている部分とCVVの活動として関わっている部分があるので、そういう施設に行ってそこの職員さんを前にしても私は子どもたちを抱っこします。抱っこのような愛情の伝え方は子どもたちにとって大事なことだと私は思っているので、私は抱っこをします。
今の話に関連して、「幼少期から孤独感、自分は一人ではないかという思いを抱えてこられたのではないかと感じます。また現在関わっておられる子どもたちも愛情不足、共依存(注8)に陥っているケースがあると思いますが、その欠落している部分をどう見て埋めていけばいいとお考えですか?」というご質問もいただいているのですが、その埋めていく部分は実際私にも分かりません。でもやはり子どもたちも人間なので、私は全部感覚でやっています。子どもたちが今触れたいとか甘えてきているなと思ったら、私はそのまま受け入れています。「なんで今日はこんなに“甘えたちゃん”なの?」と聞いて、「え~いいやん、別に。あかんの?」みたいなことを素直にやってきてくれるうちは、私はベタベタしておこうと思っています。
女の子の場合はやはり共依存に陥るケースが少なくありません。全員が全員ではありませんが、やはり多いなとは思います。それはなぜかと私の中で考えた時に、原因はやはり愛情不足であると思うのですが、その愛情を求めるには異性がいちばん手っ取り早いのではないかと思います。ですので、別に好きではないけど体を開くみたいなことは、わりとよく高校生ぐらいの子どもから聞きます。だから、自分のことを大事に思ってくれる人に対してはわりとみんな心をオープンにしてしまって、その境目がなくなった時に危険な状況に陥りやすいというところまで子どもたちは気づいていないという、その恐怖感は私の中にもあります。私はなぜそうならなかったのかというと、私は自分自身も親と同じように自分の子どもに虐待やネグレクトなどをしてしまうのではないかという恐怖心がすごくあったからです。例えば恋人ともし付き合っても、すごく卑屈な言い方になりますが、私のような捨てられた子どもが誰に好かれるのかみたいなことを思っていて、全く結婚願望はありませんでした。そして施設から「結婚しない=不幸」みたいなことを言われるたびに、「それもどうなのかな」とずっと考えながらも言い返せないでいました。先生の言うことは結構絶対的なところがあるので、そういうボス的な存在の人にはあまり逆らって言えず、いつも聞いているだけでした。
施設での生活について、「学校に行かないと施設を変えられるというお話でしたが、そこをもっと詳しく知りたいです」というご質問がありました。これは先ほどの私の話し方が悪くて、児童養護施設に入所する条件が学校に在籍していることなので、施設を移るというよりも、施設を出ていかなければならないことになります。「移る」というのは措置変更といって、まだ他に行く場所があって安心なのですが、「出ていかなければならない」という状況にするのは、私は違うのではないかと思っています。児童養護施設は学校に在籍していることが基本的な条件で、自立援助ホームは学校に行っていないことが入所条件の一つなので、その点については児童養護施設とは異なります。
「どうすれば施設の現状が良くなるのか」とか「施設の課題は何か」ということは今よく言われますが、私は施設を批判するつもりはありませんし、先生を批判するつもりもありません。「施設に入って良かった」という子どもももちろんいます。親に食事を与えられず、お風呂にも入れなかったり、また例えば歯を磨いたり顔を洗ったりという、いわゆる当たり前の教育を受けてこなかった子どもたちが、施設に入ることによって、朝はきちんと起きてご飯を食べて歯を磨いて外出するという基本的な生活の流れを身に付けることができます。そういうことを学べる場としては、私は施設に入ってすごく良かったと思っています。しかし、そういう規則正しい生活を誰もがしているわけではありません。私は施設での生活が全てと思っていた中で家族に引きとられていったのですが、家族との生活は施設とは真逆でした。朝はご飯がなく、昼も適当で、夜はお店を手伝わなければいけないからかきこんで食べるというような生活の形を経験した時に、家庭に対して「施設と違うことをやっている」という不満感がすごくありました。「みんなでワイワイ食べずに、栄養のバランスも考えていない適当な食事」という不満感がすごくあって、「やはり家庭はテレビの世界の中のものでしかない」「自分はこんな家族になるものか」とその時は思っていました。その後、「いろいろな家庭があっていいんだな」「正解の家族なんてないんだな」と思えるようになってだいぶ楽になったのですが、その時に「こうしないといけない」という、あるべき家族の姿にすごく自分が固執していたことに気づきました。女性同士が一緒になって子どもを授かる家庭もあれば、シングルでずっと生きている人もいます。結婚することだけが幸せなのではないと思えるようになった今の自分はすごく素敵だと思えるようになったので、そこは家庭に引き取られて良かった部分だと思います。私にはきっとそう思えるアンテナみたいなものが立っていたから、それをキャッチして受け止めることができたのだろうと思っています。
「施設によくあることをもっと聞きたい」というご意見も寄せられました。結婚に関して施設によくあることというと、子どもたちはみんなすごく結婚したがります。それはなぜかというと、施設からそう言われることもあるのですが、子どもたちは「結婚して温かい家庭をきちんと作って残す」ということにすごく憧れていて、結構若くして結婚する子が多いです。あと、施設の子どもたちは携帯電話などは持てません。ただ、規則として絶対に持てないというわけではなくて、携帯を持てる条件があります。それは、高校生以上でバイトをしていて学校に休まずに行っていて貯金があって、なおかつ親が保証人になれることなのですが、最後の「親が保証人になれるか」というところで断念する子が結構います。携帯が持てないとなると、施設の電話にかかってきます。高校生ぐらいになると自分が施設で暮らしていることを学校にカムアウトしていない子が多いのですが、自分宛ての電話に「○○学園です」とか「××寮です」とか「△△ホームです」と言って施設の先生が出るので、みんなそれを嫌がって電話番号を教えなかったりしています。逆に小学生や中学生だと校区があるので、その施設の子は全員その学校へ行きます。だから元々全員知っています。逆に良かった点としては、うちの施設はいじめに遭いにくかったのです。なぜかというと、「○○施設の●●ちゃんだから、いじめたらそこの年上の先輩が復讐しに来る」みたいな感じで思われていて、全くいじめを受けることはありませんでした。これはありがたいなと思いました。
川崎:
新井さんはそういう自分の経験を活かして、糧にして、今後こういうことをやりたいとか、または今実際に動いてらっしゃることがあれば教えていただけますか?
新井:
やりたいことはたくさんありすぎて自分でもよく分からないのですが、とりあえず週末里親のようなことができないかと思っています。週末里親はシングルの人でもできます。私もシングルなので一人で生きているのですが、それでも例えば週末里親として2ヶ月に1回子どもと一緒にUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)に行くなどして家庭の雰囲気を味わわせることはできるので、それはいずれやりたいと思っています。今やっている活動の中でいうと、週末里親ではないのですが、知的障害や発達障害を持ったある小学2年生の男の子と月に1回、朝から夕方ぐらいまで、ご飯を食べて外出して・・・ということをさせてもらっています。それがすごく楽しくて、月に1回でもこういう経験を一緒に共有するのはすごく良いことだと思っています。大人を独り占めできる機会は施設にいるとなかなかないと思うので、大人との関係性づくりは非常に大切だと思います。
私は「週末里親3万人」を目指しています。今、児童養護施設には3万1000人の子どもたちがいます。誰か一人でも家族以外で関わってくれる大人がいれば、単純に子どもたちは変わるのではないかと私は思っています。「あなたのことはずっと見ているよ」みたいな、ストーカーの如くすごく強いメッセージを出して(笑)、子どもたちは「来るなよ!」みたいな、「本当に自分のことが好きなのか?」というお試し行為もたくさんするのですが、それでもずっとひたすら何があっても「あなたとはつながっておくよ」というメッセージを出し続けることによって、関わり続けることによって、子どもたちは変わっていくのではないかと私は思っています。だから血縁ではなく、大人とのこういう関係性がすごく大事だと思います。
また、社会的養護や児童養護施設について全然正しい理解がされていません。私も22歳の時に出版社で働き始めたのですが、「児童養護施設の出身なのに障害があるように見えないね」と言われました。私はその職場では「児童養護施設の出身なんです」と思い切ってカムアウトもがんばったのですが、「新井さんって知的障害なの? 見えないね」と言われました。児童養護施設の「施設」だけを見て、「少年院みたいなところでしょ? 何をしたの?」みたいなことを言われていじめが始まって、1年足らずで辞めてしまいました。こういうふうに正しい理解が今もされていないと実感しました。施設は子どもたちにとっての家庭であり当たり前の生活の場なのに、子どもたちはカミングアウトのタイミングにすごく悩んでいます。恋人ができても施設のことを言ったら嫌われるのではないかと悩んでいるという不安な気持ちもあるようです。
(注8)自分と特定の相手がその関係性に過剰に依存する、その人間関係に囚われている状態。相手から依存されることに無意識のうちに自己の存在価値を見出し、共依存関係を形成し続けることが多いと言われる。
自分にとっての幸せを選択していく
川崎:
西山さんにお伺いしますが、これまで生きてこられた中で、いろいろ足を引っ張られるようなこともあったと思います。そういうことをどうやって乗り越えて、自分のやりたいようにやってきたのでしょうか? そして今日は「家族」がテーマですが、今後いずれ子どもが大きくなって育っていけば、またその子どもも別の家族を作るかもしれませんし、また関係性も変わっていくと思います。西山さん自身は、今後どういう関係を作りながら生きていきたいのか、そういうイメージがあればお願いします。
西山:
自分がレズビアンだと気づいた時に、いわゆる普通のメインストリームな生き方はたぶんできないと思ったので、それだったらこのままなんとか頑張って生きていくしかないと思いました。普通になりたいというか、普通に合わせて生きようとするのは無理だと思っていました。だから逆に好きなようにやってみようと思えたのかもしれません。
これからどんな風に生きていきたいかということですが、今暮らしているのは恋愛関係で結ばれた2人と私の血縁の子どもという、すごく分かりやすい形です。ふんわりした話になるのですが、本当はもう少し緩い感じの家族で、もう少し広げた感じのイメージで生きていけたらいいと思っています。私は人とつながることがなかなか苦手というか、人とつながりを持って関係を作っていくことに対して結構シャイだったりするので(笑)、積極的にしたいけどできない部分があります。ですので、その部分をもう少し広げていきたいです。
川崎:
私は上原さんの生き方はすごいなと思っていて、上原さんのような人がもっと増えてほしいと思っています。そうすれば、みんなが生きやすい世の中になると思います。上原さんはいろいろなことを調べながらやってこられました。先ほどの親権のお話のように失敗されたこともあると思いますが、その辺りのお話をお願いします。
上原:
基本的にはできることをやっていこうという感じです。3年前に子どもを出産するにあたって、すでに事実婚で子育てをしている女性を探して、直接話を聞きに行きました。その方は、「子どもが毎日きちんと食べられて楽しく過ごしていけることが何よりいちばん大切だ」とおっしゃっていて、「どんな家庭でも子育てにおける困難にはいろいろ直面する。事実婚であること自体は大した問題ではない」と言われました。事実婚での子育てで困ったことはないのか聞きに行ったのに「大した問題ではない」と言われて、その時は励まされつつも「本当にそうなのかな」という思いもありました。しかし、実際に共働きで子どもを保育所に出して毎日を過ごしていると、結局どちらが子どもの迎えに行くかとか、子どもに土日に何をさせるかとか、結構そうしたことで慌ただしく日々が過ぎていくので、その人が言っていたことは当たっていたかなという感じがします。いずれ子どもは「なぜ名字が違うのか」と聞いてくると思います。今すでに子どもは「ママは『上原賢子』、パパは『アサクラ○○』」と言っているので、私は「アサクラ」ではないということは分かっていると思うのですが、「名字が違っていても仲良く暮らすことが大事なんだ」ということを伝えていくしかないと思っています。それが事実婚で子育てをしている中で実感することです。
私と西山さんに対して、「法律上の夫婦や家族ではないから、お互いに何かあった時に家族として証明になるものがないことについて、どうお考えですか?」というご質問があったので、一つご紹介したいことがあります。見たことがある方もいらっしゃるかもしれませんが、QWRCさんという、西山さんがスタッフをしてらっしゃるセクシャル・マイノリティの方たちの団体が、こういう緊急連絡先カードみたいなものを作っています(下画像)。これは、自分が事故や事件などのトラブルに遭遇した時に、家族への連絡が必要だったらこの人に連絡してほしいということを書いて携帯できるカードです。私はこれを取材の中で知って、「こういうものがあるのか」と思いました。実は私は手帳の裏に事細やかに「夫はアサクラで、実母は上原○○で・・・」と書いているのです。これは何かあって誰かに連絡しなければいけなくなった時に素早くやってもらうためなのですが、このカードを持ち歩いていれば、いわゆる法律上の夫婦や家族ではなくても、スムーズに自分が望む人に連絡してもらえそうです。
QWRCの緊急連絡先カード(左:表、右:裏) 詳細は、QWRCホームページを参照。
川崎:
他に何か話し足りないことがあればどうぞ。
西山:
先ほどの話は少しふわっとした感じになってしまったので、少し補足します。「同性婚の制度があったら利用しますか?」とよく聞かれるのですが、今は「どうだろう?」という感じでよく分からないのが正直なところです。今の望みとしては、同性同士でも現在の事実婚ぐらいの認識で扱われるようになればいいなと思っています。また、恋愛関係を基本にした2人だけがユニットを組めるということも変な話だと思っています。ものすごく先の話になると思いますが、例えば同性婚ができると、同性間で友情結婚するというケースもありえるのかなぁと思います。友情結婚といえば、今はゲイの人とレズビアンの人がお互いに「親を安心させたい」などの理由で「友情だけど結婚しましょう」という感じで使われています。そうではなくて、「別に恋愛関係にはないけど、税制上有利だったりお互いに助け合って生きていきたいから、結婚しようか」みたいな感じの選択もできるようになればいいなぁと考えたりもしています。
新井:
先ほど自己紹介の時に、多様なハウスを運営している担当の一人と言ったのですが、自立援助ホームを作りたいという気持ちが今年芽生えました。私はそれまでは自立援助ホーム反対派でした。自立援助ホームは15歳から20歳までと年齢が区切られています。だから20歳で出なければいけないのですが、「20歳で出なければいけない」といっても、その20歳の時が一番大変なのだから、どうにかして居続けられないのかと思っていたので、そういう自立援助ホームの制度は嫌いでした。しかし、今は本当に自立援助ホームが足りていません。大阪でも大阪府がやっているところと民間がやっているところを合わせても数ヶ所しかなくて、そこもすでにいっぱいいっぱいな状況です。自立援助ホームは定員が5人以上20人以下という決まりがあるのですが、大概は6人の定員で3、4人しか埋まっていないと聞きました。なぜ6人の定員なのに3、4人しか埋まっていないのか聞くと、定員の数の子どもを見られるだけの職員がいないからだそうです。自立援助ホームに対するアンケート調査によると、自傷行為をする子がすごく多いそうです。自傷行為をした子が一人出ると、その子を見るだけで職員は手いっぱいになってしまいます。そうなると、定員が6人のところに職員が5、6人いたとしても見切れないので、実質の定員を3、4人ぐらいにして運営しているところが多いと聞きました。さらに自立援助ホームには、親がいない子や課題のある子、例えば自傷行為があったり障害を持っていたりという、ケース的に重大な子から優先的に入れられてしまうので、本当に自立援助ホーム自体が手いっぱいになっています。
私が作りたい自立援助ホームでは、職員だけではなくいろいろな人の手によって、地域で子どもを育てていければと思っています。自立援助ホームという枠にとらわれない、地域全体で運営していくハウスのような形にしたいと今年ぐらいから思い始めました。自立援助ホームという制度に乗りながら、その延長でこういうことができればと思っています。また、これまで数ケース、CVVからつながって未成年の子を居住支援先の受け入れにつなげた経緯もあるので、やはりニーズはすごくあるのだなと感じました。
今、北芝にいて感じるのが、「親が子どもを育てるという1対1の関係性ではなくて、地域で子育てができたら」ということです。北芝では、地域で子育てをしている感じがすごくあります。例えば「ご飯を食べに連れて行ってくれる大人」、「優しい大人」、「怖い大人」という感じで、昔の日本ではありませんが、地域のみんなで子どもを一人ひとり見ていけば、大人一人ひとりの負担も分散するし、子どもたちも元気になっていくと思います。ですので、今自分の中では「地域で子どもを育てていこう」ということがテーマです。
私自身が今後こうなっていきたいということは、今は特にありません。夢などもまだよく分かっていないのですが、普通に楽しくお酒を飲んで生きていければいいとしか思っていません(笑)。「こうしなければならない」「こうあるべき」というような決まり感?が私は嫌いなので、それぐらいのノリで楽に笑って生きていければいいやという感じで、これからの5年、10年を生きていきたいと思っています。
川崎:
ありがとうございます。3人のお話を聞いて思うのが、本当に今の日本のいろいろな制度や法律、社会の「これが当たり前」という意識が、個人の生き方を縛る一つの仕組みになっていると捉えられるのではないかということです。「これが幸せです」「こうすることが幸せです」という特定の幸せ像にすごく追いつめられるというか、例えば「生みの親、生物学的に血のつながりのある親の元で子どもが育つ方が子どもにとっては幸せである」「父と母が揃っている家庭で育つ方が子どもにとって幸せである」「障害を持って生まれない方が親にとっても子どもにとっても幸せである」などいって、誰かが誰かの幸せを勝手に決めるというような圧力が今はすごくあるのではないかと思います。
私自身の文脈で言えば、「部落出身者とは結婚しない方が生まれてくる子どもにとって幸せである」ということはよく言われます。「もし相手が部落の人だったら、自分はいいかもしれないけど、子どもが生まれた場合にその子どもが部落出身者だとみなされたら、今はまだなくなっていない世間の差別に巻き込まれてしまうかもしれない。だからその人とは結婚はしない方がいいのではないか」と親や親戚が言ってくることがあるようです。これは二人が法律婚をしたいと考えた場合に起こる問題だと思うので、そもそも自分たちが考えていた法律婚という選択を考え直すこともできるのかな、と。上原さんが先ほどおっしゃった「婚外子になるのを避けるために法律婚を選択するのなら、婚外子として生まれてくる子どもを差別する側に自ら回ってしまう」という感覚を、もう少し共有できればいいのではないかと思います。自分がどう生きたいのか、そして自分にとっての幸せというものを、自分の人生の中でのいろいろな人との関わりの中で考えて選択していく。そんなことをやっていければいいと思います。
私自身もそうありたいと思いますが、ここにいらっしゃる3人のパネリストの方々は、自分のこだわりを持って幸せを掴み取っていこうとしていらっしゃいます。それを一つひとつ具体的に実践していく中で、同じような悩みを持っている人と出会うことができたりだとか、「実はこんなふうに簡単に乗り越えられるよ」とか、そういったことが進んでいけばいいと思います。家族にまつわる固定的なイメージや家族をめぐって囚われているものがあるからこそ、実際はいろいろな家族の中で生きている子どもたちや親たちが生きづらさを抱えているのではないかと思います。
新井さんのお話から言うと、やはりいろいろな大人が子育てに関わっていくことがすごく大事なのだろうと思いました。地域で子育てをすることが実際にはどんどんできにくくなっている世の中だとは思いますが、一方で若い世代からこういう新しい流れがあるということを情報発信して、「こんなところにこういう生き方をしている人がいるよ」とか「こんな取り組みをしている人たちがいるよ」ということを共有していければと思います。今のマスメディアからはなかなかそういう情報は出てきませんが、探せば絶対に同じようなテーマと向き合っている人たちがいると思います。
皆さんがそれぞれの場所で、今日のタイトルにあるように「誰とどんな風に暮らしたい? 自分の幸せってなに?」と立ち止まって考えることが、子どもたちや親たちを含めた、私たち自身の生き方を自由にしていけるのではないかと思います。これで本日のイベントは終わります。ありがとうございました。